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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
ツキナミの生活
18/27

デッドレコニングの夜を行く 2

 西へ向かって、森の中を進んだ。

 しおりさんが先頭。その横にチー。ことはがチーの背の上で、私がその後ろにつかまって揺れていた。

 夜の森は音が変わる。昼間は葉擦れと鳥の声で埋まっていた空気が、虫と風だけになる。こちらの音も、同じように響く。誰も言わなかった。足の置き方が、変わっていた。


「西は静か?」

 ことはが前を向いたまま聞いてくる。

「今のところ、大きい足音はない。鳥と虫だけ」

「うぃ。じゃ、このまま西に回ってから南下するよ」


 ことはがチーの首を、ぽんと撫でた。チーは進行方向をわずかに変えた。


 しばらく進むと、風の手触りが変わった。葉を撫でる柔らかい音が、ざらざらとした擦れ音に変わっていく。低い枝が増えてきた。

「この先、枝が低くなる。ことは、ちょっと頭下げて」

「あいさー」

 ことはがチーのたてがみに顔を埋めた。しおりさんの鎧が、何度か枝を受け止める音がした。硬い音と、しなる音が交互に来る。それでもしおりさんの足音は乱れなかった。


 木々の密度が薄くなり始めた頃、土の匂いに水の匂いが混じった。

「……川」

 足を緩めた。

「前、少し右。そこそこ速い流れ」

「川?」

 ことはが顔を上げた。

「うん。あ、誰か渡ってる」


 水音に、重い靴の音が重なった。水が跳ねて布を叩く気配。一歩ごとに、川底の石を踏む感触が音に滲んでいた。

「一人か二人。何かを探してる感じですね。南から北に向かってる、こっちとは逆です」

「止まろう」

 しおりさんの声が短く落ちた。足音が止まる。チーも止まった。

「その足音が渡り切るまで待つよ。さゆり、動きが変わったら教えてね」

「分かりました」


 チーの首に頬を預けて、川の方角に意識を集中させた。

 水を踏む音が一定の間隔で続く。半分、三分の二、向こう岸が近い。やがて水を蹴る音が途切れ、濡れた靴で草を踏む音に変わった。

「……上がりました。離れていってます」

「ナイス」

 ことはが小さく指を鳴らした。

「じゃ、川には近づかない方向で。ちょっと西にずれてから南下ね」


 チーの耳の後ろをぽんと撫でて、ことはが続ける。

「チー、右は行っちゃダメな音がするよ。左から回ろ」

 チーが低くバフと鳴らして、進路を変えた。


 川から離れていくと、森の空気がまた変わった。さっきまで騒がしかった虫の声が、急に途切れる。鳥の声も消えた。風だけが残って、その風までが止まりそうになった。

「……嫌な静けさ」

 思わず口からこぼれた。

「さっきまでいた虫が、全部いなくなった。音の穴みたいな場所がある」

「どのへん?」

 ことはの声が、少し前のめりになった。

「今いる場所から少し東寄り。ぽっかり空いてる感じ」

「オッケ」


 その場所の横を通り過ぎる時、チーの足が一瞬止まった。耳を伏せて、鼻先を低くする。何かを嗅いで、すぐに顔を背けた。ことはがチーの首筋をそっと撫でると、チーは渋々という風に足を動かし始めた。


 さらさら、と地面に何かを描く音がした。ことはが身を乗り出して、指で土をなぞっている。途中で手が止まった。何かを考えている。指先が、描きかけの線の上で迷うように浮いていた。数秒。それから、迷いを振り切るように、一息で線を引き直した。

 なぞった後、土の匂いが一瞬だけ濃くなった。雨の後の土じゃない。もっと深いところから来るような、根が呼吸しているときの匂い。描かれた線が、小さく息をしたような気がした。気のせいかもしれない。

「そこの端っこをかすめるくらいで、ちょい遠回りにしちゃおっかな〜」

 ことはが手を離しながら言った。

「罠は、それっぽく見えない方が楽しいからね」


 西に回り込みながら南へ下りていくうちに、土の柔らかさが変わってきた。ふかふかした森の土が、少しずつ締まって、石が増えていく。チーの足音が、かりっとした音に変わった。

「斜面になってきた。ここから先、ちょっと下り坂になってるみたい」

「一回止まって」

 しおりさんが言った。チーが足を揃えた。

「さゆり、この先、何かいそう?」

「……大きい足音はないです。風は前から。鳥も普通に鳴いてます」

「よし。ことは、ルート頼める?」

「うぃ。上側から回って正解」

 ことはがチーの背中を撫でながら姿勢を整えた。

「しおりんは前。お姉ちゃんと私はチーで後ろから行くね」

「了解」


 鎧が軋む音と一緒に、しおりさんが斜面側に一歩出た。ハルバードの刃が枝に当たって、柔らかく音を立てた。

 少し進むごとに、頭上の枝葉が薄くなっていく。風が、絡みつく動きからまっすぐ抜ける流れに変わった。

「……音が広くなってきた。前が少し空いてる」

「さゆり、いけそう?」

 頭の奥はまだ少し重い。でも、ここで確認しておかないと先へ進めない。

「……少しだけなら」


 ブローチをぎゅっと握って、息を吸った。

「ルック」


 静かな糸が一本、森の縁の方へ伸びていく。吊るされた硝子片に触れる感覚。光が鈍く跳ね返る。

 ぼやけた輪郭。

 森を抜けた先に、ひらけた草地。夜の空気の中で、草が低く揺れていた。細い道。人が何度も通った痕跡。さらに奥に、屋根がいくつか固まっている。窓に明かりはない。煙突から細い煙が一筋、夜の空に溶けている。村全体が寝息を立てているような、深い静けさだった。

「……見えました。森の先に道があります。その奥に、屋根がいくつか。村だと思います。寝静まってます」

「東の村?」

 ことはの声が揺れた。

「分からない。でも、人が暮らしてる場所です。煙突から煙が出てるから、朝になれば竈に火が入ると思います」

「ご飯……」

 ことはのお腹が、小さく鳴った。

 その音が、妙に愛しかった。

「道に人影は?」

「今のところ、ないです。兵隊も馬も見えません」

「じゃ、そこまで出ようか。東の村でご飯を食べてゆっくり寝る。それを次の目標にしようか!」


 糸をそっと手放した。頭の奥がじん、とした。

「お姉ちゃん大丈夫?」

「うん。ちょっと頭が重いだけ」


 しおりさんの声から、かすかに苦い匂いがした。

「あんまり無理はさせたくないけど、今晩はもう少し頑張ってね」

 ことはがチーの首をぽんと撫でた。チーが鼻を鳴らして、前へ踏み出した。


 風の音が、少しずつ広がっていく。

 木々のざわめきの向こうで、寝静まった村の沈黙が近づいてくる。


 そのとき。


 風向きが変わった。


 焦げた匂いが、鼻の奥を刺した。油と乾ききった木が焼ける、苦くて重い匂い。煙突の残り火なんかじゃない。もっと大きなものが、底から燃えているときの匂いだった。


 喉の奥で、息が止まった。

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