【過去】純史②
大学に入学して最初の春は、月菜にとって思っていたより慌ただしく過ぎていった。
高校を卒業してから、生活は大きく変わった。
毎日着ていた制服はなくなり、授業の時間割も自分で組まなければならない。
周囲には知らない顔が増え、同じ高校から進学してきた友人もほとんどいなかった。
それでも、月菜には純史がいた。
「月菜、この授業取る?」
「うん。必修だから」
「じゃあ、俺も取ろうかな」
「純史、それ選ぶ理由になってないでしょ」
「いいじゃん。分からないところあったら教えてよ」
「逆じゃない? 純史のほうが成績いいじゃん」
そう言うと、純史は笑った。
高校時代、桃亮と疎遠になっていく中で、月菜は純史に相談したことがある。
自分の話を否定せず、最後まで聞いてくれた。
その時間があったからこそ、月菜は少しずつ純史に心を開いていった。
そして今は、恋人として、こうして同じ大学にいる。
桃亮のことを思い出す時間は、以前よりずっと少なくなっていた。
新しい授業、新しい友人、新しい環境。
覚えることも多く、毎日が慌ただしく過ぎていく。
その中に純史がいることが、月菜には心強かった。
講義が終われば一緒に学食へ行き、空いた時間にはキャンパスを歩く。
履修登録で迷えば相談し、課題が出れば互いに内容を確認する。
「この先生、出席厳しいらしいよ」
「ほんと? じゃあ絶対寝られないじゃん」
「月菜、大学で寝る気だったの?」
「眠くなるものは仕方ないでしょ」
「高校のときから変わってないな」
「純史だって寝てたじゃん」
「俺は目を閉じて考えてただけ」
「それ寝てる人の言い訳」
二人で笑う。
そんな何気ない時間が、月菜には楽しかった。
高校時代とは違う。
先生に決められた時間割もない。
放課後になれば必ず家へ帰る必要もない。
自分で選んだ場所で、自分で選んだ時間を過ごしている。
その自由さが、月菜には新鮮だった。
大学では、季節ごとにスポーツをしたり、夏にはバーベキューをしたりするサークルがあった。
特定の競技を本格的にやるわけではなく、大学生活を楽しむことを目的にしたような集まりだった。
月菜も純史に誘われて顔を出すようになった。
「月菜、こういうの好きそうだと思って」
「何が?」
「みんなで遊ぶの」
「まあ、嫌いじゃないけど」
「じゃあ入ろうよ」
「純史が入りたいだけじゃない?」
「それもある」
「あるんだ」
そんなやり取りをしながら、二人でサークルに参加するようになった。
軽いスポーツをしたり、夏にはバーベキューをしたり、ときには飲み会もあった。
授業だけでは知り合えなかった学生とも少しずつ仲良くなり、月菜の大学生活は次第に賑やかなものになっていった。
高校までとは違う自由な時間。
その中で、月菜は少しずつ大学そのものを好きになっていった。
純史と一緒に授業を受けることも、サークルでみんなと騒ぐことも、帰り道にくだらない話をすることも楽しかった。
桃亮と過ごしていた頃とは、何もかもが違う。
けれど、それを比べる必要はないと思っていた。
今は今で、ちゃんと楽しい。
そう思えるようになっていた。
大学生活にも少しずつ慣れ始めた頃、二人の距離も自然と近くなっていった。
最初の頃は、手をつなぐだけでも少し緊張した。
帰り道、人目を避けるように手をつないだり、駅で別れる前に短いキスをしたりするだけで、その日はずっと意識してしまう。
高校時代の桃亮との恋とは、また違う感覚だった。
桃亮と過ごした時間が間違いだったとは思っていない。
あの頃はあの頃で、本当に好きだった。
初めて手をつないだことも、初めてキスをしたことも、今でも大切な思い出として残っている。
けれど、今は純史と付き合っている。
高校時代とは違う相手と、違う時間を重ねている。
そのことを、月菜は少しずつ自然に受け入れていった。
そんなある夜だった。
いつものように純史の部屋で過ごしていたものの、帰る時間が近づいても、純史はすぐには月菜を帰らそうとしなかった。
月菜も、何となく言い出せずにいた。
会話が途切れる。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
互いに何を考えているのか、言葉にしなくても分かるような気がした。
「今日、もう少しいてくれない? 親、帰り遅いから」
「……うん」
その夜、月菜は初めて純史と一線を越えた。
初めてだった。
緊張もしたし、どうしていいのか分からない瞬間もあった。それでも、嫌ではなかった。
むしろ、好きな人とこれまでより深いところで繋がれたことが、嬉しかった。
終わったあと、純史の隣で横になりながら、月菜は小さく笑った。
恥ずかしさはあった。
けれど、それ以上に、恋人との間に新しいものが生まれたような温かさがあった。
帰宅してからも、なかなか眠れなかった。
ベッドの中で今日のことを思い出すたび、頬が熱くなる。
――純史と、もっと近くなれた。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
桃亮と付き合っていた頃には、まだ知らなかった感覚だった。
あの頃は、手をつないだだけでも十分だった。
初めてキスをした日のことを思い出すと、今でも少しだけ胸がくすぐったくなる。
それはそれで、大切な思い出だった。
そして今は、純史との間にも新しい思い出ができた。
どちらが良かったとか、どちらが大切だったとか、そんなことを比べる必要はない。
その時々で、自分は相手を好きだった。
月菜は、ただそれだけのことだと思っていた。
それからしばらくすると、二人きりで過ごす時間は以前より自然なものになっていった。
最初の頃にあった照れや緊張も、少しずつ薄れていく。
会えば身体を重ねる。
終われば、何事もなかったように服を着て、くだらない話をする。
そんな時間が、二人にとっての日常になっていった。
月菜自身も、それを不思議には思わなくなっていた。
恋人なのだから、こういう関係になるのも自然なことなのだと思っていた。
大学一年の夏を過ぎる頃には、大学生活そのものにもすっかり慣れていた。
履修登録にも迷わなくなり、講義室までの道も、学食の混雑する時間も分かっている。
サークルでは気の合う友人も増えた。
休日には純史と二人で出かけることもあった。
映画を見たり、食事をしたり、ゲームセンターに寄ったりする。
そんな毎日を重ねる中で、月菜は少しずつ、自分の中にある小さな違いに気づき始めた。
純史は、自分と同じものが好きなわけではない。
最初は、それを意識することすらなかった。
高校時代にはゲームの話にもアニメの話にも付き合ってくれたし、月菜が好きな作品の話をすれば、それなりに興味を示してくれた。
だから、大学に入ってからも、自然と同じように楽しめるものだと思っていた。
ある日の帰り道、月菜は新しく発売されたゲームの話をしていた。
「これ、絶対面白いと思う。今度一緒にやろうよ」
「いいよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、買ったら連絡するね」
「分かった」
純史は笑った。
そのときは、それだけだった。
ところが、実際にゲームを買って一緒にやろうと誘ってみると、純史は少し困ったように笑った。
「ごめん。今日はやめとこうかな」
「え? 約束したじゃん」
「そうなんだけど、あんまりゲームやる気分じゃなくて」
「そっか」
月菜は笑って頷いた。
「じゃあ、また今度ね」
「うん」
それ以上、気にすることはなかった。
けれど、それをきっかけに、今まで気に留めなかったことが少しずつ目につくようになった。
月菜がゲームの話をしても、純史は聞いてはくれる。
けれど、自分から話を広げることは少ない。
アニメの話をしても、月菜ほど熱心に見ようとはしない。
月菜が好きなものを否定するわけではない。
ただ、自分と同じものを、同じ熱量で好きになってくれるわけではなかった。
それに気づいたのは、大学一年の冬に入ってからだった。
その頃には、二人の恋人としての時間も、すっかり形が決まっていた。
大学で顔を合わせれば普通に話す。授業のことやサークルのことも話す。
けれど、二人で会おうとすると、いつの間にか行き先は決まっていた。
人の多い場所へ出かけるより、どちらかの部屋で過ごす。
食事をして、少し話して、それから二人きりになる。
最初の頃は、それも恋人らしい時間なのだと思っていた。
純史に求められることは、嫌ではなかった。
好きな人に必要とされている。
そう思えば、むしろ嬉しいくらいだった。
ただ、いつからか、その嬉しさとは別のものが胸に残るようになっていた。
ある夜も、二人で過ごしたあと、月菜は純史の隣に横になっていた。
部屋の明かりは消され、窓の外には冬の夜が広がっている。
純史はスマートフォンを手に取っていた。画面を眺めながら、何気なく指を動かしている。
月菜は隣で天井を見つめていた。
以前なら、このあとも何か話していた。
今日の授業がどうだったとか、サークルで誰がこんなことを言っていたとか。
くだらない話でも、二人で笑った。
けれど、最近はそういう時間が少なくなっていた。
「……純史」
「ん?」
「今日さ、大学で――」
月菜が話しかけると、純史はスマートフォンから目を離した。
「何?」
「ううん……なんでもない」
「そっか」
純史は、それ以上聞かなかった。
月菜は小さく笑った。
「疲れた?」
「ちょっとね」
「そっか」
それだけだった。
純史が悪いわけではない。
疲れていることだってある。スマートフォンを見ることだって、普通のことだ。
それなのに、月菜の胸には小さな寂しさが残った。
――私のこと、ちゃんと見てるのかな。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
けれど、すぐに打ち消した。
純史は自分のことが好きだと言ってくれている。
大学に入ってからも、ずっと一緒にいる。
何度も会っているし、こうして恋人として過ごしている。
それなのに、自分だけが不満を持つのはおかしいような気もした。
会っている。
身体も重ねている。
それなのに、以前より心の距離が近いとは思えない。
むしろ、身体だけが近くなって、他の部分が少しずつ離れているような気がする。
月菜は、その感覚をうまく言葉にできなかった。
純史が自分を身体だけの相手として見ている。
そう決めつけるほどのことでもない。
普段の純史は優しい。大学でも普通に話しかけてくるし、サークルでも一緒に笑う。
高校時代から、自分のことを大切にしてくれた人でもある。
だからこそ、月菜は余計に何も言えなかった。
自分の考えすぎなのかもしれない。
恋人なのだから、こういう時期があるのかもしれない。
そうやって、自分の中で何度も納得しようとした。
それでも、二人で過ごした夜のあと、純史が先に眠ってしまうと、月菜は一人で天井を見つめることが増えた。
隣にいるのに、どこか遠い。
そんな感覚だけが残っている。
月菜は、眠っている純史の横顔を見つめた。
嫌いになったわけではない。
今でも、好きだと思う。
だからこそ、余計に分からなかった。
好きなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
月菜は小さく息を吐き、布団を引き上げた。
まだ、この関係を終わらせるつもりはなかった。
純史と別れたいわけではない。
ただ、自分が感じ始めた小さな違和感を、どうすればいいのか分からなかった。
それは、ゲームやアニメの趣味が合わないということだけではなかった。
もっと別のところで、二人の間には何かが違っている。
そんな気がしていた。
それでも、月菜は純史を好きだった。
だから、その違和感を抱えたままでも、もう少しこの関係を続けてみようと思っていた。
大学一年の冬。
月菜にとっては、まだ答えを出すような問題ではなかった。
純史と一緒にいる時間には、ちゃんと楽しいと思える瞬間がある。
自分とは違うところがあるからといって、それだけで恋人として間違っているわけではない。
むしろ、違う部分があるのは当たり前なのだと思っていた。
春が来れば、二年生になる。
月菜は、これからも純史と付き合っていくのだと思っていた。
少なくとも、そのときは――。
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