↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
清楚な妻の恋愛遍歴~月菜の記憶~  作者: トマット


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/8

 普通の日々

 翌日の朝。


 月菜は、久しぶりに見慣れたスーツに袖を通していた。


 淡いベージュのブラウスに、細身のネイビーのジャケット。鏡の前に立ち、襟元を整える。肩にかかるストレートの髪はいつも通り下ろしたまま、毛先だけを軽く整えた。


 結婚してからも、仕事へ行くときの服装が特別変わったわけではない。

 それでも、鏡に映る自分を見ていると、ほんの少しだけ違って見える気がした。


 昨日まで、部屋の中は段ボールだらけだった。


 引っ越しを終えたばかりで、まだ完全に片付いたわけではない。リビングの隅には畳んだ段ボールがいくつか残っているし、クローゼットの中にも整理しきれていない荷物がある。


 それでも、今日からはいつもの生活に戻らなければならない。


「行ってきます」


「うん。気をつけて」


 玄関でパンプスを履き、月菜が振り返る。


「桃亮も今日からだよね?」


「うん。午後だけ、俺も久しぶりだから、ちょっと変な感じするけど」


「私も」


「じゃあ、お互い頑張ろう」


「うん。頑張ろうね」


 それだけの会話だった。


 けれど、月菜は少し嬉しかった。


 結婚したからといって、毎日特別なことがあるわけではない。


 朝起きて、仕事へ行き、帰ってきて、一緒に食事をする。


 そんな普通の日々が、今の月菜には心地よかった。


 会社に着くと、久しぶりの仕事が待っていた。


「おはようございます」


「おはよう、紬さん」


 声をかけてきたのは、中野課長だった。


 月菜がまだ旧姓の「紬」を使っていた頃からの上司であり、結婚式にも出席してもらっている。


「引っ越しは片付いたの?」


「はい。昨日でだいぶ片付きました」


「そうか。じゃあ、今日から仕事復帰か」


「はい。今日から通常通りです」


「新婚早々、大変だな」


 中野は軽く笑った。


「結婚式のときも忙しかっただろうに、よく頑張ったな」


「いえ。こちらこそ、結婚式ではスピーチまでしていただいて、ありがとうございました」


「いやいや。あれくらいなら」


「本当に助かりました」


「じゃあ、その分、今日は仕事を頑張ってもらおうかな」


「はい」


 月菜も笑って頭を下げた。


 自分の席へ向かう。


 パソコンを立ち上げ、机の上を整える。モニターに映る見慣れた画面を眺めていると、昨日までとは違う、仕事の日常が少しずつ戻ってくるのを感じた。


 いつも通りの職場。


 いつも通りの一日。


 それでも、以前とは少しだけ違う。


 月菜は、ふと昨日までの生活を思い出していた。


 引っ越し。

 結婚。

 そして、桃亮との新しい生活。


 まだ始まったばかりなのだ。


 その日の仕事を終え、外へ出ると、夕方の街はすっかり秋の気配を帯びていた。


 駅へ向かう人の流れに混じりながら歩いていると、スマートフォンが震えた。


『先に帰ってる』


 桃亮からだった。


『分かった。私も今向かってる』


 短く返信して、月菜はスマートフォンをバッグへ戻した。


 家に帰ると、桃亮はリビングにいた。


「おかえり」


「ただいま」


「久しぶりに働いて疲れた?」


「ちょっとね。でも桃亮も疲れたでしょ?」


「まあね、でも半休だから」


 二人で顔を見合わせる。


「今日はどうする?」


「昨日まで片付けばっかりだったし、今日は簡単にしようか」


「賛成」


「じゃあ、冷蔵庫にあるもので何か作ろう」


「俺、手伝うよ」


「じゃあお願い」


 月菜はジャケットを脱いでハンガーに掛け、ブラウスの袖を少しだけまくった。


 二人で冷蔵庫を覗き込み、残っていたきのこを取り出す。


「これ、まだ使えるね」


「うん。バターもあるし、きのこのバター醤油炒めにしようか」


「いいね」


 キッチンに二人で並ぶ。


 月菜がきのこの石づきを落としている横で、桃亮がフライパンをコンロに置いた。狭いキッチンでは、身体を動かすたびに肩が触れそうになる。


「これ、もう少し小さく切ったほうがいい?」


「うん。食べやすいくらいで」


「了解」


 桃亮が切ったきのこをフライパンに入れる。バターが溶ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンに広がった。


「いい匂い」


「まだ醤油入れてないけど」


「バターだけでもいい匂いするよ」


「じゃあ、ちょっと多めにする?」


「それは太るからやめて」


「月菜、そういうところだけ現実的だな」


「どういうところだけ?」


「いや、なんでもない」


 月菜が笑いながら醤油を手渡す。


「はい。これ入れて」


「了解」


 醤油がフライパンに落ちると、じゅっと音がして、香ばしい匂いがさらに強くなった。


「もういいんじゃない?」


「うん。いい感じ」


 桃亮が火を止める。


 二人で皿に盛りつける。


 食卓に料理を並べ、向かい合って座る。


「いただきます」


「いただきます」


 湯気の残るきのこを口に運びながら、二人はその日の仕事の話を始めた。


「今日、久しぶりに出勤したら、なんか変な感じだった」


「分かる。俺も最初ちょっと落ち着かなかった」


「でも、仕事始まると普通なんだよね」


「そうなんだよな」


「周りの人も普通に話しかけてくるし」


「休んでたのが嘘みたいな感じ?」


「そうそう」


 月菜が笑う。


 食事が一段落したところで、桃亮がテーブルの横に置いていたスマートフォンを手に取った。


「あ」


「どうしたの?」


「そういえばさ」


 桃亮が画面を月菜に見せる。


「『どうぶつコレクション』、新作出るらしい」


「あ、本当?」


 月菜の目が少し明るくなった。


「新しいエリアとどうぶつ、追加されるって」


「え、楽しそう」


「月菜、このシリーズ好きだったよな」


「うん。昔から好き」


「ずっとやってたよね」


「桃亮も好きだったじゃん」


「好きだった、じゃなくて今も好きだけど」


「ふふっ」


 月菜は笑った。


 どうぶつコレクション。


 高校時代、桃亮と一緒に遊んでいたゲームのひとつだった。


 あの頃は、夜中に電話をしながらオンラインプレイをしたり、新しいイベントが始まれば二人で盛り上がったりした。


「また一緒にやる?」


「いいね」


「じゃあ、今度やろうよ」


「うん」


 二人でそんな話をしていると、桃亮がふと思い出したように言った。


「そういえば、月菜って大学の頃も結構ゲームやってた?」


「うん……まあ」


「やっぱり?」


「結構やってたよ」


「大学って忙しかったんじゃないの?」


「忙しい時期もあったけど、ずっとじゃないから」


「そうなんだ」


 桃亮は少し笑った。


「月菜って大学ではどんな生活してたの?」


「どんなって……普通だよ」


「授業とか?」


「うん。授業行って、友達と遊んで、サークル行って……」


「サークル?」


「うん」


「何のサークル入ってたの?」


「いろいろやるところ。スポーツしたり、みんなで遊びに行ったり」


「へえ」


 桃亮が少し意外そうな顔をした。


「月菜がそういうサークル入ってたんだ」


「何、その言い方」


「いや、なんとなく」


「私だって普通に大学生活してたんだから」


「スポーツって、意外だなーと思って」


 月菜は箸を持ち直し、少しだけ胸を張った。


「私って、結構アクティブじゃん」


「めっちゃインドア派」


「……それは否定できないけど」


 月菜は小さく笑った。


「そのサークルって、結構楽しかった?」


 桃亮が何気なく尋ねる。


 月菜は少しだけ考えてから答えた。


「……うん、楽しかったよ」


「そっか」


 桃亮は、それ以上聞かなかった。


 月菜は、湯飲みに手を伸ばした。


 温かいお茶を一口飲む。


 そのことに、ほんの少しだけ安心した。


 そして、その安心の奥で。


 遠い昔の記憶が、また静かに動き始めていた。


 過去は、もう過ぎたことだ。


 そう思っている。


 後悔しているわけでもない。


 あのときの自分は、そのときなりに誰かを好きになり、その人との時間を大切にしていた。


 だからこそ、桃亮には話したくなかった。


 今さら、全部を説明する必要はないと思っていた。


 自分の中にしまっておけば、それでいい。


 そう思っていた。

お読みいただきありがとうございます!

楽しんでいただけたら幸いです。

これからマイペースに更新していく予定ですので、もしよろしければ【ブックマーク】や【評価】をしていただけると、執筆の励みになります!

【ノクターンノベルズ】でも執筆しています。

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。