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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
ツキナミの生活
12/35

デッドレコニングの夜を行く 1

 誰かに呼ばれた気がして、目が覚めた。


 呼ばれたのではない。しおりさんが、入口の方で、呼吸の仕方を変えている。それだけだった。目が覚めるより先に、耳の方が、その小さな変化を拾っていた。


 体を起こす。藁と布が擦れる音が、自分の体から出ていることに少し驚いた。こんなに音を立てて寝ていたのかと思う。ことはの寝息が、すぐ隣で続いていた。一定で、深い。チーが足元で鼻を鳴らして、また丸くなる気配がした。丸くなる時に、尻尾がことはの足に触れる。ことはの寝息は、それでも変わらなかった。


 「さゆり」


 しおりさんの声は小さかった。いつもと、少し質が違う。


 「起きてる?」


 「はい」


 壁づたいに、入口へ向かう。木の根が頭上すれすれを通っているのを、指先で確かめながら、慎重に。さっき寝る前に通った時の位置を、体が覚えていた。二歩目で天井が低くなって、三歩目で少し開ける。四歩目で、冷たい空気が顔の右側に触れて、入口が近いと分かる。五歩目で、ハルバードの鉄の匂いがした。この人はいつも、武器の近くにいる。武器の近くにいるのに、武器の音を一切立てない。そういう人だった。


 しおりさんの横に腰を下ろす。外の空気が、全身に触れた。冷たくて、湿っている。昼間の土の匂いが全部沈んで、苔と根の匂いだけが残っていた。夜の森は、匂いが重い。水分を含んだ空気が、低いところに溜まっている。秘密基地の入口は地面より少し低いから、その重い空気が、ゆっくりと流れ込んでくる。


 「聞いてみてくれる? さっきより近くなってる気がするんだけど」


 さっきより。しおりさんは、ずっと起きていて、ずっと聞いていた。この人の耳は、私ほどではない。それでも気づくくらい、何かが変わっている。


 目を閉じた。閉じた方が、耳だけに集中できる。そう思っているだけかもしれない。それでも、閉じる。


 内側から。ことはの寝息。チーの鼻息。藁がわずかに沈む音。土壁が夜の冷気で収縮する、薄い、薄い音。ここに私達が息をしてきた痕跡が、空気の中にまだ溜まっている。ことはの絵の具と、しおりさんのいい香りと、乾いた藁の匂い。全部が混ざって、この小さな穴の匂いになっていた。家の匂いとは、違う。それでも、三人の匂いが混ざっているという、その一点だけは、あの家と同じだった。


 外側。近く。虫の声。種類が多い。一つひとつは小さいのに、重なると、幾重にも張られた薄い膜の様に、耳の周りを取り囲む。木の幹を、何かが登る、小さな爪の音。風が葉を撫でる。撫でられた葉が隣の葉に触れて、その音がまた隣に伝わって、森の奥まで、波紋の様に広がっていく。


 この森は、まだ虫が鳴いている。家の周りの虫は、もう鳴いていないだろう。焼けた土の上では、虫も黙る。黙った虫は、何処へ行くのだろう。死ぬのか、逃げるのか。逃げるなら、何処まで逃げれば安全なのだろう。私達と、同じだった。虫は、何も考えずに、ただ逃げる。考えずに逃げられたら、この胸の重さも、少しは軽くなるのだろうか。


 もっと遠く。頭の奥が、じわりと重くなる。昨日の残りだった。レンズを使いすぎた代償が、まだ消えていない。それでも、意識をもっと遠くへ伸ばした。


 金属。遠くで、鉄と鉄が擦れる音。革が軋む音。重い靴底が土を踏む、くぐもった音。複数。三人か、四人。リズムが揃っている。揃いすぎている。訓練を受けた人間の足音だった。昨日の夜に聞こえた位置より、輪郭がはっきりしている。近い。なぜ。こっちに向かっているのか。巡回の範囲が広がったのか。それとも、人数が増えたのか。どれも有り得る。どれが正解かは、分からない。近い、という事実だけが確かだった。このまま朝まで待てば、もっと近くなる。


 「……三人か四人。昨日より近いです。まっすぐこっちに来てる感じじゃないけど、巡回の範囲が広がってます」


 「だよね」


 しおりさんが、短く息を吐いた。覚悟を決めた時の吐き方だった。しおりさんはもう、私に聞く前から答えを出していたのかもしれない。自分の耳が正しいかどうか、私の耳で裏を取りたかっただけ。


 「朝まで待てない。夜のうちに動こう」


 頷いた。ブローチに、指先が触れた。服の内側の、冷たい金属。主人様の声を探そうとして、やめた。探すと、遠くなる。それは、もう知っている。冷たいまま、そこにある。今は、それだけでいい。


 「ことは、起こしてくる」


 秘密基地の中へ戻った。暗い空間の中を、四歩で戻る。さっき来た道を、逆に辿る。四歩目で冷たい空気が遠くなって、三歩目で天井が下がって、二歩目で藁の匂いが濃くなる。ことはの寝息が、近づいてくる。


 「ことは」


 肩を揺らす。小さい。こんなに小さい肩で、昨日の夜、あれだけのことをやった。指示を出して、笑って、指笛を吹いて、走って。全部、この肩で、やった。


 「起きて。動くよ」


 二回目で、ことはの呼吸が変わった。


 「……何。何時」


 「分からない。でも、夜のうちに出る」


 ことはは、何も聞き返さなかった。布が擦れる。ことはが起き上がる。チーの耳がぴくりと動いて、入口の方を向いた。外の気配を嗅いでいる。この子の方が、よほど状況を分かっている。


 三人と一匹で、入口の近くに集まった。しおりさんが、短く状況を伝える。ことはは、黙って聞いていた。聞き終わってから、一度だけ頷く。


 「鬼ごっこだね」


 ことはが言った。声に、昨日の夜の震えはなかった。


 「そう」


 しおりさんが、指を立てた気配がした。


 「ルールその一。見つからない。戦わない」


 「うぃ」


 「その二。三人ともできるだけ無傷で森を抜ける。かすり傷は許す」


 「うぃ」


 「その三。ついでに、あいつらをちょっとだけ困らせる」


 ことはが、少しだけ間を置いた。


 「……私の係だよね、それ」


 「トラップ担当はことはでしょ」


 「うぃ」


 今度の返事には、間がなかった。


 「その四。師匠に怒られない程度にする」


 「それ、一番難しいやつじゃん」


 「でも、一番大切」


 しおりさんの声から、ほんの少しだけ力が抜けた。この三人でやる鬼ごっこは、もう何度も繰り返してきた。主人様相手に、この森の中で。追いかけられて、逃げて、罠を仕掛けて、見つかって、怒られて、褒められて。相手が、変わっただけだった。それだけで、こんなにも、怖い。


 「役割は、さゆりが耳。ことはが頭。私が体。いつも通り」


 「いつも通り」


 ことはが繰り返した。その言葉が、暗い穴の中で、やけに温かく聞こえた。


 ことはが荷物を背負いながら、入口の上に何かを吊るしていた。紐がこすれて、ちりん、と微かに鳴る。


 「何してるの」


 「レンズ。入口の上と、横にも一個」


 「……ありがとう」


 「またここに来るんだから」


 当たり前のことを言うみたいに、ことはがチーの首筋をぽんと撫でた。チーが、低く短く鼻を鳴らす。泣いた次の日に、もう先のことを見ている。私がまだ昨日の夜を引きずっている間に、この子は、帰ってくるためのレンズを仕込んでいる。追いつけない。追いつけない分を、私は耳で補う。それが、私の役割だった。誇らしくて、少しだけ、苦い。


 しおりさんが先に外へ出た。音がしない。あれだけの武装をして、音を立てずに動く。次にチー。四本の足が、一本ずつ慎重に地面を踏む。ことはが続いて、私が最後に、入口に手をついた。出る前に、一度だけ、振り返った。匂いが、まだ残っていた。ことはの絵の具の残り香、しおりさんの香り、乾いた藁。三人で息をしてきた空気が、まだこの穴の中に溜まっている。それはいつか薄れて、消える。消えた頃に、また来る。ことはが、レンズを吊るしてくれたから。


 出口をくぐった。夜の森の空気が、全身を包んだ。冷たくて、重くて、どこまでも続いている。秘密基地の中とは、違う冷たさだった。中の冷たさは、閉じていた。外の冷たさは、開いている。その広さの中に、私達はこれから歩いていく。湿った土が、足の裏から体温を奪っていく。


 前に、しおりさんの息。左に、チーの足音。右後ろに、ことはの気配。三人と一匹の位置が、音で地図になって、頭の中に広がっていく。


 「行こう」


 しおりさんが、前から静かに言った。


 私はその地図の真ん中に自分を置いて、夜の森へ体を進めた。一歩ごとに、地図が少しずつ書き換わっていく。私達の長い夜が、静かに始まっていった。

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