【過去】綾世①
大学二年の春。
新しい学年が始まっても、月菜の日常は大きく変わらなかった。
講義を受け、課題をこなし、サークルに顔を出す。
大学一年の頃に比べれば、何もかもが分かっている。
教室の場所も、履修の仕組みも、学食の混む時間も。
大学という場所が、いつの間にか自分の日常になっていた。
春の日差しが少しずつ強くなる中、月菜は淡い色のブラウスに膝丈のスカートを合わせ、その上に薄手のカーディガンを羽織ってキャンパスを歩いていた。
校門から続く道には、新入生らしい学生たちの姿が増えている。
その中を歩いていると、自分も一年前は同じような顔をしていたことを思い出した。
けれど、恋人との関係だけは、少しずつ変わっていた。
純史とは別れていない。会えば普通に話すし、一緒に食事をすることもある。
身体の関係も、もう特別なことではなくなっていた。最初の頃にはあれほど意識していたことも、今では二人にとって自然なものになっている。
その一方で、以前のように何もかも一緒という関係ではなくなっていた。
大学一年の頃は、授業が終われば自然と一緒に帰った。
空いた時間があれば会い、休日にも連絡を取り合った。
何か面白いことがあれば話したし、くだらないことでも共有した。
それが少しずつ減っていた。
「月菜、サークル行くの?」
ある日、純史にそう聞かれた。
「うん。行こうかな」
「ふーん」
「純史は?」
「俺は今日はいいや」
「そっか」
それだけだった。
以前なら、どちらかが行くなら一緒に行くことが多かった。
けれど今は、互いに別々の予定を選ぶことが増えている。
月菜は、それを不満だとは思わなかった。大学生なのだから、それくらい普通なのだと思っていた。
恋人だからといって、いつも一緒にいる必要はない。
そう思えるようになったこと自体、月菜が大学生活に慣れた証拠なのかもしれなかった。
その頃から、月菜は以前よりサークルに顔を出すようになった。
特別な理由があったわけではない。そこに行けば、誰かがいる。
くだらない話をして、笑って、軽く身体を動かして、帰る。そんな時間が楽しかった。
「月菜、今日来たんだ」
「うん。暇だったから」
「じゃあ、ちょうどいい。人数足りなかったんだよ」
「何するの?」
「バドミントン」
「私、そんな得意じゃないよ?」
「知ってる」
「ひどい」
そんな会話をしながら、月菜は笑った。
サークルに行けば、純史がいなくても誰かが話しかけてくれる。
授業とは違う友人ができ、学年の違う学生とも知り合うようになった。
いつの間にか、月菜の大学生活の中で、サークルの占める割合は少しずつ大きくなっていた。
純史と一緒にいる時間が減ったから、サークルへ行くようになったのか。
それとも、サークルが楽しくなったから、純史との時間が減っていったのか。
月菜自身にも、はっきりとは分からなかった。
ただ、自分の居場所が、少しずつ変わっている。そんな感覚だけはあった。
*
サークルでは、新入生歓迎の準備が始まっていた。
勧誘用のチラシを作り、大学の構内で新入生に声をかける。月菜も、その手伝いをしていた。
この日は白いブラウスに淡いベージュのスカートを合わせ、肩にサークルの資料が入ったトートバッグを掛けていた。
「サークル入りませんか?」
「スポーツとか、バーベキューとか、いろいろやってますよ」
何人かの新入生に声をかけながら、チラシを渡していく。
そのときだった。
「え、なにそれ。楽しそう」
声に振り向くと、小柄な男の子が立っていた。
月菜とほとんど変わらないくらいの身長で、細身。
柔らかな顔立ちに、少し長めの髪。一見すると、おとなしそうな印象だった。
「本当にいろいろやるんですか?」
「うん。スポーツもするし、夏は合宿で海とか、冬はスノボに行ったりもするよ」
「へえ。じゃあ、入ろうかな」
「ほんと?」
「うん。先輩がかわいいし」
「え?」
月菜が目を丸くすると、男の子は悪びれもせず笑った。
「だって、勧誘してる先輩が怖かったら入りたくないじゃないですか」
「そ、そうだけど……」
「月菜先輩っていうんですよね?」
「え、なんで名前知ってるの?」
「名札」
「ああ……そうだった」
「じゃあ、僕も名前言いますね。黒岩綾世です」
「綾世くん?」
「はい。よろしくお願いします、月菜先輩」
そう言って、綾世は人懐っこく笑った。
見た目から受ける印象とは違って、ずいぶんと距離が近い。
初対面なのに、こちらが構える暇もないくらい自然に懐へ入ってくる。
「じゃあ、綾世くん。新歓来る?」
「行きます」
「即答だね」
「月菜先輩がいるなら行きます」
「またそういうこと言って」
「本当ですよ?」
月菜は思わず笑った。
小柄で可愛らしい見た目なのに、話してみると妙に調子がいい。それが綾世という後輩だった。
*
新入生歓迎会の日。
店の中には、サークルの学生たちが集まっていた。
去年までなら、月菜はまだ新入生側だった。けれど今年は違う。
後輩がいる。自分が声をかけて、サークルに誘った一年生も来ている。
そんなことを考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。
そして、その日は月菜にとって、もう一つ初めてのことがあった。
四月三日生まれの月菜は、二十歳になったばかりだった。
大学一年の頃、飲み会に参加してもソフトドリンクしか飲んでいなかった。
けれど、今日は違う。
「月菜先輩、飲まないんですか?」
綾世がグラスを覗き込んでくる。
「うん。まだ慣れてなくて」
「もう二十歳なんですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、飲みましょうよ」
「綾世くん、グイグイ来るね」
「だって、二十歳になったばっかりなんですよ? 記念ですよ、記念」
そう言って、綾世は楽しそうに笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「やった」
月菜は初めて酒を口にした。
思っていたより苦かった。
「うわ……苦い」
「最初はそんなもんですよ」
「綾世くんは平気なの?」
「僕は慣れてますから」
「一年生なのに?」
「そこは秘密です」
「何それ」
月菜が笑う。
少しずつ酔いが回ってくると、いつもより気持ちが軽くなった。
周囲では新入生たちが楽しそうに騒いでいる。
去年まで自分も、あの輪の中にいた。
それが今年は、後輩を迎える側になっている。
月菜は、そのことが少し嬉しかった。
「月菜先輩」
「ん?」
「先輩って、彼氏いるんですか?」
「……え?」
不意に聞かれて、月菜の手が止まる。
「なんで?」
「なんとなく」
「いるよ」
「やっぱり」
「何がやっぱりなの?」
「なんか、そんな感じするから」
「どんな感じ?」
「彼氏いそうな感じ」
「よく分からない」
月菜が笑う。
「でも、今日は彼氏さん来てないんですね」
「うん」
「サークル違うんですか?」
「同じだけど、今日は来てない」
「へえ」
綾世は、それ以上は聞かなかった。
けれど、月菜の胸の奥に、小さな寂しさが残った。
以前なら、こういう場所にも純史がいた。
同じサークルだから、一緒に来ることも多かった。
去年までなら、月菜が何をするにも隣には純史がいた。
それが今は、いない。
だからといって、純史に来てほしかったのかと聞かれれば、月菜自身にも分からなかった。
ただ、少しだけ寂しい。その程度だった。
「月菜先輩、飲み物なくなってますよ」
「あ、本当だ」
「僕、頼みますよ」
「いいよ、自分で――」
「先輩は座っててください」
綾世は立ち上がると、軽い足取りでテーブルを離れていった。
その後ろ姿を見ながら、月菜は小さく笑った。
不思議な後輩だと思った。見た目はおとなしいのに、話してみると全然違う。
人との距離を縮めるのが上手くて、こちらが構える暇もない。
それでも、嫌な感じはしなかった。むしろ、一緒にいると自然に笑ってしまう。
その夜、月菜は綾世たちと話しながら、いつもより長く笑っていた。
新しい後輩ができたこと。自分が先輩になったこと。
二十歳になって初めて酒を飲んだこと。
純史がいないことへの、ほんの小さな寂しさ。
いくつもの感情が入り混じったまま、それでも月菜は、その時間を楽しんでいた。
その夜の記憶は、ところどころ曖昧だった。
*
目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
白い照明。
知らない部屋。
月菜はぼんやりと瞬きをした。
ここは、どこだろう。
身体を起こそうとしたところで、隣に誰かがいることに気づいた。
小さな寝息。
横を見る。
「……綾世くん?」
黒岩綾世が、すぐ隣で眠っていた。
月菜は、しばらく何も言えなかった。
昨夜のことを思い出そうとする。
飲み会。みんなで騒いでいたこと。
綾世と話していたこと。
その先の記憶は、ところどころ途切れている。
けれど、隣で眠っている綾世を見れば、何が起きたのかを考えないわけにはいかなかった。
「……どうしよう」
月菜は小さく呟いた。
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