普通の日々
翌日の朝。
月菜は、久しぶりに見慣れたスーツに袖を通していた。
淡いベージュのブラウスに、細身のネイビーのジャケット。鏡の前に立ち、襟元を整える。肩にかかるストレートの髪はいつも通り下ろしたまま、毛先だけを軽く整えた。
結婚してからも、仕事へ行くときの服装が特別変わったわけではない。
それでも、鏡に映る自分を見ていると、ほんの少しだけ違って見える気がした。
昨日まで、部屋の中は段ボールだらけだった。
引っ越しを終えたばかりで、まだ完全に片付いたわけではない。リビングの隅には畳んだ段ボールがいくつか残っているし、クローゼットの中にも整理しきれていない荷物がある。
それでも、今日からはいつもの生活に戻らなければならない。
「行ってきます」
「うん。気をつけて」
玄関でパンプスを履き、月菜が振り返る。
「桃亮も今日からだよね?」
「うん。午後だけ、俺も久しぶりだから、ちょっと変な感じするけど」
「私も」
「じゃあ、お互い頑張ろう」
「うん。頑張ろうね」
それだけの会話だった。
けれど、月菜は少し嬉しかった。
結婚したからといって、毎日特別なことがあるわけではない。
朝起きて、仕事へ行き、帰ってきて、一緒に食事をする。
そんな普通の日々が、今の月菜には心地よかった。
会社に着くと、久しぶりの仕事が待っていた。
「おはようございます」
「おはよう、紬さん」
声をかけてきたのは、中野課長だった。
月菜がまだ旧姓の「紬」を使っていた頃からの上司であり、結婚式にも出席してもらっている。
「引っ越しは片付いたの?」
「はい。昨日でだいぶ片付きました」
「そうか。じゃあ、今日から仕事復帰か」
「はい。今日から通常通りです」
「新婚早々、大変だな」
中野は軽く笑った。
「結婚式のときも忙しかっただろうに、よく頑張ったな」
「いえ。こちらこそ、結婚式ではスピーチまでしていただいて、ありがとうございました」
「いやいや。あれくらいなら」
「本当に助かりました」
「じゃあ、その分、今日は仕事を頑張ってもらおうかな」
「はい」
月菜も笑って頭を下げた。
自分の席へ向かう。
パソコンを立ち上げ、机の上を整える。モニターに映る見慣れた画面を眺めていると、昨日までとは違う、仕事の日常が少しずつ戻ってくるのを感じた。
いつも通りの職場。
いつも通りの一日。
それでも、以前とは少しだけ違う。
月菜は、ふと昨日までの生活を思い出していた。
引っ越し。
結婚。
そして、桃亮との新しい生活。
まだ始まったばかりなのだ。
その日の仕事を終え、外へ出ると、夕方の街はすっかり秋の気配を帯びていた。
駅へ向かう人の流れに混じりながら歩いていると、スマートフォンが震えた。
『先に帰ってる』
桃亮からだった。
『分かった。私も今向かってる』
短く返信して、月菜はスマートフォンをバッグへ戻した。
家に帰ると、桃亮はリビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「久しぶりに働いて疲れた?」
「ちょっとね。でも桃亮も疲れたでしょ?」
「まあね、でも半休だから」
二人で顔を見合わせる。
「今日はどうする?」
「昨日まで片付けばっかりだったし、今日は簡単にしようか」
「賛成」
「じゃあ、冷蔵庫にあるもので何か作ろう」
「俺、手伝うよ」
「じゃあお願い」
月菜はジャケットを脱いでハンガーに掛け、ブラウスの袖を少しだけまくった。
二人で冷蔵庫を覗き込み、残っていたきのこを取り出す。
「これ、まだ使えるね」
「うん。バターもあるし、きのこのバター醤油炒めにしようか」
「いいね」
キッチンに二人で並ぶ。
月菜がきのこの石づきを落としている横で、桃亮がフライパンをコンロに置いた。狭いキッチンでは、身体を動かすたびに肩が触れそうになる。
「これ、もう少し小さく切ったほうがいい?」
「うん。食べやすいくらいで」
「了解」
桃亮が切ったきのこをフライパンに入れる。バターが溶ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンに広がった。
「いい匂い」
「まだ醤油入れてないけど」
「バターだけでもいい匂いするよ」
「じゃあ、ちょっと多めにする?」
「それは太るからやめて」
「月菜、そういうところだけ現実的だな」
「どういうところだけ?」
「いや、なんでもない」
月菜が笑いながら醤油を手渡す。
「はい。これ入れて」
「了解」
醤油がフライパンに落ちると、じゅっと音がして、香ばしい匂いがさらに強くなった。
「もういいんじゃない?」
「うん。いい感じ」
桃亮が火を止める。
二人で皿に盛りつける。
食卓に料理を並べ、向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます」
湯気の残るきのこを口に運びながら、二人はその日の仕事の話を始めた。
「今日、久しぶりに出勤したら、なんか変な感じだった」
「分かる。俺も最初ちょっと落ち着かなかった」
「でも、仕事始まると普通なんだよね」
「そうなんだよな」
「周りの人も普通に話しかけてくるし」
「休んでたのが嘘みたいな感じ?」
「そうそう」
月菜が笑う。
食事が一段落したところで、桃亮がテーブルの横に置いていたスマートフォンを手に取った。
「あ」
「どうしたの?」
「そういえばさ」
桃亮が画面を月菜に見せる。
「『どうぶつコレクション』、新作出るらしい」
「あ、本当?」
月菜の目が少し明るくなった。
「新しいエリアとどうぶつ、追加されるって」
「え、楽しそう」
「月菜、このシリーズ好きだったよな」
「うん。昔から好き」
「ずっとやってたよね」
「桃亮も好きだったじゃん」
「好きだった、じゃなくて今も好きだけど」
「ふふっ」
月菜は笑った。
どうぶつコレクション。
高校時代、桃亮と一緒に遊んでいたゲームのひとつだった。
あの頃は、夜中に電話をしながらオンラインプレイをしたり、新しいイベントが始まれば二人で盛り上がったりした。
「また一緒にやる?」
「いいね」
「じゃあ、今度やろうよ」
「うん」
二人でそんな話をしていると、桃亮がふと思い出したように言った。
「そういえば、月菜って大学の頃も結構ゲームやってた?」
「うん……まあ」
「やっぱり?」
「結構やってたよ」
「大学って忙しかったんじゃないの?」
「忙しい時期もあったけど、ずっとじゃないから」
「そうなんだ」
桃亮は少し笑った。
「月菜って大学ではどんな生活してたの?」
「どんなって……普通だよ」
「授業とか?」
「うん。授業行って、友達と遊んで、サークル行って……」
「サークル?」
「うん」
「何のサークル入ってたの?」
「いろいろやるところ。スポーツしたり、みんなで遊びに行ったり」
「へえ」
桃亮が少し意外そうな顔をした。
「月菜がそういうサークル入ってたんだ」
「何、その言い方」
「いや、なんとなく」
「私だって普通に大学生活してたんだから」
「スポーツって、意外だなーと思って」
月菜は箸を持ち直し、少しだけ胸を張った。
「私って、結構アクティブじゃん」
「めっちゃインドア派」
「……それは否定できないけど」
月菜は小さく笑った。
「そのサークルって、結構楽しかった?」
桃亮が何気なく尋ねる。
月菜は少しだけ考えてから答えた。
「……うん、楽しかったよ」
「そっか」
桃亮は、それ以上聞かなかった。
月菜は、湯飲みに手を伸ばした。
温かいお茶を一口飲む。
そのことに、ほんの少しだけ安心した。
そして、その安心の奥で。
遠い昔の記憶が、また静かに動き始めていた。
過去は、もう過ぎたことだ。
そう思っている。
後悔しているわけでもない。
あのときの自分は、そのときなりに誰かを好きになり、その人との時間を大切にしていた。
だからこそ、桃亮には話したくなかった。
今さら、全部を説明する必要はないと思っていた。
自分の中にしまっておけば、それでいい。
そう思っていた。
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