15. 文章力か国語力か
こんにちは、彦星こかぎです。
今日のお話は、文章を書く能力と、その他の国語力について。
このエッセイに関して言うと、文章術について語ると見せかけて要するに文学論を喋っている事がよくあります。「どうすれば上手に書けるか」なんてことを説明できたら苦労はないわけで、「よい文章にはどんな特徴があるか」を書く事が多いのは仕方ない部分もあるわけなのですね。特に発展的な話になるほどそういう傾向があります。
また、わたくし彦星に関して言うなら、私は「執筆した文章の量」より「読んだ文章の量」の方が圧倒的に多いタイプです。しかし世の小説家さんの中には「それまで本はほとんど読んでいなかったけれど急に物語を書き始めた」という方もいらっしゃいます。ご存じの通り、文学に精通している人は文章が上手かというと、必ずしもそうでもないものです。しかし、何の関連もないと言い切るのは難しいのもまた事実。
というわけで今日は「文章を書く能力」に「国語力」がどんな風に影響するものなのか、主観を混ぜつつ考えてみたいと思います。
さて、学校で習う国語の勉強、すなわち国語力を高めるための取り組みという奴は、かなりの高比率で「読解力」と同義語ではないかと思っていました。しかし、あんまり根拠のない事を書くのはよろしくないので、念のため学習指導要領を確認してみました。
すると、概ね国語科の目標は、「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高める」だそうで。見ればわかるとおり、理解よりも表現が先に来ています。しかも「伝え合う」なんていうコミュニケーションな部分も書かれています。もちろんこの学習指導要領という奴は比較的頻繁に改訂されているので、皆様がこの指導要領に基づいて授業を受けてきた可能性はそれほど高くありませんが……自分の受けてきた国語教育は、これを体現していましたでしょうか?
センター試験の現代文なんて、漢字以外はほとんど読解問題です。作文力や表現力は問われません。理由は単純で、「それならば採点が可能であるから」ではないかと思っています。文章の上手さや説得力を評価する事は非常に難しいですが、物語を正しく理解できているかどうかは○×で評価できるのです。そして学生にとって重視すべきが「試験」である以上(小論文試験が科されてでもいない限り)、読解問題に重きを置くのは(受験生のスタンスとしては)間違っていないように思います。
というわけで、実際の勉強では最も重視される「読解力」ですが、個人的には読解力重視の授業は決して間違っていないと考えています。学習効果の話ではなく単純な比率の話なのですが、小説は一切読まず、でも物語は山ほど書いているという人でも、文章全体からすると書く量より読む量の方が圧倒的に多いと思われるからです。新聞記事や教科書、電化製品の説明書から喫茶店のメニューまで全部文字で示されているわけですから。はるかに少ない「書く機会」に備えるよりは、「読む機会」のために多くの時間を割いて勉強する事は少なくとも理不尽ではないはずです。
では、読解力を養う教育の内容や質についてはどうでしょうか。
某掲示板など見ていると、定期的に「読解問題に意味はあるのか」という論調を目にします。特に多い意見は、「作者が本当にそれを意図しているのかわからない」というもの。「この部分での作者の心情を答えよ」という問題について、親族だった作者本人に直接聞いて「締め切り前で必死だった」と答えたらバツになった、というような笑い話もあります。
それに対する私の意見ですが、そもそも「読解できる意図」と「作者が実際に感じていた心情」といのは、一致しなくて当たり前だと思うのです。
喩え話になりますが、具体例を挙げましょう。
ある日曜日、あなたは散歩に出かけました。いつもはあまり通らない路地を歩いていると、シックで風情のあるアンティークショップを見つけます。雰囲気に誘われて店に入ったあなたは、特に理由もなく、兎をモチーフにした小さな置時計を買いました。
さて、帰宅したあなたに誰かが問いかけます。「どうしてその時計を買おうと思ったんですか?」……そう言われても、あなたには「いや、なんとなく」と答えることしかできません。本当に、目に留まったからなんとなく時計を買ったのです。
ところが、実はあなたの生態と行動は生まれた時からずっと監視され続けています。そのデータ(行動はもちろん、脳波や気持ちの変化まで全部)を、医師や生物学者や心理学者やそのほかの専門家がずっと分析してきました。そして、その分析結果をあなたに伝えます。
「あなたは幼い頃に兎柄の靴を愛用していました。それを履く事が両親の外出に付き合うための暗黙のルールだったので、あなたは兎から『規律』を連想します。そのイメージが『時計』とも良い相性であったため、兎の置時計を好もしく感じたと思われます」
さて、これを聞いてあなたはどう思うでしょうか。「そういう事もあるかもしれない」と感じるかもしれません。「そんな気持ちはない、本当になんとなく買っただけだ」と主張するかもしれません。専門家たちも決してあてずっぽうを喋っているわけではなくて、確かな根拠を持って最も適切な意見を述べているのです。その意見とどう向き合えばよいでしょうか?
物語を書く時、個々の文が持つ意味や文章内で示す効果について、綿密に考えて書く人もいます。しかし、そこまで細かい思い入れを持っていない人も多いでしょう。そんな人(私も含め)は、まさしく「なんとなく」言葉を選んでいます。一方で読解力を高める勉強は、喩えの中でいう専門家たちが持っている推論能力を養おうという学習なのではないかと考えています。作者自身はそこまで考えていなかったとしても、その文がどういう意味と効果を持ちうるか、好きなだけ深く掘り下げることもできるのです。
書く側への利点としては。例えば、こんな文章があったとします。
――彼は彼女に名刺入れをプレゼントした。名刺入れを手にとってよく見ていた彼女は、入れられた名前が間違っており、彼の昔の恋人の名前になっている事に気づいた。彼女は彼にコップの水を浴びせかけ、席を立った。――
この文章を読めば、多くの人は「彼女は怒っている」「二人はカップルだったが破局した」「彼女は名刺入れを持って帰らなかった」と理解(推測)する事が出来ます。他にも色々わかる事があるでしょう。しかし、今挙げた内容は文章のどこを探しても書いてありません。でも、その類推が妥当だと判断できるのです。
皆がある程度の読解力を持っているとわかっているし、自分も読解できるから、安心して端的な物語を書く事が出来る。作者自身がそれらの背景事情をなんとなくしかイメージしていなかったとしても、読者側で色々と類推して状況を補完できる。その事実を作者と読者が共有している事で、ちょっとひねった文章やいわゆる美文も書く事が出来るわけです。
ただ、面倒なのは、それが「正しい読解=正しい類推」なのかという根拠が、科学的法則や定理に比べると胡散臭くなってしまう点です。そこには多くの常識や暗黙の了解が絡み、推論を数学ほどに明快ではなくしてしまっています。ま、そこは出題側もよく理解していて、「正しい解釈をせよ」ではなくて「最も適切なものを選べ」になってるわけです。「この解釈以外は間違い」とは言い切れないことはわかっている。
皆で共有できるのに、根拠が明確ではない。読解というのは、本当に掴みどころがなくて厄介なものです。実際に、ある種の学習障害を持っている人や、あるいは文章理解を試みる人工知能のプロトタイプなどは、この「書いていない事を類推する」のがとても苦手であるといいます。文脈を理解する、行間を読むというのは、人間が進化の過程で獲得した、非常に特殊な能力といえるかもしれません。ですので、明確ではないからと毛嫌いせず、しっかり学んだ方が良い技能であるとは考えています。
二点ほど付け足しを。
上記のとおり私は、読解力は文章を書く上でもかなり影響するので大事にした方が良いというスタンスをとっています。しかし、読解問題が不得意な人間は小説を上手に書けないと思っているわけではない事を明示しておきます。読解問題で高得点をとれないのは、状況を「なんとなく」で完全に理解しているので、選択肢として言葉で示されると混乱してしまうからである可能性もあります。また、「この文章はこうも解釈できる」という気付きが、新たな作品へのモチベーションになる可能性もあります。
また、読解力を高める現行の学習内容に問題はないと思っているものの、数ある現代文の問題集の中には「これは不適切だろう」と思ってしまうような変な問題もあるようです。実際に出くわしたこともあります。余計なお世話とは思いますが、そういった変な問題に行き当たった時は、しぶしぶ飲み込むのではなくて誰か先生に質問という名の議論を吹っ掛けるべきだと思います。
ついでに言うと、読解以外の「表現力」「作文力」などに関する教育や議論についても大いに思うところはあるのですが、長くなってきたので一旦ここで切らせていただきます。機会があれば何か書きます。