理由
休日の午後、月菜と桃亮は駅前の商業施設を訪れていた。
昼食を済ませ、いくつかの店を見て回ったあと、二人が足を向けたのは大型書店だった。フロアの大半を占める広い店内には、文庫本や漫画、雑誌、専門書が整然と並んでいる。新刊の棚には発売されたばかりの本が積まれ、通路のあちこちで立ち読みをする人の姿があった。
入口を抜けた月菜は、さっそく漫画の新刊コーナーへ向かった。桃亮はその後ろをついていく。月菜は棚の前で足を止めると、目当ての作品を探しながら、並んだ背表紙を一つずつ追っていった。
「あ、出てる」
見つけた一冊を手に取り、表紙を確かめる。
「ねえ、これ。アニメ化だって、めっちゃ楽しみじゃない?どこまでやるかな」
「どうだろう。1シーズンだから五巻か、もう少し先じゃない?」
「えー、でも、その辺りから面白くなるんだよ。あの場面、絶対に映像で見たいんだけど」
「月菜、前にも同じこと言ってなかった?」
「言ったかもしれないけど、本当にそうなんだもん」
月菜は本を抱えたまま、熱心に説明を始めた。物語の展開だけでなく、登場人物の表情や、原作でさりげなく描かれていた伏線まで話が広がっていく。桃亮は相づちを打ちながら聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……何?」
「いや。月菜、好きな漫画の話になると止まらないなと思って」
「だって、桃亮だって好きでしょ?」
「好きだけどね」
「じゃあ、いいじゃん、好きに理由なんてないよ」
当然のように言い切る月菜に、桃亮は反論を諦めた。
二人は高校時代から、漫画やゲームの話で盛り上がることが多かった。新作の情報を見つければ教え合い、気になるゲームが発売されれば、どちらが先に始めるか相談する。オンラインで一緒に遊ぶこともあれば、同じ作品を別々に楽しみ、あとから感想を言い合うこともあった。
好みが完全に一致しているわけではない。桃亮が夢中になっている作品に月菜があまり興味を示さないこともあれば、その逆もある。それでも、相手が何を面白いと感じたのかを聞くのは楽しかった。自分一人では気づかなかった魅力を知ることもある。
月菜は手にしていた漫画を棚に戻すと、今度は隣の小説コーナーへ移った。表紙の絵を見比べ、あらすじを読み、気になった本を手に取っては数ページだけ目を通す。そのたびに桃亮も隣へ移動するため、二人はほとんど同じ場所を行ったり来たりしていた。
「月菜、何か買うもの決まってるの?」
「ううん。今日は特に決めてないよ」
「じゃあ、さっきから何を探してるの?」
「探してるっていうか、見てるだけ。知らない本を見つけるのも楽しいじゃん」
「それで、気づいたら何冊も買ってるんだよね」
「……今日はそんなに買わないもん」
桃亮は返事の代わりに笑った。
月菜は少し不満そうに彼を見たものの、すぐに別の棚へ視線を移した。新刊の帯に書かれた短い紹介文が目に留まったらしく、今度はその本を手に取っている。
そんな彼女を眺めながら、桃亮は自分が探していたゲーム雑誌を棚から抜き取った。以前はゲームの攻略本や設定資料集を買うことも多かったが、最近はインターネットで情報を調べることが増え、紙の本を手に取る機会は少なくなっていた。それでも、こうして書店に来ると、つい気になるページをめくってしまう。
「桃亮、それ買うの?」
「うん。ちょっと気になる記事があって」
「見せて。何のゲーム?」
月菜はすぐに隣へ寄ってきた。桃亮がページを開くと、二人の視線が並んで誌面へ落ちる。
記事を読み進めるうちに、月菜は掲載されていた新作ゲームの画面写真を指さした。
「これ、面白そう。協力プレイできるのかな」
「できるよ一緒にやってみる?」
「やる。絶対やる」
「まだ買うとも決めてないんだけど」
「でも、面白そうじゃん」
「月菜は、いつもそれだね」
「桃亮だって、私が面白そうって言ったゲーム、結局一緒にやってくれるでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「ほら!」
月菜は満足そうに笑った。桃亮も否定せず、雑誌を閉じて買い物かごに入れた。
それからしばらくして、二人は小説の棚へ戻った。
月菜は一冊の本を手にしたまま、表紙をじっと眺めていた。
淡い色彩のイラストに、控えめなタイトル。
以前から気になっていた作品らしく、裏表紙のあらすじを読んだあと、冒頭を確かめるようにページをめくった。
「それ、気になるの?」
「うん。前からちょっと気になってたんだけど、買うタイミングがなくて」
「今日買えばいいんじゃない?」
「でも、積んでる本もあるんだよね……」
「じゃあ、そっちを先に読めば?」
「それができたら苦労しないの」
月菜は真剣な顔で答えたあと、自分でもおかしくなったのか、ふっと笑った。
「本ってさ、読んでる途中でも、次に読みたい本が見つかっちゃうんだよね。ゲームもそうだけど。一本クリアしてないのに、新作が気になったりして」
「分かるよ。積みゲーが増える理由だね」
「そう。だから、私だけが悪いわけじゃないの」
「誰も責めてないよ」
「じゃあ、これは買ってもいい?」
「俺に聞くこと?」
「一応、聞いてみただけ」
月菜はそう言って本を胸元に抱えた。
桃亮は困ったように笑いながら、彼女の頭を軽く撫でた。
「好きにしたらいいよ」
「……じゃあ、買う」
その言葉を待っていたかのように、月菜は本を買い物かごへ入れた。
会計を済ませたあとも、月菜はまだ店内を見て回りたそうにしていた。
桃亮が時計を確認すると、入店してから思っていた以上に時間が経っている。
「月菜、そろそろ行く?」
「えっ、もうそんな時間?」
「結構いたよ」
「うそ。そんなに?」
月菜は驚いて周囲を見回した。確かに、入口から入ってきたときより店内の人の流れが変わっている。いつの間にか、窓の向こうの空も少しずつ夕方の色になっていた。
「本屋って、時間が経つの早いんだよね」
そう言いながら、月菜は買った本の入った袋を持ち直した。
「私、昔、本屋でバイトしてたんだ」
何気ない口調だった。桃亮は隣を歩きながら、自然に相づちを打った。
「そうなんだ」
「うん。ここじゃないけどね。大学生のとき」
「月菜は本屋、好きだもんね」
「そうそう。何時間でもいられる。買うつもりがなかった本まで欲しくなっちゃうし」
「今日も予定になかった本を買ってたね」
「それは……出会っちゃったから仕方ないの」
「本との出会い?」
「そう。本にも運命の出会いってあるんだよ」
月菜は大真面目に言ったあと、桃亮の顔を見て吹き出した。彼もつられて笑う。
「でも、バイトしてたときは、今みたいに自由に見て回れるわけじゃなかったよ。仕事中だし、やることもいろいろあったから」
「どんなことしてたの?」
「品出しとか、棚の整理とか、レジとか。最初は本の場所を覚えるだけでも大変だったよ。好きなジャンルなら分かるんだけど、普段読まない本のことを聞かれると、どこを探せばいいのか分からなくて」
「月菜でも、そんなふうに困るんだ」
「私を何だと思ってるの?」
「本屋なら何でも知ってる人」
「そんなわけないでしょ」
月菜は笑いながら桃亮の腕を軽く叩いた。
「でも、働いてるうちに、だんだん分かるようになったよ。棚の場所もそうだし、よく来るお客さんが何を探してるのか、なんとなく覚えたりして。最初は知らないことばかりだったけど、少しずつ仕事に慣れていくのは楽しかった」
「いいバイトだったんだね」
「うん。大変なこともあったけど、嫌いじゃなかったよ」
月菜はそこで言葉を切り、駅へ向かう通路の先を見た。
大学生だった頃の自分が、ふと頭をよぎった。
講義が終わったあと、慣れない仕事に向かう日々。
まだ学生気分が抜けきらず、社会人として働くことがどんなものなのか、よく分かっていなかった頃。
自分の知らない世界に触れ、少しずつ視野が広がっていくことが、どこか新鮮だった。
あの頃は、今よりもずっと、自分がこれからどんな人間になっていくのか分からなかった。
将来の事も………
「……月菜?」
呼ばれて、月菜は我に返った。
「ん? 何?」
「いや、急に黙ったから」
「ああ、ごめん。ちょっと昔のこと思い出してた」
「本屋で働いてた頃?」
「うん、まあね」
月菜は軽く頷き、それ以上は何も付け加えなかった。桃亮も、無理に続きを聞こうとはしなかった。
駅へ向かう人の流れに合わせて、二人は並んで歩き始めた。
月菜は買った本の袋を片手に持ち、空いた手を桃亮の手に重ねる。
桃亮が指を絡めると、月菜は何も言わず、その手を握り返した。
「帰ったら、今日買った本を読む?」
「うん。でも、その前にゲームの続きもやりたい」
「どっちを先にするの?」
「……帰ってから決める」
「絶対、どっちもやるつもりでしょ」
「だって、どっちも楽しみなんだもん」
悪びれずに笑う月菜を見て、桃亮は小さく息を吐いた。
「じゃあ、夕飯のあとね」
「約束!」
月菜は嬉しそうに彼の手を握り直した。
好きな本を選び、好きなゲームの話をして、帰ったらまた二人で同じ時間を過ごす。
そんな何でもない休日が、月菜には心地よかった。
けれど、本屋で働いていた頃の記憶は、彼女が思い出した以上に鮮明だった。
あの店の棚の並び。仕事を終えたあとの疲れ。慣れない環境の中で、少しずつ変わっていった自分。
そして、あの頃に出会った人のこと。
月菜はその記憶を、心の奥にしまい直すように、桃亮の手を握った。
「ねえ、帰ったら何か飲みながらゲームしようよ」
「いいね。何飲む?」
「やっぱり炭酸でしょ!」
「それ、いつも言ってるね」
「No Reason!」
桃亮が笑い、月菜も笑った。
二人はそのまま駅へ向かって歩いていった。




