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清楚な妻の恋愛遍歴~月菜の記憶~  作者: トマット


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【過去】綾世③

 綾世と付き合い始めてから、月菜の大学生活は、それまでとは少しずつ違うものになっていった。


 純史がサークルに来なくなってからも、月菜はしばらく顔を出していた。綾世がいたからだ。


「月菜さん、今日も来たんですね」


「綾世が来てるからでしょ」


「それ、僕がいなかったら来ないってこと?」


「そうかも」


「嬉しいです、先輩」


 わざとらしく喜ぶ綾世を見て、月菜は笑った。


 けれど、以前と同じようにサークルへ行けていたわけではない。純史とのことを知っている人たちの間では、あの夜の話が広まっていた。


 記憶が曖昧なまま朝を迎え、その後、純史と別れ、綾世と付き合い始めた。

 月菜自身、あの夜に何があったのかを、うまく説明できずにいた。

 周囲から見れば、純史と付き合っていた月菜が綾世と一晩を過ごし、そのまま乗り換えたように映っているのかもしれない。


 面と向かって責められたことはなかった。

 それでも、会話の途中で自分が来ると話題が変わったり、以前よりもよそよそしい態度を取られたりすることがあった。

 後輩の一人が、月菜の方を見ないようにして通り過ぎることもあった。


 月菜は、その空気を無視するようにしていた。

 誤解を解こうと口を開いても、自分でも「本当に何が起きたのか」を正確に説明できない。

 酔っていたこと、記憶が途切れていること、そして結局は綾世と付き合い始めたこと。

 それらを並べても、余計に話がややこしくなるだけだと思った。


 だから、何も言わなかった。

 ただ、綾世の隣にいる時間を増やすことで、その場に居続ける理由を自分の中で作っていた。


 綾世は、見た目だけならおとなしい後輩だった。

 月菜とほとんど変わらない身長で、柔らかな雰囲気がある。

 初対面の相手なら、少し人見知りをするタイプだと思うかもしれない。


 けれど、実際には人との距離を縮めるのがうまく、冗談も多かった。

 付き合い始めてからは、月菜に対してもますます遠慮がなくなった。

 その軽さが、月菜には心地よかった。


 純史と付き合っていた頃は、どこかで「恋人らしくいなければ」と考えていた。

 相手の期待に応えようとしたり、嫌われないように振る舞ったり。そんなつもりはなくても、いつの間にか気を遣っていたのだと思う。


 綾世といると、そういうことをあまり考えずに済んだ。


 サークルでみんなとスポーツをして、帰りには二人で食事をする。

 休日には映画を見たり、街を歩いたりする。

 講義が終わったあと、どちらからともなく連絡を取り、駅で待ち合わせることもあった。


「今日どこ行く?」


「月菜さんが決めていいですよ」


「じゃあ、あそこ」


「またゲームセンター?」


「だって、ガチャ新しいの入ったって聞いたから」


「月菜さん、本当に好きですよね」


「綾世だってやるじゃん」


「月菜さんがやりたいって言うからですよ」


「じゃあ、付き合ってくれてるんだ?」


「もちろん」


 そんな何気ないやり取りをしながら歩く時間が、月菜には楽しかった。


 付き合い始めたばかりの頃は、まだ純史のことを思い出すこともあった。

 見覚えのある店を通りかかったときや、以前と同じ講義を受けたとき。何気ない瞬間に、胸の奥が少し痛むことがあった。


 ――まだ、好きなのかな。


 そう思うこともあったが、綾世と過ごす時間がつらいわけではなかった。むしろ、一緒にいると自然に笑えた。純史を忘れようと無理をしているつもりもなかった。ただ、目の前の時間を楽しんでいた。


 綾世も、月菜が何かを抱えていると感じることはあったらしい。


「月菜さん、今日なんか元気ない?」


「そう?」


「うん。ちょっとだけ」


「……そんなことないよ」


「そっか」


 綾世は、それ以上聞かなかった。


 無理に聞き出そうとしない。その距離感も、月菜には楽だった。


 大学からの帰りに待ち合わせて夕食を食べ、そのまま綾世の部屋へ行くことも増えた。一緒にテレビを見たり、ゲームをしたり、くだらない話をしたりする。帰るのが遅くなれば、そのまま泊まっていくこともあった。


 恋人として身体を重ねることも、いつしか二人の日常の一部になっていた。

 最初の頃には少し緊張していた月菜も、綾世と過ごすうちに自然に甘えられるようになった。

 夜更かしをして、朝になってから慌てて支度をする。そんな日も珍しくなくなった。


 純史とはしなかったようなことも、綾世とは当たり前のようになっていった。

 会えばほとんど毎日のように身体を重ね、時には何度も求められた。

 最初は戸惑っていた月菜も、その刺激的な関係に少しずつ慣れていった。

 純史との頃とは違う、熱くて、少し危うい親密さがそこにはあった。


「月菜さん、今日一限?」


「うん……」


「起きられます?」


「たぶん」


「絶対起きられないやつじゃん」


「起こしてよ」


「僕が起こすんですか?」


「彼氏でしょ」


「はいはい」


 翌朝、結局二人そろって寝坊し、駅まで小走りで向かうこともあった。

 月菜は文句を言いながら、隣で笑っている綾世を見て、自分まで笑ってしまうのだった。


 綾世の部屋は、それほど広くなかった。

 玄関を入ってすぐに小さなキッチンがあり、その奥にベッドと机が置かれている。

 壁際には大学の教科書や雑誌が積まれ、床に脱ぎっぱなしの服が落ちていることもあった。


 最初の頃、月菜は泊まりに行くたびに荷物を持ち帰っていた。けれど、何度も泊まるようになると、少しずつ面倒になってきた。


「これ、置いてっていい?」


「いいよ。どうせまた来るんでしょ?」


「まあ……そうだけど」


 そうして、部屋着や歯ブラシ、化粧水に充電器と、月菜の私物が少しずつ増えていった。


「月菜さん、これどこに置けばいい?」


「それ? そこに置いといて」


「ここ?」


「うん」


「もう完全に自分の部屋みたいですね」


「綾世の部屋でしょ」


「でも、月菜さんの物も増えましたよ」


「……そうかも」


 月菜は笑いながら、洗面所に自分の化粧品を並べた。最初は借りているだけのように感じていた場所が、いつの間にか、何も考えずに使える場所になっていた。


 綾世の前では、格好悪いところを見せても気にならなかった。サークルで汗をかいたままコンビニへ行くこともあれば、休日にほとんど化粧をせず、部屋着に近い格好で出かけることもあった。


 大学では落ち着いて見られることの多い月菜が、綾世の部屋ではソファに寝転がり、夢中になってゲームをしている。


「月菜さんって、かなりゲーマーなんですね」


「意外?」


「意外。もっとこう……真面目なことしてそう」


「失礼じゃない?」


「褒めてるんですよ」


「絶対違う」


 二人で笑う。


 そうした日々の中で、月菜の気持ちは少しずつ変わっていった。


 綾世と食事をしているとき。くだらない話で笑っているとき。朝、隣で眠そうにしている綾世を見たとき。以前なら純史を思い出していたような瞬間にも、いつしか目の前の綾世のことを考えるようになっていた。


 純史への気持ちがきれいさっぱり消えたわけではない。けれど、それとは別に、綾世のことが好きになっていた。


 付き合い始めた頃には、こんなふうになるとは思っていなかった。


 ただ一緒にいると楽しい。気を遣わずにいられる。自分の知らない世界を見せてくれる。そんな時間を重ねるうちに、月菜にとって綾世は、失恋の寂しさを紛らわせるための相手ではなくなっていた。


 そんなある日、月菜は大学からの帰り道、駅へ向かう階段の前で見覚えのある姿を見つけた。


 純史だった。


 足が止まる。向こうも月菜に気づいたらしい。


「……月菜?」


「純史……」


 久しぶりに名前を呼ばれ、胸の奥がわずかに揺れた。


「久しぶり」


「うん」


「元気だった?」


「元気だよ。純史は?」


「俺も」


 短い会話だった。以前なら、そのままいくらでも話せたはずなのに、今は何を話せばいいのか分からなかった。


「……サークル、もう来ないの?」


「うん。まあ、もう行くことないかな」


「そっか……」


 月菜は一瞬だけ言葉に迷った。


「……ごめん」


 純史は少し驚いたように月菜を見た。


「なんで月菜が謝るの?」


「……分かんない。なんとなく」


「そっか」


 純史は、それ以上何も聞かなかった。


 月菜は、胸の奥が少しだけ痛むのを感じていた。あの頃、本当に好きだった相手だ。簡単に何も感じなくなるはずもない。


 それでも、もう一度やり直したいとは思わなかった。


「じゃあ、私、行くね」


「うん」


「またね」


「……また」


 月菜は手を振り、その場を離れた。


 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。綾世からのメッセージだった。


『今日、何してる?』


 月菜は画面を見つめてから、返信した。


『今、駅。これからそっち行ってもいい?』


『いいですよ。待ってます』


 いつものようなやり取りだった。その短い返事を見て、月菜は自然と笑った。


 さっき純史と会ったことを、綾世に話そうとは思わなかった。隠したいからではない。ただ、今の自分にとって、それはわざわざ話すほどのことではないように感じられた。


 綾世の部屋に着くと、月菜は靴を脱ぎながら声をかけた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


「ご飯、何にする?」


「月菜さんが決めてください」


「また私?」


「じゃあ、僕が決めます」


「お願い」


 そんな何気ない会話を交わしながら、月菜は綾世の隣に腰を下ろした。


 純史のことを嫌いになったわけではない。高校から続いていた時間も、付き合っていた一年余りも、全部嘘だったとは思わない。あの頃は、本当に好きだった。


 けれど、今、自分が一緒にいたいと思う人は、目の前にいる。


 そう思えることが、月菜には嬉しかった。


 それからも二人の時間は続いた。大学では授業を受け、サークルにも以前ほど頻繁ではないものの、二人で顔を出すことがあった。綾世の友人たちと一緒に過ごす機会も増え、月菜は後輩たちとも自然に話せるようになっていた。


「紬さん、最近ずっと綾世と一緒じゃないですか?」


「そう?」


「そうですよ。半分くらい綾世の家にいるでしょ」


「そうかも」


 月菜が笑うと、相手も笑った。


 気づけば、綾世の部屋には洋服や化粧品のほか、本やゲーム、小さなぬいぐるみまで置かれるようになっていた。大学へ持っていく鞄を置いたまま帰る日さえあった。


「これ、もう半分同棲じゃない?」


 月菜が言うと、綾世は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、もう一緒に住んでるってことでいいんじゃないですか?」


「それはちょっと違うでしょ」


「なんで?」


「ちゃんと家にも帰ってるから」


「たまにね」


「たまにじゃないよ」


 そんな言い合いをしながら、二人で笑った。


 その頃には、月菜は綾世のことを心から好きになっていた。

 純史の代わりとしてではなく、綾世と過ごした時間の中で、綾世自身を好きになったのだ。


 一緒にいると楽しい。くだらないことで笑える。気を遣わずにいられる。


 そして、何より、この人といる今が好きだった。


 *


 半年ほどが過ぎた頃、月菜は以前よりも自然に綾世の隣にいるようになっていた。


 その日は、講義が終わったあとに友人と食事をする予定だった。

 けれど、午後の講義が思いのほか早く終わり、友人たちとも早めに別れることになった。


 駅へ向かいかけた月菜は、ふと足を止めた。


 まだ帰るには早い。


 綾世に連絡しようかとスマートフォンを取り出したものの、画面を開いたところで手が止まった。今日は会う約束をしていない。綾世にも何か予定があるかもしれない。


 そう考えながらも、顔が見たくなった。


 少し話をして、一緒にご飯を食べる。それだけでよかった。


 ――今から行ったら、びっくりするかな。


 そう思うと、少し楽しくなった。


 月菜はスマートフォンをしまい、そのまま綾世の部屋へ向かった。連絡を入れずに訪ねるのは初めてではない。合鍵も持っている。半年近く一緒に過ごしてきたのだから、これくらいはいいだろうと思った。


 駅を降り、見慣れた道を歩く。部屋が近づくにつれて、月菜の足取りは少し軽くなっていた。


 玄関の前で鍵を取り出し、扉を開ける。


「ただいま」


 いつものように声をかけたが、返事はなかった。


 月菜は首を傾げた。部屋の奥から、かすかに話し声が聞こえる。綾世が誰かと電話でもしているのだろうか。


「綾世?」


 呼びかけた直後、知らない女の笑い声がした。


 月菜は足を止めた。


 聞き間違いかと思った。けれど、続いて聞こえてきた声は、どう聞いても女性のものだった。


 奥の部屋へ近づくと、ドアが少しだけ開いているのが見えた。


「……だから、月菜さんにはまだ言わなくていいって」


 綾世の声だった。


 月菜は、そこで動けなくなった。


「そういう問題じゃないでしょ」


 女の声が返す。


「いつまでこういうこと続けるつもりなの?」


「声、大きいって」


「大きくもなるでしょ。私には付き合ってるみたいなこと言って、その人にも同じこと言ってるんでしょ?」


 月菜の胸が、嫌な音を立てた気がした。


 自分の名前が聞こえた。何を話しているのか、まだすべては分からない。聞き間違いであってほしいという気持ちと、これ以上聞きたくないという気持ちが、頭の中でぶつかり合っていた。


 けれど、足は動かなかった。


「だから、今は……」


「今は何? 私には待ってろって言うの?」


 綾世は答えなかった。


 月菜はドアに手をかけた。指先が冷たくなっていることに、そのとき初めて気づいた。


 ゆっくりと扉を開ける。


「……綾世?」


 二人が同時に振り向いた。


 綾世の隣には、見知らぬ女が座っていた。テーブルの上には二人分の飲み物があり、椅子の背には女性用のカーディガンが掛けられている。部屋の隅には、月菜のものではないバッグも置かれていた。


 一瞬、何も考えられなかった。


「月菜さん……」


 綾世の顔から、いつもの軽い笑みが消えた。


 月菜は、隣の女を見た。それから綾世へ視線を戻す。


「……誰?」


「えっと、これは……」


「誰なの?」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 女が気まずそうに立ち上がった。


「私、帰るね」


「待って」


 月菜の声に、女が振り返る。


「あなた、綾世と付き合ってるの?」


 女はすぐには答えなかった。困ったように綾世を見て、それから月菜へ視線を戻した。


「……この人、私にも同じこと言ってるから」


 月菜は、もう一度綾世を見た。


「どういうこと?」


「いや、違うんですよ。月菜さん、これは……」


「何が違うの?」


 綾世は口を開いたが、言葉が続かなかった。


 月菜は部屋の中を見回した。自分の歯ブラシ。洗面所に置いてある化粧水。棚に並べたゲーム。何度もここで朝を迎えた。眠そうな綾世に笑いかけ、くだらないことで言い合い、夕食を食べながらテレビを見た。


 ここは、いつの間にか自分にとっても馴染みのある場所になっていた。


 それなのに今は、知らない誰かの部屋へ迷い込んだような気がした。


「……いつから?」


 月菜が尋ねると、綾世は視線を落とした。


「月菜さん、ちょっと落ち着いて。ちゃんと説明するから」


「いつからなの?」


 もう一度聞いても、答えは返ってこなかった。


 女はバッグを手に取った。


「ごめん。私、帰るね」


 月菜は何も言えなかった。女を責めたいのか、綾世を責めたいのか、それすら分からなかった。ただ、二人の会話の中に自分の名前が出ていたことだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。


 女が部屋を出ていく。玄関の扉が閉まる音がしても、月菜はしばらくその場に立ち尽くしていた。


「月菜さん……」


 綾世が近づこうとした。


「来ないで」


 思ったより強い声が出た。


 綾世は足を止めた。


「……ごめん」


 その一言を聞いて、月菜はようやく、何かを聞いてしまったのだと実感した。


「……今日は帰る」


「待って。ちゃんと話したい」


「今は無理」


「月菜さん、お願いだから――」


「今は、何も聞きたくない」


 月菜は自分のバッグをつかんだ。置いてある私物をすべて持って帰る余裕はなかった。何を持っていくべきか考えることさえできず、手に取ったバッグだけを抱えて玄関へ向かった。


「月菜さん」


 背後から呼ばれたが、振り返れなかった。


 扉を閉めて外へ出ると、夕方の空気が思っていたより冷たかった。


 駅へ向かう道を歩きながら、月菜は何度も立ち止まりそうになった。何が起きたのか、まだうまく整理できない。さっきの女の言葉が頭の中を巡るたび、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 悲しいのか、腹が立っているのか。それとも、何かの間違いであってほしいと思っているのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、綾世の顔が浮かぶたびに、さっきまで当たり前だと思っていた日常が、急に遠いものになってしまったように感じた。


 その夜、綾世から何度もメッセージが届いた。


『待って。ちゃんと話したい』


『今日のは誤解もあるから』


『お願いだから、話を聞いて』


 月菜は画面を開いては閉じた。何か返そうとしても、言葉が見つからなかった。


 誤解があるのなら、説明してほしい。けれど、何をどう説明されても、あの場で聞いた言葉が消えるわけではない。


 月菜はスマートフォンを伏せ、ベッドに横になった。


 眠ろうとしても、目を閉じるたびに綾世の部屋が浮かんだ。テーブルに並んだ二人分の飲み物。見知らぬ女のバッグ。自分の名前を口にした綾世の声。


 そのうち、楽しかった時間まで次々と思い出された。


 ゲームに夢中になって夜更かししたこと。朝、二人そろって寝坊したこと。自分の荷物が増えるたび、綾世がからかうように笑ったこと。


 あの時間まで、全部嘘だったのだろうか。


 そう考えた瞬間、月菜は布団の中で目を閉じた。


 違う。少なくとも、自分が楽しかったことまで嘘にはできない。


 綾世を好きになっていった気持ちも、一緒に過ごした時間も、月菜にとっては本当だった。


 だからこそ、苦しかった。


 翌日、月菜は綾世に会うことにした。


 メッセージを返したのは、昼を過ぎてからだった。


『話は聞く。でも、今日でちゃんと終わりにしたい』


 送信してから、しばらく画面を見つめた。自分が何を決めたのか、まだ気持ちが追いついていなかった。それでも、昨日の部屋へ戻って、何事もなかったように笑うことはできない。


 待ち合わせたのは、大学から少し離れた小さな公園だった。綾世の部屋へ行く気にはなれなかった。


 綾世は先に来ていた。月菜の姿を見つけると、すぐに立ち上がった。


「月菜さん……」


「話して」


 月菜はベンチの前に立ったまま言った。隣に座る気にはなれなかった。


 綾世は一度、口を開きかけてから、視線を落とした。


「……ごめんなさい」


「昨日の人とは、いつから?」


 綾世はすぐには答えなかった。


「少し前からです」


「少しって、どれくらい?」


「……何週間か」


 月菜は唇を結んだ。


 半年近く、一緒に過ごしてきた。その間に、綾世は別の女性とも会っていたのだ。


「私と付き合ってること、あの人には何て言ってたの?」


「ちゃんと話せてなくて……」


「じゃあ、あの人にも、私にも、はっきり言わないままだったってこと?」


 綾世は何も言わなかった。


「どうして?」


「月菜さんのことも好きだったんです」


 その言葉に、月菜は顔を上げた。


「……好きだった?」


「今も好きです。別れたいわけじゃなかった。どうしたらいいか分からなくて、言えなかったんです」


「言わなかったら、何も起きないと思ったの?」


 綾世は答えなかった。


 月菜は、責める言葉をいくつも思い浮かべた。どうして隠したのか。どうして自分の名前をあんなふうに口にしたのか。どうして、あの部屋で自分がどれほど安心して過ごしていたのか、分かってくれなかったのか。


 けれど、口に出そうとすると、どれも途中で途切れてしまった。


「……私、綾世のこと好きだったよ」


 ようやく出てきた言葉は、それだった。


「最初は、こんなに好きになると思ってなかった。でも、一緒にいるのが楽しくて。綾世の部屋に行くのも、何でもない話をするのも、当たり前みたいになってて……」


 声が少し震えた。月菜は息を整えようとしたが、うまくいかなかった。


「だから、昨日のこと、どう受け止めたらいいのか分からない」


「月菜さん……」


「今までのことが全部嘘だったなんて、思いたくない。でも、これからも同じように綾世を信じられるかって言われたら……分からない」


 綾世が一歩近づいた。


「もうしません。ちゃんとします。だから――」


「……ごめん」


 月菜は首を横に振った。


「今、そう言われても、信じられない」


 綾世は立ち止まった。


 月菜は彼の顔を見た。いつも冗談を言って笑っていた顔だった。自分が寝坊して慌てているとき、隣で笑っていた顔。ゲームに負けて悔しがる自分を、面白そうに見ていた顔。


 その人を、嫌いになったわけではなかった。


 今も好きな気持ちが、どこかに残っている。だからこそ、すぐに割り切ることはできなかった。


 それでも、昨日のことをなかったことにして、また同じ部屋で過ごす自分を想像することはできなかった。


「……別れよう」


 月菜は、綾世を見て言った。


 綾世は何かを言いかけたが、結局、言葉にはならなかった。


「月菜さん、本当に……?」


 月菜は小さくうなずいた。


「うん」


 それ以上、綾世は引き止めなかった。


 別れを告げたのは月菜だった。けれど、そう言えば気持ちがすっきりするわけではなかった。


 その場を離れて、駅へ向かう。改札を通り、ホームへ続く階段を下りたところで、月菜はようやく足を止めた。


 視界が滲んだ。


 こらえようとしたが、涙は止まらなかった。


 悲しかった。腹も立っていた。どうしてこんなことになったのか、何度考えても分からなかった。


 綾世と過ごした日々が、次々と浮かんでくる。笑ったことも、ふざけ合ったことも、朝になって慌てて支度をしたことも。もう戻れないのだと思うと、胸の奥が痛んだ。


 それでも、あの半年間が無意味だったとは思えなかった。


 純史への気持ちを残したまま綾世と付き合い始めたことも、そこから少しずつ綾世を好きになったことも、月菜にとっては本当だった。


 綾世を好きになった自分まで、間違いだったことにしたくはなかった。


 ホームに電車が入ってきた。風が吹き、頬を伝う涙が冷えた。


 月菜は手の甲で目元を拭い、電車に乗り込んだ。


 窓に映った自分の顔は、いつもよりひどく疲れて見えた。


 電車が動き出す。


 月菜は窓の外を眺めながら、綾世と過ごした部屋のことを思い出していた。

 もうあそこへ行くことはない。

 洗面所に置いた化粧水も、棚に並べたゲームも、取りに戻らなければならないものがまだ残っている。


 明日になれば、また大学へ行くのだろう。


 そう思っても、今はまだ、明日のことを考える気にはなれなかった。


 月菜は窓に映る自分から目をそらし、静かに目を閉じた。

お読みいただきありがとうございます!

楽しんでいただけたら幸いです。

これからマイペースに更新していく予定ですので、もしよろしければ【ブックマーク】や【評価】をしていただけると、執筆の励みになります!

【ノクターンノベルズ】でも執筆しています。

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