記憶①
新婚の部屋には、まだ片付いていない段ボールが残っていた。
キッチンの棚は一通り埋まったものの、リビングの隅には「本・ゲーム」と書かれた箱が二つ重なっている。菅沢桃亮はソファに座り、その箱を眺めながら、すっかり冷めかけたコーヒーを手にしていた。
風呂場から聞こえていた水音が止まる。
「桃亮、タオルこっち?」
「右側の棚」
「うん、あった」
しばらくして、月菜がタオルを頭に乗せたまま出てきた。風呂上がりの黒髪は背中まで濡れていて、歩くたびに肩や背中へ重たく張りついている。白いブラウスとデニムのショートパンツ、ブラウスの裾は前だけ軽くたくし込まれていて、動くたびに腰の線が覗く。
「なにぼーっとしてるの。また片付け?」
「どうしようかなって」
「後でいいよ。今日は日曜なんだし。ほら、そこ空けるから」
月菜は桃亮の隣に腰を下ろし、手元のカップを覗き込んだ。
「冷めてる。淹れ直す?」
「いい。このままで」
「ほんと、こだわらないね。桃亮、昔っからそう」
「月菜に言われたくない」
「はあ? 言っていいでしょ。お姉さんなんだから」
「それ、昔から変わらないな」
「何が?」
「お姉さんって言えば何でも許されると思ってるところ」
「だってお姉さんだもん」
月菜は当然のように言って、白湯を一口飲んだ。
月菜は昔から周囲に「清楚」と言われてきた。黒髪を長く伸ばし、声も仕草も落ち着いている。本人も、それが周囲からどう見えるのかは分かっていた。
けれど家の中では昔からこんな調子だった。好きな話を始めれば途端に口数が増え、ゲームで負ければ本気で悔しがる。桃亮にとっては、外で見せている姿よりも、こうして気を抜いている月菜のほうがずっと馴染み深かった。
「ねえ、桃亮。昔のぷにゃトテ、箱に入ってる?」
「……あると思う。なんで?」
「懐かしくなって。一緒にやってたやつ。前のSWAP、まだあるでしょ」
一昔前のゲームハードだった
「今さらやったら、月菜が勝つだろ」
「当たり前じゃん」
「即答かよ」
「だって私が教えたんだよ?」
「そこ関係ある?」
「あるの」
月菜が笑う。
「桃亮、北海道に行ってからあんまやってなかったでしょ」
「対戦はやってない。CPU相手だと、なんか違うし」
「へえ」
「なに」
「別に」
「その顔、何かあるだろ」
「ないって」
月菜はそう言って笑い、箱へ視線を向けた。
「やっぱり二人のときのほうがいいよね」
桃亮も笑った。
箱を開けるのは、もう少し片付けが進んでからでいい。
そう思いながら、ふと視線を箱へ戻したときだった。
――いつから、こうなると思っていたんだろう。
そんなことを考えた瞬間、記憶は自然と昔へ戻っていった。
*
紬月菜の家と菅沢桃亮の家は、細い私道を挟んで門が並んでいた。
子供の頃、その私道は二人にとって遊び場だった。同じ小学校、同じ中学校、そして同じ高校。月菜は一つ年上だったが、登下校の時間はいつも重なっていた。
外にいる月菜は、昔から周囲の目を引いた。黒髪を長く伸ばし、制服もきちんと着ている。白いシャツの襟元も、リボンも乱れていない。男子から告白されたという話を聞くことも珍しくなかった。
けれど、家に帰れば別人だった。
好きなゲームの話になれば早口になり、勝負に負ければ本気で悔しがる。
桃亮の部屋に上がり込んでは、床に寝転がって「もう一戦」と言い出す。
学校で見せている姿より、ずっと子供っぽくて、ずっと気楽だった。
そんな月菜に、ゲームを教えられたのが始まりだった。
「はい、これ」
縁側で、月菜がゲーム機を差し出してきた。SWAPと呼ばれる機体の画面では、色のついた塊が次々と落ちている。
「なにこれ」
「ぷにゃトテ。落ちてくるの消すやつ。やってみ」
「無理」
「やってみ。見ててあげるから」
言われるままに遊んでみたものの、桃亮はすぐに詰まった。
「そこ赤。あ、違う。そこ緑」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「うるさい」
「うるさいじゃなくて、教えてあげてるの」
後ろから画面を覗き込む月菜の髪が、頰に触れた。桃亮は画面を見ているふりをしながら、妙に近い距離を意識していた。
それから二人は、ゲームだけでなくアニメも一緒に見るようになった。
新しい作品が始まれば、どちらかが先に気づいて「これ面白そう」と教える。放送翌日には、学校へ行く前から前日の話をすることもあった。
「絶対、あいつ怪しいって」
「桃亮、前もそれ言って外したじゃん」
「今回は違う」
「どうだか」
「じゃあ賭ける?」
「何を?」
「犯人だれか」
「いいよ、外したらどうする?」
「じゃあ月菜姉ちゃんがジュースおごり」
「なんで私なの」
「当たったら俺がおごる」
「どういう心境で見ればいいの」
そんなくだらない話をしながら、一緒に画面を見る。
ゲームをして、アニメを見て、気がつけば夕方になっている。
それが二人にとって当たり前だった。
高校に入ってからも、関係は変わらなかった。放課後はどちらかの家で勉強をして、飽きればゲームをする。テスト前だけは真面目に机へ向かい、終わった途端に対戦を始める。
「今日は勝ったから、桃亮のおごりね」
「いつもは3回先取だろ」
「今日は5回先取、だから勝ち」
「それ何の理屈?」
「私の理屈」
「めちゃくちゃだな」
「お姉さんだからいいの」
「またそれかよ」
そんな時間が、当たり前のように続いていた。
だからこそ、月菜が高校二年の春、桃亮が交際を申し込んだときも、月菜は驚きながら笑っただけだった。
花見の帰り、坂道の途中で桃亮が足を止めた。
「月菜姉ちゃん、あのさ」
「ん?」
「俺と、付き合ってほしい」
月菜は一瞬、目を丸くした。
「……え?」
「だから……俺と付き合ってほしい」
もう一度聞いて、ようやく意味を理解した。
次の瞬間、月菜の頰が少し赤くなる。
「……ふふっ」
「なんで笑うんだよ」
「だって……やっと言ってくれたから」
「え?」
「私、待ってたのに」
「……待ってた?」
「うん」
月菜は照れたように視線を逸らした。
「桃亮、全然言わないから」
「いや、だって……」
「だってじゃないよ」
月菜は笑いながら、桃亮の腕を軽く叩いた。
「私、桃亮のこと好きだったんだから」
「……ほんと?」
「ほんと」
今度は迷いなく答えた。
「だから、嬉しい」
その笑顔は、普段学校で見せるものとは少し違っていた。
嬉しいという気持ちを隠す必要がないからなのか、いつもより幼く見える。
「……じゃあ」
「うん」
「付き合ってくれる?」
「うん。付き合う」
月菜は嬉しそうに笑った。
「もっと早く言ってよ」
「無理だろ。恥ずかしいし」
「私だって恥ずかしかったよ」
「そう見えなかった」
「見せてないもん」
「ずるいな」
「お互いさま」
そう言ってから、月菜はいつものように笑った。
「でも、ゲームは負けないからね」
「そこは変わらないのかよ」
「当たり前じゃん。彼女になったからって手加減すると思った?」
「思ってない」
「よろしい」
付き合い始めても、二人の関係は急には変わらなかった。
放課後に一緒に帰り、どちらかの家でゲームをする。アニメを見ながら感想を言い合い、くだらないことで笑う。学校では月菜は相変わらず周囲から一目置かれる先輩だったが、桃亮と二人きりになると昔と何も変わらなかった。
ただ、帰り道に手をつないだり、以前より少しだけ近い距離で歩いたりすることが増えた。
桃亮にとっては、それだけで十分だった。
初めてキスをしたのは、初夏の帰り道だった。
公園のベンチに座って話していると、月菜が少しだけ顔を近づけた。
「……して」
桃亮は一瞬戸惑ったが、そのまま唇を重ねた。
離れると、月菜は俯いて笑った。
「なんか恥ずかしいね、ゲームよりドキドキする」
「うん」
「いまの私のファーストキスだからね。でも、まあ、合格」
「合格ってなんだよ」
「知らない」
そんなやり取りまで、今でも覚えている。
その夏休み、桃亮の父親に転勤の辞令が出た。
引っ越し先は北海道だった。
付き合い始めて、まだ三か月も経っていなかった。
月菜に伝えたとき、ほんの一瞬だけ表情が曇った。それでもすぐにいつもの調子に戻る。
「……そうなんだ」
「ごめん」
「謝ることじゃないよ。おうちの仕事でしょ」
「でも……」
「でも、って。ちゃんと連絡してね。離れてても、できるでしょ?」
「うん」
「電話もしてよ」
「する」
「ゲームの話も」
「するよ」
「アニメの話も」
「それは月菜姉ちゃんが勝手に送ってくるだろ」
「なにそれ」
月菜は笑った。
けれど、その笑顔の奥に寂しさがあることくらい、桃亮にも分かった。
「桃亮が勝手にいなくならないでよ」
「いなくならない」
「約束」
「約束」
別れの日は、夏休みの暑い午後だった。
家の前では引っ越し業者が荷物を運び出している。月菜は白いワンピースにサンダルという格好で出てきて、最後までいつも通りに話そうとしていた。
「向こう、寒いんだって。冬はちゃんと着てね」
「聞いた」
「風邪ひかないでよ。ひいたら怒るから」
「月菜姉ちゃんもな」
「私は大丈夫」
「ほんとか?」
「ほんと」
けれど、最後には言葉が続かなくなった。
月菜が一歩近づく。そして、今度は迷うことなく唇を重ねてきた。
短いキスだった。
それでも桃亮には、離れてしまうことより、その感触のほうが強く残った。
「……行っておいで」
「うん」
「また会えるよ。きっと」
月菜の声がわずかに揺れた。
桃亮が顔を上げると、月菜の目尻に光るものがあった。
彼女は慌ててそれを袖で拭い、無理に笑ってみせる。
桃亮の方も、喉の奥が熱くなって、うまく言葉が出なかった。
「会える」
そう呟くように言って、二人は離れた。
*
北海道へ移ってからも、最初のうちは連絡を取り合った。
週末には電話をして、学校のことや受験のことを話した。月菜から新しく見始めたアニメの話が届くこともあったし、桃亮が北海道の写真を送れば、月菜から「やっぱり雪すごいね」と返ってくる。
離れていても、二人の関係はまだ続いている。
少なくとも、最初のうちはそう思っていた。
けれど、遠距離というものは、思っていたよりも静かに二人の間へ入り込んできた。
返信が遅くなる。
電話の回数が減る。
桃亮が送ったメッセージに「ごめん、忙しい」とだけ返ってくることも増えた。
大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかが別れを告げたわけでもなかった。ただ、連絡を取らなくなり、話さなくなり、そのまま時間だけが過ぎていった。
それから、五年近くが過ぎた。
桃亮が大学へ進み、その後、就職のため東京へ戻ることになった頃だった。
再会したのは、アニメ関連のイベントだった。
人混みの中で、聞き覚えのある声がした。
「……桃亮?」
振り返る。
そこに月菜がいた。
黒髪は昔より長くなっていた。顔立ちは記憶に残っていたものとほとんど変わらない。それでも、五年という時間が経ったことだけは、以前より少し大人びた表情から伝わってきた。
「月菜姉ちゃん……」
「本物だ。北海道の桃亮」
「その呼び方やめろよ」
「だって、北海道に行っちゃった桃亮じゃん」
月菜は昔と変わらない笑い方をした。
「上京したの?」
「こっちで就職した」
「そっか。おめでとう。一人で来てるの? 迷子にならない?」
「ならないよ」
「そっか」
久しぶりに話したのに、不思議なくらい自然だった。
連絡先を交換した。
その日は、それだけだった。
そこから少しずつ会うようになった。
昔の話をしたり、ゲームをしたり、食事をしたり。共通のアニメの話をすれば、昔と同じように月菜が先に熱くなって、桃亮が「そこまで言ってない」と笑う。
離れていた五年が嘘のように、二人の距離は再び近づいていった。
そして、いつの間にか二人はまた付き合っていた。
それから一年ほどして、結婚した。
親族や友人、会社関係の人たちを呼んだレストランでの結婚式。桃亮は挨拶に来る人たちへ何度も頭を下げ、月菜は隣で笑っていた。
その笑顔を見ていると、五年前に北海道へ旅立った日のことさえ、遠い昔の出来事に思えた。
*
「桃亮」
呼ばれて、桃亮は現在へ戻った。
月菜が段ボールの前に座り込んでいる。白いブラウスの袖を肘までまくり、長い髪を片側へ寄せて、箱の中身を一つずつ取り出していた。
「あった。これだ」
月菜が古いゲーム機を持ち上げる。
「めっちゃ懐かしい、まだ動くかな」
「分からない。つなげてみる?」
「桃亮、やって」
「はいはい」
配線を探し、テレビにつなぐ。
しばらくして画面が明るくなると、月菜が子供のように声を上げた。
「おお、生きてる!」
「すごいな」
「スマートブラザーズやろうよ」
「今?」
「今」
左右に付いたコントローラーを取り外し、昔と同じように並んで座る。
「お姉さん、手加減しないからね」
「するな」
「言ったな?」
「言った」
月菜はキャラクターの操作を、まだ覚えているらしい。桃亮が苦戦している横で、月菜は楽しそうに笑っている。
「ほら、そこ」
「分かってる」
「分かってないって」
「うるさい」
「昔と一緒じゃん」
だが終わってみれば、結果も昔と変わらなかった。
勝負がつくと、月菜はコントローラーを置いて、満足そうに背もたれへ体を預けた。
「やっぱり桃亮、強いね」
「月菜がワンパターンすぎるんだよ」
「教えたの私だからね」
「それ何年前の話だよ」
「忘れたの?」
「忘れてない」
月菜が笑った。
清楚だと言われる顔が、ゲームをしているときだけ少し幼くなる。その横顔を見ていると、桃亮はふと、五年前のことを思い出した。
あの空白の時間を越えて、またこうして隣にいる。
それだけで十分だと思っていた。
「ねえ、桃亮」
「ん?」
月菜がこちらを見る。
「私たち、ちゃんとここまで来たね」
「ああ」
「よかった」
月菜は小さく笑って、それからコントローラーを持ち直した。
「……でもまだ勝負は終わってないよ」
「さっき俺が三勝しただろ」
「五回先取」
「まだやるのかよ」
「当たり前」
また笑い声が部屋に響いた。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めている。
こうしていると、離れていた五年間さえ、最初からなかったような気がしてくる。
けれど、本当は違うのだと、月菜は薄く目を伏せた。
隣で笑っている夫は、あの五年のあいだを、私がどう過ごしてきたのか、まだ何も知らない。
その事実だけが、静かに胸の奥に残っていた。
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