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清楚な妻の恋愛遍歴~月菜の記憶~  作者: トマット


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1/8

 記憶①

 新婚の部屋には、まだ片付いていない段ボールが残っていた。


 キッチンの棚は一通り埋まったものの、リビングの隅には「本・ゲーム」と書かれた箱が二つ重なっている。菅沢桃亮(すがさわとうすけ)はソファに座り、その箱を眺めながら、すっかり冷めかけたコーヒーを手にしていた。


 風呂場から聞こえていた水音が止まる。


「桃亮、タオルこっち?」


「右側の棚」


「うん、あった」


 しばらくして、月菜がタオルを頭に乗せたまま出てきた。風呂上がりの黒髪は背中まで濡れていて、歩くたびに肩や背中へ重たく張りついている。白いブラウスとデニムのショートパンツ、ブラウスの裾は前だけ軽くたくし込まれていて、動くたびに腰の線が覗く。


「なにぼーっとしてるの。また片付け?」


「どうしようかなって」


「後でいいよ。今日は日曜なんだし。ほら、そこ空けるから」


 月菜は桃亮の隣に腰を下ろし、手元のカップを覗き込んだ。


「冷めてる。淹れ直す?」


「いい。このままで」


「ほんと、こだわらないね。桃亮、昔っからそう」


「月菜に言われたくない」


「はあ? 言っていいでしょ。お姉さんなんだから」


「それ、昔から変わらないな」


「何が?」


「お姉さんって言えば何でも許されると思ってるところ」


「だってお姉さんだもん」


 月菜は当然のように言って、白湯を一口飲んだ。


 月菜は昔から周囲に「清楚」と言われてきた。黒髪を長く伸ばし、声も仕草も落ち着いている。本人も、それが周囲からどう見えるのかは分かっていた。


 けれど家の中では昔からこんな調子だった。好きな話を始めれば途端に口数が増え、ゲームで負ければ本気で悔しがる。桃亮にとっては、外で見せている姿よりも、こうして気を抜いている月菜のほうがずっと馴染み深かった。


「ねえ、桃亮。昔のぷにゃトテ、箱に入ってる?」


「……あると思う。なんで?」


「懐かしくなって。一緒にやってたやつ。前のSWAP、まだあるでしょ」


 一昔前のゲームハードだった


「今さらやったら、月菜が勝つだろ」


「当たり前じゃん」


「即答かよ」


「だって私が教えたんだよ?」


「そこ関係ある?」


「あるの」


 月菜が笑う。


「桃亮、北海道に行ってからあんまやってなかったでしょ」


「対戦はやってない。CPU相手だと、なんか違うし」


「へえ」


「なに」


「別に」


「その顔、何かあるだろ」


「ないって」


 月菜はそう言って笑い、箱へ視線を向けた。


「やっぱり二人のときのほうがいいよね」


 桃亮も笑った。


 箱を開けるのは、もう少し片付けが進んでからでいい。


 そう思いながら、ふと視線を箱へ戻したときだった。


 ――いつから、こうなると思っていたんだろう。


 そんなことを考えた瞬間、記憶は自然と昔へ戻っていった。


 *


 紬月菜(つむぎるな)の家と菅沢桃亮(すがさわとうすけ)の家は、細い私道を挟んで門が並んでいた。


 子供の頃、その私道は二人にとって遊び場だった。同じ小学校、同じ中学校、そして同じ高校。月菜は一つ年上だったが、登下校の時間はいつも重なっていた。


 外にいる月菜は、昔から周囲の目を引いた。黒髪を長く伸ばし、制服もきちんと着ている。白いシャツの襟元も、リボンも乱れていない。男子から告白されたという話を聞くことも珍しくなかった。


 けれど、家に帰れば別人だった。


 好きなゲームの話になれば早口になり、勝負に負ければ本気で悔しがる。

 桃亮の部屋に上がり込んでは、床に寝転がって「もう一戦」と言い出す。

 学校で見せている姿より、ずっと子供っぽくて、ずっと気楽だった。


 そんな月菜に、ゲームを教えられたのが始まりだった。


「はい、これ」


 縁側で、月菜がゲーム機を差し出してきた。SWAPと呼ばれる機体の画面では、色のついた塊が次々と落ちている。


「なにこれ」


「ぷにゃトテ。落ちてくるの消すやつ。やってみ」


「無理」


「やってみ。見ててあげるから」


 言われるままに遊んでみたものの、桃亮はすぐに詰まった。


「そこ赤。あ、違う。そこ緑」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


「うるさい」


「うるさいじゃなくて、教えてあげてるの」


 後ろから画面を覗き込む月菜の髪が、頰に触れた。桃亮は画面を見ているふりをしながら、妙に近い距離を意識していた。


 それから二人は、ゲームだけでなくアニメも一緒に見るようになった。


 新しい作品が始まれば、どちらかが先に気づいて「これ面白そう」と教える。放送翌日には、学校へ行く前から前日の話をすることもあった。


「絶対、あいつ怪しいって」


「桃亮、前もそれ言って外したじゃん」


「今回は違う」


「どうだか」


「じゃあ賭ける?」


「何を?」


「犯人だれか」


「いいよ、外したらどうする?」


「じゃあ月菜姉ちゃんがジュースおごり」


「なんで私なの」


「当たったら俺がおごる」


「どういう心境で見ればいいの」


 そんなくだらない話をしながら、一緒に画面を見る。


 ゲームをして、アニメを見て、気がつけば夕方になっている。


 それが二人にとって当たり前だった。


 高校に入ってからも、関係は変わらなかった。放課後はどちらかの家で勉強をして、飽きればゲームをする。テスト前だけは真面目に机へ向かい、終わった途端に対戦を始める。


「今日は勝ったから、桃亮のおごりね」


「いつもは3回先取だろ」


「今日は5回先取、だから勝ち」


「それ何の理屈?」


「私の理屈」


「めちゃくちゃだな」


「お姉さんだからいいの」


「またそれかよ」


 そんな時間が、当たり前のように続いていた。


 だからこそ、月菜が高校二年の春、桃亮が交際を申し込んだときも、月菜は驚きながら笑っただけだった。


 花見の帰り、坂道の途中で桃亮が足を止めた。


「月菜姉ちゃん、あのさ」


「ん?」


「俺と、付き合ってほしい」


 月菜は一瞬、目を丸くした。


「……え?」


「だから……俺と付き合ってほしい」


 もう一度聞いて、ようやく意味を理解した。


 次の瞬間、月菜の頰が少し赤くなる。


「……ふふっ」


「なんで笑うんだよ」


「だって……やっと言ってくれたから」


「え?」


「私、待ってたのに」


「……待ってた?」


「うん」


 月菜は照れたように視線を逸らした。


「桃亮、全然言わないから」


「いや、だって……」


「だってじゃないよ」


 月菜は笑いながら、桃亮の腕を軽く叩いた。


「私、桃亮のこと好きだったんだから」


「……ほんと?」


「ほんと」


 今度は迷いなく答えた。


「だから、嬉しい」


 その笑顔は、普段学校で見せるものとは少し違っていた。


 嬉しいという気持ちを隠す必要がないからなのか、いつもより幼く見える。


「……じゃあ」


「うん」


「付き合ってくれる?」


「うん。付き合う」


 月菜は嬉しそうに笑った。


「もっと早く言ってよ」


「無理だろ。恥ずかしいし」


「私だって恥ずかしかったよ」


「そう見えなかった」


「見せてないもん」


「ずるいな」


「お互いさま」


 そう言ってから、月菜はいつものように笑った。


「でも、ゲームは負けないからね」


「そこは変わらないのかよ」


「当たり前じゃん。彼女になったからって手加減すると思った?」


「思ってない」


「よろしい」


 付き合い始めても、二人の関係は急には変わらなかった。


 放課後に一緒に帰り、どちらかの家でゲームをする。アニメを見ながら感想を言い合い、くだらないことで笑う。学校では月菜は相変わらず周囲から一目置かれる先輩だったが、桃亮と二人きりになると昔と何も変わらなかった。


 ただ、帰り道に手をつないだり、以前より少しだけ近い距離で歩いたりすることが増えた。


 桃亮にとっては、それだけで十分だった。


 初めてキスをしたのは、初夏の帰り道だった。


 公園のベンチに座って話していると、月菜が少しだけ顔を近づけた。


「……して」


 桃亮は一瞬戸惑ったが、そのまま唇を重ねた。


 離れると、月菜は俯いて笑った。


「なんか恥ずかしいね、ゲームよりドキドキする」


「うん」


「いまの私のファーストキスだからね。でも、まあ、合格」


「合格ってなんだよ」


「知らない」


 そんなやり取りまで、今でも覚えている。


 その夏休み、桃亮の父親に転勤の辞令が出た。


 引っ越し先は北海道だった。


 付き合い始めて、まだ三か月も経っていなかった。


 月菜に伝えたとき、ほんの一瞬だけ表情が曇った。それでもすぐにいつもの調子に戻る。


「……そうなんだ」


「ごめん」


「謝ることじゃないよ。おうちの仕事でしょ」


「でも……」


「でも、って。ちゃんと連絡してね。離れてても、できるでしょ?」


「うん」


「電話もしてよ」


「する」


「ゲームの話も」


「するよ」


「アニメの話も」


「それは月菜姉ちゃんが勝手に送ってくるだろ」


「なにそれ」


 月菜は笑った。


 けれど、その笑顔の奥に寂しさがあることくらい、桃亮にも分かった。


「桃亮が勝手にいなくならないでよ」


「いなくならない」


「約束」


「約束」


 別れの日は、夏休みの暑い午後だった。


 家の前では引っ越し業者が荷物を運び出している。月菜は白いワンピースにサンダルという格好で出てきて、最後までいつも通りに話そうとしていた。


「向こう、寒いんだって。冬はちゃんと着てね」


「聞いた」


「風邪ひかないでよ。ひいたら怒るから」


「月菜姉ちゃんもな」


「私は大丈夫」


「ほんとか?」


「ほんと」


 けれど、最後には言葉が続かなくなった。


 月菜が一歩近づく。そして、今度は迷うことなく唇を重ねてきた。


 短いキスだった。


 それでも桃亮には、離れてしまうことより、その感触のほうが強く残った。


「……行っておいで」


「うん」


「また会えるよ。きっと」


 月菜の声がわずかに揺れた。


 桃亮が顔を上げると、月菜の目尻に光るものがあった。


 彼女は慌ててそれを袖で拭い、無理に笑ってみせる。


 桃亮の方も、喉の奥が熱くなって、うまく言葉が出なかった。


「会える」


 そう呟くように言って、二人は離れた。


 *


 北海道へ移ってからも、最初のうちは連絡を取り合った。


 週末には電話をして、学校のことや受験のことを話した。月菜から新しく見始めたアニメの話が届くこともあったし、桃亮が北海道の写真を送れば、月菜から「やっぱり雪すごいね」と返ってくる。


 離れていても、二人の関係はまだ続いている。


 少なくとも、最初のうちはそう思っていた。


 けれど、遠距離というものは、思っていたよりも静かに二人の間へ入り込んできた。


 返信が遅くなる。


 電話の回数が減る。


 桃亮が送ったメッセージに「ごめん、忙しい」とだけ返ってくることも増えた。


 大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかが別れを告げたわけでもなかった。ただ、連絡を取らなくなり、話さなくなり、そのまま時間だけが過ぎていった。


 それから、五年近くが過ぎた。


 桃亮が大学へ進み、その後、就職のため東京へ戻ることになった頃だった。


 再会したのは、アニメ関連のイベントだった。


 人混みの中で、聞き覚えのある声がした。


「……桃亮?」


 振り返る。


 そこに月菜がいた。


 黒髪は昔より長くなっていた。顔立ちは記憶に残っていたものとほとんど変わらない。それでも、五年という時間が経ったことだけは、以前より少し大人びた表情から伝わってきた。


「月菜姉ちゃん……」


「本物だ。北海道の桃亮」


「その呼び方やめろよ」


「だって、北海道に行っちゃった桃亮じゃん」


 月菜は昔と変わらない笑い方をした。


「上京したの?」


「こっちで就職した」


「そっか。おめでとう。一人で来てるの? 迷子にならない?」


「ならないよ」


「そっか」


 久しぶりに話したのに、不思議なくらい自然だった。


 連絡先を交換した。


 その日は、それだけだった。


 そこから少しずつ会うようになった。


 昔の話をしたり、ゲームをしたり、食事をしたり。共通のアニメの話をすれば、昔と同じように月菜が先に熱くなって、桃亮が「そこまで言ってない」と笑う。


 離れていた五年が嘘のように、二人の距離は再び近づいていった。


 そして、いつの間にか二人はまた付き合っていた。


 それから一年ほどして、結婚した。


 親族や友人、会社関係の人たちを呼んだレストランでの結婚式。桃亮は挨拶に来る人たちへ何度も頭を下げ、月菜は隣で笑っていた。


 その笑顔を見ていると、五年前に北海道へ旅立った日のことさえ、遠い昔の出来事に思えた。


 *


「桃亮」


 呼ばれて、桃亮は現在へ戻った。


 月菜が段ボールの前に座り込んでいる。白いブラウスの袖を肘までまくり、長い髪を片側へ寄せて、箱の中身を一つずつ取り出していた。


「あった。これだ」


 月菜が古いゲーム機を持ち上げる。


「めっちゃ懐かしい、まだ動くかな」


「分からない。つなげてみる?」


「桃亮、やって」


「はいはい」


 配線を探し、テレビにつなぐ。


 しばらくして画面が明るくなると、月菜が子供のように声を上げた。


「おお、生きてる!」


「すごいな」


「スマートブラザーズやろうよ」


「今?」


「今」


 左右に付いたコントローラーを取り外し、昔と同じように並んで座る。


「お姉さん、手加減しないからね」


「するな」


「言ったな?」


「言った」


 月菜はキャラクターの操作を、まだ覚えているらしい。桃亮が苦戦している横で、月菜は楽しそうに笑っている。


「ほら、そこ」


「分かってる」


「分かってないって」


「うるさい」


「昔と一緒じゃん」


 だが終わってみれば、結果も昔と変わらなかった。


 勝負がつくと、月菜はコントローラーを置いて、満足そうに背もたれへ体を預けた。


「やっぱり桃亮、強いね」


「月菜がワンパターンすぎるんだよ」


「教えたの私だからね」


「それ何年前の話だよ」


「忘れたの?」


「忘れてない」


 月菜が笑った。


 清楚だと言われる顔が、ゲームをしているときだけ少し幼くなる。その横顔を見ていると、桃亮はふと、五年前のことを思い出した。


 あの空白の時間を越えて、またこうして隣にいる。


 それだけで十分だと思っていた。


「ねえ、桃亮」


「ん?」


 月菜がこちらを見る。


「私たち、ちゃんとここまで来たね」


「ああ」


「よかった」


 月菜は小さく笑って、それからコントローラーを持ち直した。


「……でもまだ勝負は終わってないよ」


「さっき俺が三勝しただろ」


「五回先取」


「まだやるのかよ」


「当たり前」


 また笑い声が部屋に響いた。


 窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めている。


 こうしていると、離れていた五年間さえ、最初からなかったような気がしてくる。


 けれど、本当は違うのだと、月菜は薄く目を伏せた。


 隣で笑っている夫は、あの五年のあいだを、私がどう過ごしてきたのか、まだ何も知らない。


 その事実だけが、静かに胸の奥に残っていた。

お読みいただきありがとうございます!

楽しんでいただけたら幸いです。

これからマイペースに更新していく予定ですので、もしよろしければ【ブックマーク】や【評価】をしていただけると、執筆の励みになります!

ノクターンノベルズでも執筆しています。

どうぞよろしくお願いいたします。



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