デッドレコニングの夜を行く 2
西へ向かって、森の中を進んだ。
しおりさんが先頭。その横にチー。ことはがチーの背の上で、私がその後ろにつかまって、揺れていた。夜の森は、音が変わる。昼間は葉擦れと鳥の声で埋まっていた空気が、夜になると、虫と風だけになる。地面が冷えて、土の匂いが変わっていた。日中の乾いた匂いから、湿った根の匂いへ。露が降り始めている。草の葉が重くなって、垂れる音がした。こちらの立てる音も、同じ様に、夜の中でよく響く。誰も、言わなかった。それでも、三人の足の置き方が、昼間とは変わっていた。
「西は静か?」
ことはが前を向いたまま、聞いてくる。
「今のところ、大きい足音はない。鳥と虫だけ」
「うん。じゃ、このまま西に回ってから、南下するよ」
ことはがチーの首を、ぽんと撫でた。チーは進行方向を、わずかに変える。しばらく進むと、風の手触りが変わった。葉を撫でる柔らかい音が、ざらざらとした擦れ音に変わっていく。低い枝が、増えてきた。
「この先、枝が低くなる。ことは、ちょっと頭下げて」
「うん」
ことはがチーのたてがみに顔を埋める。しおりさんの装備が、何度か枝を受け止める音がした。硬い音と、しなる音が、交互に来る。それでも、しおりさんの足音は乱れなかった。
木々の密度が薄くなり始めた頃、土の匂いに、水の匂いが混じった。
「……川」
足を緩める。
「前、少し右。そこそこ速い流れ」
「川?」
ことはの気配が、持ち上がった。
「うん。あ、誰か渡ってる」
水音に、重い靴の音が重なった。水が跳ねて布を叩く気配。一歩ごとに、川底の石を踏む感触が、音に滲んでいる。
「一人か二人。何かを探してる感じですね。南から北に向かってる、こっちとは逆です」
「止まろう」
しおりさんの声が、短く落ちた。足音が止まる。チーも止まった。
「その足音が渡り切るまで、待つよ。さゆり、動きが変わったら教えてね」
「分かりました」
チーの首に頬を預けて、川の方角に意識を集中させた。水を踏む音が、一定の間隔で続く。半分、三分の二、向こう岸が近い。水の深さが変わっていく。膝まで浸かっていた音が、足首の音に変わった。やがて水を蹴る音が途切れて、濡れた靴で草を踏む音に変わる。足音が重い。装備を背負っている。
「……上がりました。離れていってます」
「ナイス」
ことはが、小さく指を鳴らした。
「じゃ、川には近づかない方向で。ちょっと西にずれてから、南下ね。チー、右は行っちゃダメな音がするよ。左から回ろ」
チーが低くバフと鳴らして、進路を変える。川から離れていくと、森の空気がまた変わった。川の水の匂いが薄れて、代わりに、乾いた木の皮の匂いが戻ってくる。さっきまで騒がしかった虫の声が、急に途切れた。鳥の声も消える。風だけが残って、その風までが止まりそうになった。
「……嫌な静けさ」
思わず、口からこぼれた。
「さっきまでいた虫が、全部いなくなった。音の穴みたいな場所がある」
「どのへん?」
ことはの声が、少し前のめりになった。
「今いる場所から少し東寄り。ぽっかり空いてる感じ」
「オッケ」
その場所の横を通り過ぎる時、チーの足が一瞬止まった。耳を伏せて、鼻先を低くする。毛が逆立っていた。背中の毛が、私の太腿に当たって硬くなっている。何かを嗅いで、すぐに顔を背けた。甘い匂いがした。腐りかけた何かの匂い。花じゃない。肉だった。まるで夏の終わりに道端で見つける、あの匂い。まるで、家が燃えた日に嗅いだ、名前をつけたくない、あの匂い。まるで、私がこの手で作ってきた、あの匂いだった。ことはがチーの首筋をそっと撫でると、チーは渋々という風に、また足を動かし始めた。
さらさら、と地面に何かを描く音がした。ことはが身を乗り出して、指で土をなぞっている。途中で、手が止まった。何かを考えている。指先が、描きかけの線の上で、迷う様に浮いていた。数秒。それから、迷いを振り切る様に、一息で線を引き直した。なぞった後、土の匂いが一瞬だけ濃くなる。雨の後の土じゃない。もっと深いところから来る様な、根が呼吸している時の匂い。描かれた線が、小さく息をした様な気がした。気のせいかもしれない。
「そこの端っこをかすめるくらいで、ちょい遠回りにしちゃおっかな〜。罠は、それっぽく見えない方が、楽しいからね」
ことはが手を離しながら言った。西に回り込みながら南へ下りていくうちに、土の柔らかさが変わってきた。ふかふかした森の土が、少しずつ締まって、石が増えていく。チーの足音が、かりっとした音に変わった。爪が石を引っ掻く音。空気も変わった。森の奥の湿った空気から、乾いた風が混じり始めている。
「斜面になってきた。ここから先、ちょっと下り坂になってるみたい」
「一回止まって」
しおりさんが言った。チーが足を揃える。
「さゆり、この先、何かいそう?」
「……大きい足音はないです。風は前から。鳥も普通に鳴いてます」
「よし。ことは、ルート頼める?」
「上側から回って正解だったね」
ことはがチーの背中を撫でながら、姿勢を整えた。
「しおりんは前。お姉ちゃんと私はチーで後ろから行くね」
「了解」
装備の軋む音と一緒に、しおりさんが斜面側に一歩出た。ハルバードの刃が枝に当たって、柔らかく音を立てる。少し進むごとに、頭上の枝葉が薄くなっていく。風が、絡みつく動きから、まっすぐ抜ける流れに変わった。
「……音が広くなってきた。前が少し空いてる」
「さゆり、いけそう?」
頭の奥は、まだ少し重い。それでも、ここで確認しておかないと、先へ進めない。
「……少しだけなら」
ブローチをぎゅっと握って、息を吸った。
「ルック」
静かな糸が一本、森の縁の方へ伸びていく。吊るされた硝子片に触れる感覚。光が鈍く跳ね返る。ぼやけた輪郭。いつもそうだった。ルックで見える世界は、水の底から見上げた様に揺らいでいる。森を抜けた先に、ひらけた草地。夜の空気の中で、草が低く揺れていた。その先に、細い道。人が何度も通った、荷車の轍の跡。さらに奥に、屋根がいくつか固まっている。窓に明かりはない。煙突から、細い煙が一筋、夜の空に溶けている。村全体が寝息を立てている様な、深い静けさだった。
「……見えました。森の先に道があります。その奥に、屋根がいくつか。村だと思います。寝静まってます」
「東の村?」
ことはの声が、揺れた。
「分からない。でも、人が暮らしてる場所です。煙突から煙が出てるから、朝になれば竈に火が入ると思います」
「ご飯……」
ことはのお腹が、小さく鳴った。こんな時でも、ことはのお腹は正直だった。
「道に人影は?」
「今のところ、ないです。兵隊も馬もいません」
「じゃ、そこまで出ようか。東の村でご飯を食べて、ゆっくり寝る。それを次の目標にしようか!」
糸をそっと手放した。頭の奥が、じんとした。レンズ越しの光が消えて、こめかみが脈打っていた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「うん。ちょっと頭が重いだけ」
しおりさんが、かすかに息を詰めた。心配している時の、間の取り方だった。
「あんまり無理はさせたくないけど、今晩はもう少し頑張ってね」
ことはがチーの首を、ぽんと撫でる。チーが鼻を鳴らして、前へ踏み出した。風の音が、少しずつ広がっていく。木々のざわめきの向こうで、寝静まった村の沈黙が近づいてくる。
その時。風向きが、変わった。
焦げた匂いが、鼻の奥を刺した。油と、乾ききった木が焼ける、苦くて重い匂い。煙突の残り火なんかじゃない。もっと大きなものが、底から燃えている時の匂いだった。あの日の匂い。家が燃えた日の、あの匂いと、同じだった。
喉の奥で、息が止まった。




