【過去】純史①
クローゼットの奥から出てきた段ボール箱には、高校時代のアルバムが入っていた。
月菜が懐かしさに誘われるようにページをめくっていると、アルバムの間から一枚の紙が滑り落ちる。拾い上げてみると、それは大学受験のときに使った受験票だった。
「あ……懐かしい」
思わず声が漏れる。
受験票を手にした瞬間、あの頃のことが鮮明に蘇ってきた。
*
桃亮が北海道へ引っ越してから、しばらくの間は、遠距離恋愛も思っていたほど苦しくなかった。
電話をすれば、いつも通り話せた。学校であったことや、最近見たアニメの話、オンラインゲームで起きた出来事。離れていても、話したいことはいくらでもあった。
桃亮が北海道へ行ってからも、月菜はそれなりに寂しさを感じながら、それでも今までと同じように付き合っていけると思っていた。
けれど、九月になると、少しずつ状況が変わり始めた。
大学受験が現実的なものとして迫ってきたからだ。
学校では模試が増え、授業の内容も受験を意識したものになっていく。月菜自身も、勉強しなければという焦りを感じるようになっていた。
そんなとき、よく声をかけてくれたのが石原純史だった。
「紬、ここ分かる?」
「うん? ……あ、そこ?」
「そう。俺も最初よく分かんなかったんだけど」
純史は月菜と同じクラスだった。
それまで特別仲が良かったわけではない。けれど、受験勉強をするようになってから、自然と話す機会が増えていった。
分からないところを教えてもらったり、逆に月菜が知っていることを教えたりするうちに、純史と話すことに慣れていった。
受験が近づくにつれて、月菜の中には誰かに聞いてほしい不安が積み重なっていた。
このまま勉強していて本当に間に合うのか。
志望校を落としたらどうしよう。
周りはちゃんと進んでいるのに、自分だけ取り残されている気がする。
本当は、そうしたことを桃亮に話したかった。
以前なら、電話一本で「なんか不安でさ」と切り出せたはずだった。
けれど、最近の二人は、お互いの忙しさを気遣うばかりで、深い話ができなくなっていた。
そんなとき、純史が同じ目線で話を聞いてくれた。
「俺もさ、模試の結果見てからなんか眠れなくて」
「分かる。焦るよね」
「紬は大丈夫?」
「……実は、ちょっと自信なくなってきて」
話すと、純史は否定もせず、励ましすぎもせず、ただ同じ場所にいるように受け止めてくれた。
桃亮に言えなくなっていた言葉が、純史には自然と出てしまう。
そのことに、月菜は少しずつ救われていった。
そんなある日の放課後だった。
「紬って、まだ菅沢と付き合ってるんだよね?」
唐突な問いに、月菜は顔を上げた。
「うん。付き合ってるよ」
「そっか」
純史はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その数日後。
「俺、紬のこと好きなんだけど」
そう告げられた。
月菜は驚いた。
純史と話すことは増えていたし、一緒にいると心が軽くなった。それでも、桃亮と付き合っている以上、その気持ちを受け入れることはできなかった。
「ごめん。嬉しいけど……桃亮がいるから」
「うん。分かってる」
純史は、思っていたよりあっさりと引いた。
責めることもなかったし、桃亮のことを悪く言うこともなかった。
それからも、純史との関係は大きく変わらなかった。
勉強を教えてもらうこともあったし、学校でくだらない話をすることもあった。以前より少しだけ意識するようにはなったものの、月菜にとって純史は、気軽に話せるクラスメイトの一人だった。
一方で、桃亮との距離は、少しずつ変わっていった。
以前なら、学校が終わった頃には届いていたメッセージが来ない日が増えた。
月菜から送れば返事は来る。けれど、以前より遅い。
電話をすることも減っていった。
『最近、忙しい?』
そう聞けば、
『うん。ちょっとね』
そんな返事が返ってくる。
月菜も受験勉強が忙しかった。
だから、桃亮を責める気にはなれなかった。
きっと桃亮も、同じように思っているのかもしれない。
自分が忙しいから、桃亮も忙しい。
連絡が減ったのは、嫌いになったからではなく、お互いに余裕がなくなっただけ。
月菜は、そう考えるようにしていた。
それでも、以前のように頻繁に連絡を取ることはなくなっていった。
ある日、月菜は久しぶりに自分から桃亮へ電話をかけた。
「もしもし?」
『月菜?』
「うん」
久しぶりに聞く声だった。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……最近、忙しい?」
『まあ、学校とか色々あって』
「そっか」
『月菜は?』
「私も受験あるし、結構大変」
『そっか。お互い頑張らないとな』
「うん」
会話は続いた。
けれど、以前のように何時間も話すことはなかった。
どちらも相手を気遣っている。
だからこそ、どこまで踏み込んでいいのか分からない。
「じゃあ、またね」
『うん。また』
電話を切ったあと、月菜はスマートフォンを見つめた。
以前なら、もっと話したかったと思ったはずなのに。
今は、何を話せばいいのか分からなかった。
それからしばらくすると、桃亮からの連絡はさらに減っていった。
以前なら届いていたはずのメッセージが、来ない。
月菜から送ることも、少なくなった。
嫌われたわけではないと思う。
喧嘩をしたわけでもない。
それなのに、いつの間にか二人の間には、言葉にできない距離ができていた。
月菜は、その距離をどう埋めればいいのか分からなかった。
そして、無理に埋めようとも思えなかった。
受験が近づけば近づくほど、そんなことを考えている余裕もなくなっていった。
ある日の放課後。
教室に残って一人で勉強していると、純史が戻ってきた。
「まだいたんだ」
「うん。ちょっとだけ」
純史は月菜の机の横まで来ると、何気なく尋ねた。
「最近、菅沢とはどうなの?」
月菜は、少しだけ手を止めた。
「……分かんない」
「分かんない?」
「うん。なんか、前みたいに連絡取らなくなって」
それ以上、どう説明すればいいのか分からなかった。
純史は少し考えるように黙ってから、静かに言った。
「向こうも忙しいんじゃない?」
「……そうかな」
「紬も受験で忙しいだろ。たぶん、どっちも同じなんじゃない?」
その言葉に、月菜は少しだけ救われた気がした。
桃亮を責められたわけでもない。
自分を責められたわけでもない。
ただ、今の状況をそのまま受け止めてくれた。
「純史って、そういうところあるよね」
「どういうところ?」
「なんか……話しやすい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
月菜が笑うと、純史も笑った。
それから、月菜は少しずつ純史に話すことが増えていった。
受験への不安。
大学に入ったら何をしたいのか。
桃亮とのこと。
自分でも整理できていない気持ちを話しているうちに、月菜は気づいた。
純史には、何でも話せる気がする。
桃亮とは付き合っていた。
大切な人だった。
けれど、離れてからの時間が長くなるにつれて、二人の間にあったものが少しずつ変わってしまったのも事実だった。
その変化を、月菜はいつから感じていたのか、自分でも分からない。
ただ、もう以前のようには戻れないのかもしれない。
そんな考えが、少しずつ胸の中に浮かぶようになっていた。
それでも、桃亮と別れたわけではなかった。
公式に別れを切り出したわけでも、向こうから告げられたわけでもない。
だからこそ、月菜の中では「まだ終わっていない」という感覚と、「もう終わっているのかもしれない」という感覚が、曖昧に混ざり合っていた。
連絡を取らない日が続けば続くほど、後者の方が大きくなっていく。
それでも「別れた」と自分で認めるのは、どこか怖い気がした。
桃亮との時間を、自分の口では終わらせたくなかったのかもしれない。
合格発表の日。
掲示板の前で番号を見つけた瞬間、月菜は小さく息を吐いた。
受かっていた。
隣で純史も自分の番号を確認して、ほっとしたように笑っている。
「よかったな」
「純史も」
二人で少し離れた場所へ移ると、純史が改まった声で言った。
「紬。俺、やっぱり紬のことが好き」
月菜は、その言葉を聞いても驚かなかった。
もう一か月以上、桃亮とは連絡を取っていなかった。
最後にメッセージを送ったのも、返事が来たのも、ずいぶん前のことだった。
喧嘩をしたわけでもない。
別れ話をしたわけでもない。
ただ、少しずつ距離が離れて、そのまま何も言えなくなった。
その状態を、月菜はもう「付き合っている」とは思えなくなっていた。
終わらせる言葉を誰も発していないのに、関係だけが静かに消えていく。
その曖昧さを、これ以上自分の中に抱えておくのが、つらくなっていた。
「……私も、純史のこと、もっと知りたい」
それが、月菜の答えだった。
純史は嬉しそうに笑った。
「じゃあ……付き合ってくれる?」
「うん」
その日の帰り道。
二人で並んで歩きながら、純史が少し真面目な顔をした。
「なあ、紬」
「ん?」
「菅沢の連絡先、ブロックしてくれないか」
月菜は足を止めた。
「……え」
「俺の彼女なんだから。まだ残ってるの、なんか嫌だ」
純史の声は強くなかった。
ただ、はっきりとしていた。
月菜はスマートフォンを握ったまま、少しだけ黙った。
桃亮の名前が、まだアドレス帳に残っている。
最後にやり取りしたのは、もうかなり前だった。
それでも、消すことには抵抗があった。
消してしまえば、本当に終わってしまう気がしたから。
けれど、今の自分は純史と付き合っている。
曖昧なままにしておくのは、純史に対して不誠実だと分かっていた。
「……分かった」
月菜は画面を開き、桃亮の連絡先をブロックした。
指が少しだけ重かった。
それでも、純史が「ありがとう」と安堵したように笑ったのを見て、月菜は「これでいいんだ」と自分に言い聞かせた。
卒業式の日。
教室には、いつもより少しだけ浮ついた空気が流れていた。
友達同士で写真を撮ったり、卒業アルバムにメッセージを書き合ったり。
そんな中で、月菜と純史は二人きりになった。
「なんか、卒業するって変な感じだな」
「うん」
「これから大学でも会えるけど」
「同じ大学だもんね」
「そうそう」
二人で笑った。
そして、帰る前。
純史が少しだけ緊張した顔で月菜を見る。
「紬」
「ん?」
「……キスしていい?」
一瞬、胸が高鳴った。
けれど、月菜は小さく頷いた。
「……うん」
触れるだけの、短いキスだった。
それでも、月菜にとっては大きな意味を持つものだった。
高校生活が終わる。
桃亮との時間も、もう終わったのだと思った。
そして、新しい生活が始まる。
月菜は、その先に待っている大学生活を思い浮かべながら、純史の隣を歩いた。
*
――現在。
「月菜?」
声をかけられて、月菜は我に返った。
目の前には、夫の桃亮がいる。
「どうした?」
「……ううん」
手元を見ると、いつの間にかアルバムを開いたまま止まっていた。
「俺、月菜の卒業アルバムちゃんと見るの初めてかも」
「そうだっけ?」
「うん」
桃亮が隣からアルバムを覗き込む。
そこには、高校時代の月菜が写っていた。
「月菜、やっぱり見た目は清楚系だよね」
「やっぱりって何?見た目はって何?」
「いや、褒めてます」
「ふふっ」
月菜が笑う。
桃亮もつられて笑った。
開かれたページには、クラス全員の写真が並んでいる。
その中には、月菜と純史の姿があった。
月菜は一瞬だけその写真に目を留めた。
制服のまま並んで笑っている二人。
あの頃の自分が、少しだけ遠くに見える。
胸の奥が、かすかにざわついた。
桃亮は何も知らないまま、次の写真を指差している。
月菜はそっと次のページを開いた。
読んでいただきありがとうございます!




