【過去】綾世②
目を開けた瞬間、月菜は見慣れない天井を見つめていた。
白い照明。知らない部屋。自分がどこにいるのか、一瞬では分からなかった。
身体を起こそうとして、頭の奥が重くなる。
「……っ」
昨夜のことを思い出そうとした。
けれど、記憶がうまく繋がらない。
飲み会。
サークル。
後輩たち。
自分が誘った一年生。
そこから先が、まるで霧の中に隠れているようだった。
月菜はゆっくりと隣へ視線を向けた。
そこには、綾世が眠っていた。
「……え?」
息が止まりそうになった。
どうして。
なぜ自分が、ここにいるのか。
昨夜、自分は何をしていたのか。
月菜は布団を握りしめたまま、必死に記憶を探した。
けれど、思い出せない。
断片的な場面はいくつか浮かぶ。笑い声。グラス。綾世の顔。何かを話していたこと。
それ以上は、どうしても繋がらなかった。
「……どうしよう」
小さく呟いた。
その声に反応したのか、隣で綾世が身じろぎした。
「ん……」
しばらくして、綾世が目を開ける。
「……あれ。月菜さん、起きてたんだ」
あまりにも普通の声だった。
そのことが、月菜にはかえって怖かった。
「綾世……私たち……」
「ああ」
綾世は少し眠そうに目をこすった。
「昨日のこと、覚えてないんですか?」
「……あんまり」
月菜が答えると、綾世は少しだけ笑った。
「結構飲んでましたもんね」
「私……何か言ってた?」
「言ってましたよ」
「何を?」
綾世は少し考えるような素振りを見せたあと、何でもないことのように言った。
「彼氏さんとは、もう別れるって」
「……え?」
「もう終わりにするって言ってました」
月菜は言葉を失った。
そんなことを言った覚えはない。
けれど、記憶がない以上、完全に否定することもできなかった。
「私……そんなこと……」
「言ってましたよ」
綾世は笑った。
「それに、僕のことも好きだって」
胸の奥が大きく跳ねた。
「……私が?」
「はい」
綾世は迷いなく頷いた。
「だから、僕は月菜さんもそのつもりなんだと思ってました」
月菜は黙り込んだ。
何も思い出せない。
だからこそ、綾世の言葉を疑うことができなかった。
ただ、すぐに純史の顔が浮かんだ。
大学に入ってからずっと一緒にいた。
楽しかった時間もあった。
身体を重ねることが普通になってから、以前ほど何もかも一緒ではなくなった。それでも、嫌いになったわけではない。
むしろ、まだ好きだった。
だからこそ、昨夜のことが怖かった。
「……私、どうすればいいんだろう」
月菜が呟く。
綾世は少しだけ考え、それから軽い口調で言った。
「とりあえず、昨日のことは僕たちだけの秘密にしておけばいいんじゃないですか?」
「……秘密」
「はい。誰かに言ったって、月菜さんが困るだけでしょ?」
月菜は返事をしなかった。
それから数日間、月菜は何度も自分の中であの夜のことを考えた。
純史と別れるべきなのか。
綾世の言う通り、本当に自分は別れると言ったのか。
何も思い出せないことが、何より苦しかった。
けれど、純史と顔を合わせると、いつも通りには振る舞えなかった。
目を合わせることが怖い。
何も知らない純史の隣にいることが、以前より苦しく感じられる。
それでも、別れたいわけではなかった。
好きだった。
今でも、純史のことが好きだった。
だからこそ、月菜は自分の中に残っているものを簡単にはなかったことにできなかった。
綾世とのことを話すこともできない。
話してしまえば、すべてが終わる。
そんなことを考えながら過ごしていたある日、サークル内で妙な噂を耳にした。
「紬さんって、この前一年の家に泊まったって本当?」
何気ない一言だった。
けれど、月菜の心臓が大きく跳ねた。
「……え?」
「いや、違うならいいんだけど」
その場では笑って誤魔化した。
けれど、その噂が純史の耳にも入っていることを知ったとき、月菜はもう逃げられないと思った。
「月菜」
帰り道、純史に呼び止められた。
「ちょっと話したい」
「……うん」
二人きりになった場所で、純史はしばらく黙っていた。
「この前、後輩の家に泊まったって聞いた」
月菜は俯いた。
「……うん」
「本当なの?」
「……本当」
その一言を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
「何もなかったって言える?」
月菜は答えられなかった。
嘘をつけばいい。
何もなかったと言えば、もしかしたら純史は信じてくれるかもしれない。
でも、それはできなかった。
「……分からない」
「分からないって?」
「本当に、あんまり覚えてないの」
純史の表情が苦しそうに歪んだ。
「でも、泊まったことは本当なんだよな」
「……うん」
「どうして?」
その問いに、月菜は答えを見つけられなかった。
自分でも分からない。
どうしてあの夜、綾世と一緒にいたのか。
どうして自分は止められなかったのか。
そして、どうして今でも純史のことが好きなのか。
「……ごめん」
月菜の目から涙がこぼれた。
「私、純史のこと……まだ好き」
「……うん」
「だから、別れたくない」
そこまで言ってから、月菜は首を横に振った。
「でも……このまま付き合ってるのも、違うと思う」
「月菜……」
「私が悪いのは分かってる。だから……」
涙を拭いながら、月菜は顔を上げた。
「別れよう」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
本当は別れたくなかった。
純史のことが嫌いになったわけではない。
それでも、このまま何もなかったように付き合い続けることはできなかった。
純史はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
その一言が、月菜には何より辛かった。
大学からの帰り道、月菜は一人で歩いた。
涙が止まらなかった。
別れたくなかった。
好きだった。
それでも、自分から終わらせた。
自分が何をしたのか、そのすべてを覚えているわけではない。
それでも、純史を傷つけたことだけは分かっていた。
数日後。
サークルにも、以前ほど顔を出す気にはなれなかった。
誰かと話していても、純史のことを思い出してしまう。
今まで当たり前だったものが、突然なくなってしまった。
そんな月菜の前に、綾世が現れた。
「月菜さん」
「……綾世くん」
「最近、元気ないですね」
「……別に」
「別にって顔じゃないですよ」
以前なら、軽く笑って流していたかもしれない。
けれど今の月菜には、その言葉を返す気力もなかった。
「純史さんと……別れたんですか?」
月菜の身体がわずかに固まった。
「……なんで知ってるの?」
「サークルにいれば、なんとなく分かりますよ」
綾世はそう言って、月菜の隣に腰を下ろした。
「僕なら、そんな顔させないですけどね」
「……そういうこと言わないでよ」
「どうしてですか?」
「今は……そういう気分じゃないから」
「じゃあ、僕が一緒にいますよ」
軽い口調だった。
高校時代の純史とは違う。
何でも話を聞いてくれるわけでもない。
同じものを好きになってくれるわけでもない。
それでも、綾世は何も難しく考えず、月菜の隣にいた。
「月菜さん、やっぱり僕と付き合いません?」
月菜は答えなかった。
純史と別れて、まだそれほど時間が経っていない。
今すぐ別の恋人を作っていいのか。
そんなことを考える余裕もなかった。
ただ、隣にいる綾世の存在が、今の自分には妙に心地よかった。
「……私、まだ純史のこと好きだよ」
「知ってます」
「それでも?」
「それでも」
綾世は笑った。
「そのうち僕のことを好きになってくれればいいじゃないですか」
月菜はしばらく黙っていた。
純史への気持ちが、すぐに消えるわけではない。
それでも、綾世と過ごした時間を思い返すと、彼のことを嫌いだとは思えなかった。
むしろ、いつの間にか一緒にいることを心地よく感じるようになっている自分にも気づいていた。
「……分かった」
その言葉は、純史を忘れたという意味ではなかった。
その瞬間、綾世が嬉しそうに笑った。
「本当ですか?」
「うん」
月菜も、ほんの少しだけ笑った。
それが正しい選択なのかは、分からなかった。
純史のことをまだ好きなまま、別の人と付き合うことにした。
それでも今の月菜には、これ以上一人でいることのほうが辛かった。
だから――。
月菜は、自分の意思で綾世との関係を始めることを選んだ。
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