フェイズシフター2
チーの蹄が土を蹴るたび、全身が上下に揺れる。その振動と、頬を切る風の向きだけが、私に進行方向を教えてくれる。
ことはの腰にしがみつきながら、私は胸元のブローチとレンズを服越しに押さえた。冷たさが、まだ少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「お姉ちゃん、もうすぐ遊び場だよ」
ことはの声が、振り返らなくても分かる距離で響く。
「チー、そのまま真っ直ぐー。途中の左の枝は前に私が折ったから、ぶつからないはず」
「了解」
しおりさんが、少し息の上がった声で応じる。チーの横を並走しているはずの足音が、土の上で一定のリズムを刻んでいた。
私は目を閉じたまま、耳に意識を集中させた。
風の音。チーの息遣い。ことはの髪の揺れる気配。
その奥で——地面の、微かな震え。
ずる、と、重い何かが土を擦る音。
一本だけ、太い木の幹が大きく軋む。
そのたびに、空気の圧が一瞬だけ変わる。
「……さっきの“何か”、まだ追ってきています」
思わず声に出していた。
「え、マジ?」
ことはの声が、ほんの少しだけ高くなる。
「足音は聞こえないけど」
「足音、というより……地面そのものが揺れてる気がします」
自分で言いながら、背中を汗が伝う。遠くで木が倒れる。その音そのものよりも、倒れる瞬間の空気の流れの方が耳に痛い。
「やっぱり、さゆりは耳いいね」
しおりさんが、羨ましそうに息を吐く。
「私には、まだ“でかい何かがいる”くらいしか分からない」
「分からない方が、きっと幸せですよ」
苦笑まじりにそう返すと、ことはが小さく笑った。
「でも、そのおかげで逃げられるんだし。今日もさゆりの耳、超優秀⭐️」
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
それでも今は、逃げるために使う。
それなら、少しだけ許される気がした。
「遊び場まで、あとどれくらい?」
私はことはの背中に顔を預けたまま、そう聞いた。
「もうすぐ。でっかい倒木くぐった先を右。その先が広場」
ことはの説明は、私にとって地図みたいなものだ。頭の中に、幼い頃から何度も通った道の感覚が自然と浮かぶ。
「しおりん、後ろは?」
「まだ姿は見えない。でも、木の折れる音がさっきより近いね」
しおりさんの声が、少しだけ戦いの時のものに近づいていく。
「でもさ、別に倒さなくていいよね?」
ことはが、あっけらかんと言う。
「私たち、勝ちに行く必要ないし。全員生きてたら、それで勝ち」
「……そうだね」
私は頷いた。
「こっちが無事で、あっちが諦めてくれたら十分だよ。人もバケモンも、死なないで済むなら、その方がいい」
その言葉が、胸のどこかにじわりと染みた。
ご主人様も、きっと同じことを言う。
やがて、チーの速度が落ちる。
「倒木くぐるよー」
チーの体がぐっと沈み、頭上すれすれを分厚い木の幹がかすめていく気配がする。
その先の空気がふっと軽くなった。木々の密度が薄くなり、開けた空間に出たのが分かる。
「着いた。遊び場」
ことはがチーを止めた。
ここは、私たち三人と、ご主人様とみのりさんだけの秘密の場所だ。
地面には浅い穴がいくつもあり、その上に枝や落ち葉が雑に積まれている。
木の幹には、ことはが作った奇妙な仕掛けが幾つも括りつけられていた。
「……改めて聞くけど、これ、本当に“遊び場”なの?」
思わず口から出た。
「遊んでるよ? 罠の実験とか」
ことはが胸を張る。
「師匠も、『ここなら多少爆発しても大丈夫』って言ってたしね」
しおりさんが苦笑混じりに続ける。
「その“多少”が怖いんだけど」
私がそうぼやいた時、また地面が微かに震えた。
さっきより、ずっと近い。
「……さっきの“何か”、もうすぐ来ます」
私は、チーから降りながら告げた。
「うん、今度は私にも分かる」
ことはが息を呑む。
「正面からはやらない」
しおりさんの声が、はっきりと戦場のそれに変わる。
「ここは逃げ場と罠がある。ことは、準備できる?」
「できるー。お姉ちゃん、その場から動かないでね。足元、覚えてる?」
「うっすらと」
「じゃあ、その一歩右が安全地帯。今の位置は穴のフチだから」
私は言われた通り慎重に足をずらした。土の硬さがわずかに違う。
「ことは、何してるの?」
「“踏んだら嫌なことが起きるゾーン”増やしてるだけ」
「……それ、どんな嫌なことなの」
「踏んでからのお楽しみ」
私はブローチに指を添え、「ルック」と囁いた。
静かな糸が一本だけ遠くへ伸び、ご主人様のいる方角を示す。
その周囲にある“何か”の気配が、ぼんやり浮かんだ。
それは、動物とは違っていた。
大きさの割に呼吸のリズムが不自然で、心臓の鼓動が薄い。生き物というより、何かに“動かされているもの”。
「……おかしいです」
思わず声が漏れる。
「生き物みたいで、生き物じゃない感じがします」
「バケモンってこと?」
「はい。でも、少し……かわいそうな感じがします」
耳に伝わる音が、どこか悲鳴のように聞こえた。
「ますます倒したくないタイプだね」
ことはが静かに言う。
「できるだけ傷つけないで、やり過ごそ」
「そんな器用なこと、できるかなあ」
しおりさんは苦笑する。
「でも、やるしかないね」
——バキッ。
すぐ近くで、木が一本、根元から折れる音がした。
さっきまで遠くにあった重さが、一気に近づいてくる。
「……来ます」
私が告げると同時に、ことはが短く叫んだ。
「しおりん、さっき言った大きい木の前! お姉ちゃん、そのまま一歩だけ前!」
考えるより先に体が動いた。
私は杖代わりの枝を頼りに、一歩だけ前へ出る。
足元が一瞬ふわりと浮き、そのすぐ後ろで土が崩れ落ちる気配がした。
落ちる音。
何かが足を取られ、崩れた地面に飲み込まれていく音。
——グァアアアアッ!!
耳を裂くような咆哮。
穴の底で暴れる何かが、土を叩き、木の根を掴もうとしている。
「一個、引っかかった!」
ことはが息を弾ませて叫ぶ。
「しおりん、右のロープ、引いて!」
「うん!」
しおりさんの返事と同時に、どこかでロープがきしむ。
頭上で束ねてあった枝と石が解き放たれ、穴の上へと落ちていく気配。
鈍い衝突音と、さらに大きな咆哮。
土煙が上がる。穴の中の“何か”が、更に激しく暴れ出した。
「……これで少しは動きにくくなったはず」
ことはが息を整えながら呟く。
「でも、多分これだけじゃ止まらない。お姉ちゃんの耳で、あいつがまだ動けるか聞いて」
私は再び耳を澄ませた。
荒い息。骨の軋むような嫌な音。それでも、あれはまだ上に向かおうとしている。
「……まだ諦めてません」
私は小さく言った。
「でも、さっきより動きが鈍いです。しばらくは上がってこられません」
「だよねー」
ことはが、肩をすくめる気配を見せる。
「じゃ、第二段階いこっか」
「まだ何かあるの」
「あるよ? ここ、そういう場所だもん」
布と紙の擦れる音。
「お姉ちゃん、この紙触ってみて」
差し出されたそれに指を伸ばすと、ざらざらした感触と、墨と絵の具の匂いがした。
「……ことはの絵、だよね」
「そう。『ドカンってなるやつ』」
ことはが、少し誇らしげに言う。
「お兄ちゃん監修つきだから、きっと大丈夫」
「“きっと”を付けないでほしい・・・」
ぼやきながらも、私は紙片に自分の魔力を薄く重ねた。
「しおりさん」
「受け取るね」
しおりさんが紙片を何枚か受け取り、穴の縁へ駆け寄る気配がした。
「下に投げる。ことは、合図出して」
「はーい。三つ数えたら耳ふさいでね」
「それ、もっと早く言ってよ」
「いくよー。いち、にー、さん!」
紙片が空気を切る音。
——ドンッ。
さっきまでの足音とは違う、乾いた衝撃が地面を通して伝わった。
続けて二発、三発。
穴の中から上がる咆哮が、苦痛に変わる。土と焦げた匂いが混じり合い、鼻をついた。
耳鳴りの向こうで、ことはが「成功!」と叫ぶ。
「……まだ息はあります」
耳鳴りが落ち着いた頃、私はそっと言った。
「でも、さっきより動きが鈍いです。しばらくは上がってこられません」
「それなら十分」
ことはが、ほっと息を吐く。
「倒さなくていい。今は、とにかく距離取ろ」
「賛成」
しおりさんもすぐ同意する。
私は穴の方向に向かって小さく頭を下げた。
誰に対してなのか、自分でも分からない。
「行こう、お姉ちゃん」
ことはが、私の手を取る。
「もうちょっと奥に隠れられるとこあるから。そこで一回、息整えよ」
「うん」
私は頷き、チーの背に手を添えながら歩き出した。
森の奥へ向かう風の中に、まだ微かに、ご主人様の魔力の匂いが残っている気がした。
その向きは、さっきより遠く、ゆっくり動いている。
きっと、しばらくは会えない。
それでも、このブローチ越しの気配が消えない限り——。
私は歩みを止めないでいようと思った。
久々に書いております。




