デッドレコニングの夜を行く 3
足が止まった。
チーも止まった。ことはが何かを言う前に、チーは自分で足を揃えていた。
「……お姉ちゃん」
ことはが後ろから、小さな声で言った。
「なんか、焦げ臭い」
「うん」
ブローチを握りしめた。
耳を澄ませる。
パチ、パチパチ。乾いた木の皮がはじける音が、風に乗って届く。その下で、低い「ごうっ」という唸りが続いていた。重い木が折れる音。何かが崩れ落ちる音。それから、布が燃えるときの薄くて速い音。家畜が鳴いていた。遠くで、混乱したように何度も鳴いていた。
「……東の方から」
喉が乾いていた。
「さっきまで”村がある”って言ってた方向から。何かが大きく燃えてます」
次の瞬間、しおりさんがハルバードを地面に置いた。
それから、何かが木に触れる気配がして、そのまま頭上へ消えた。
歩数を数える間もなかった。枝が一度だけ大きく軋んだと思ったら、もう音がしなくなっていた。
「……えっ」
ことはが、小さく息を呑んだ。
私もチーのたてがみを握りしめた。
上の方で、しばらく何も聞こえなかった。東から届く音だけが、少しずつ厚くなっていった。爆ぜる音。燃え移る音。何かが倒れる音。風が向きを変えるたびに、匂いが濃くなったり薄くなったりした。焼けた布の匂い。その底に、名前をつけたくない匂いが沈んでいた。
「……お兄ちゃん、いるかな」
ことはが、消え入りそうな声で言った。
答えられなかった。
頭上で、枝を踏み変える音がした。降りてくる気配が落ちてくる。さっきと同じくらい速い。でも、音の立て方がさっきより荒かった。
どん、と土を踏む音。
「ただいま」
呼吸が少し乱れていた。声だけを、いつもの場所に戻してきた感じがした。額から汗が顎を伝って落ちる音が、すぐ近くで聞こえた。
「どうでしたか」
自分の声が掠れていた。
「村の端っこがいくつか燃えてる」
言葉を選びながら、ゆっくり告げられる。
「真ん中から一気に、じゃない。家ごと、あちこちに火が点いてる感じ」
ことはが息を呑んだ。
「人は……」
「いたよ」
短い返事。
「走ってる人も、倒れてる人もいた。それから、兵隊。あと、ローブを着た魔術師」
鼻の奥が、じん、と痛くなった。さっきの匂いが、まだ残っている。
「魔術師の奴らが、村に火を放ってた」
その一言の途中で、酸っぱい匂いがした。
全部は、言っていない。
しおりさんが先に続けた。
「今の私たちがあそこに向かうのは、無理だよ。私たちじゃどうにもできない」
酸っぱい匂いとは違う。
土の底みたいな匂いだった。
ことはが、唇を噛む音を立てた。
しばらく、何も言わなかった。
何かを考えている。ことはが考え込むときの、独特の静けさだった。呼吸が浅くなる。チーの毛を指でつまんで、また離す。つまんで、また離す。
この子なら、できてしまう。それが怖かった。
でも、ことはは黙ったまま、チーの毛から手を離した。
「……お兄ちゃんに怒られるやつだ」
それだけだった。
それだけで、考えるのをやめた。
「じゃあ、どうするの」
ことはが顔を上げて、しおりさんに向かって言った。
「東は、一回あきらめる」
しおりさんが言った。
「今の鬼ごっこのフィールドは、南。崖と川の方に変える」
ハルバードの石突きが地面に当たる音がした。先端で、土の上に線を引いている。
「ここが今いる場所。東が燃えてる方。南に少し行くと、崖と川がある。あっちはまだ静か」
耳を澄ませた。南の方からは、水音以外の嫌な気配がしない。兵隊の金具の音も、ローブの擦れる音も、今は届いてこなかった。
「東の方が人の気配が多いです。金属の音が、東側は多い。南は自然音が多いですけど、ところどころ……鳥や虫が黙ってる場所があります」
「音の穴か」
しおりさんが短く言った。
「崖の方は地形が荒いから、そういう場所が出る。でも人の気配じゃなければ、まだ動ける」
「崖って、危なくないですか」
「危ない。でも、崖は避けられる。あっちは、来る」
ことはが、チーの首に手を添えながら言った。
「崖と川のとこ、お兄ちゃんと遊んだことある。川の下の方に浅くなってる場所があって、晴れてれば渡れる。兵隊もローブの人たちも、あのへんはあんまり来たがらないって言ってた」
「それ、助かる情報」
しおりさんの声が、少しだけ変わった。
「崖は、ことはの地形知識とさゆりの耳があれば、なんとかなる」
私はうなずいた。
東から届く音が、背中越しに追いかけてくる気がした。燃える音。崩れる音。家畜がまだ鳴いていた。さっきより遠くなっているのに、さっきより大きく聞こえた。
でも、今は振り返らない。
服の内側で、ブローチの金属が肌に触れた。冷たくはなかった。体温がうつっている。
主人様の声が、頭の奥で鳴った。
嫌なことからは逃げていいんだよ。怖かったら助けてって言っていいんだよ。
あの声の温度だけが、今もちゃんと残っていた。
「チー、南に行くよ」
しおりさんが号令をかけた。
チーの向きが変わる。東の火の音を背中で受ける向きに。崖と川の方へ。まだ名前もない音の方へ。
一歩、踏み出した。




