番外編:シュバルツバルト元公爵夫妻編
窓の外には、バルツァー王国の厳しい冬を象徴するように、厚い雪が音もなく降り積もっていた。
かつては「国の心臓」とまで称されたシュバルツバルト公爵邸。その一角にある隠居用の別邸の温室は、外の寒さを忘れさせるほどの暖かさに満ちている。
アーデルハイトは、慣れた手つきでティーポットから温かな紅茶を注いだ。微かに立ち上る湯気と共に、芳醇な茶葉の香りが室内を満たしていく。
(この静寂が、以前はあんなにも苦しかったのに。今はこれほどまでに、穏やかに感じられるなんて)
彼女はそっと視線を上げ、向かいに座る男を見た。
ヴィルヘルム・フォン・シュバルツバルト。
つい数年前まで、国務大臣としてその眼光一つで周囲を萎縮させていた夫は、今や当主の座を息子に譲り、一線を退いていた。漆黒の髪には白髪が混じり、かつての鋭利な覇気はなりを潜めている。だが、その背筋は依然として鋼のように真っ直ぐで、ギルベルトと同じ銀灰色の瞳は、静かに庭の雪景色を見つめていた。
「……先程、ギルベルトが顔を出した」
沈黙を破ったのは、ヴィルヘルムの低く重厚な声だった。
アーデルハイトの手が、一瞬だけ止まる。
「まあ。あの子、何か用事でもあったのでしょうか?」
「いや、ただの報告だ。テオドールが近頃、木剣を振り回し始めたらしい。……あいつに似て、ひどく頑固な性格だと言っていた」
ヴィルヘルムは、手元のカップには手を付けず、視線を落とした。
公爵家の唯一の跡継ぎとして、息子を「最高傑作の駒」と呼び、己の信念を押し付けてきた。先の戦争でも、敗戦国の元侯爵夫人を傍に置くなどという息子の「乱心」を、彼は決して許さなかった。
あの時、ギルベルトが己の地位も家門も、全てを捨ててエレオノーラを選ぶと宣言した際の、狂気じみた眼差し。
(あれは、駒の目ではなかった)
ヴィルヘルムの胸の内に、苦い記憶と共にある種の感慨が広がる。
かつての自分であれば、たとえ息子を殺してでも家門の体面を守っただろう。だが、エレオノーラという女性の、屈辱に塗れてもなお失われない気高さ、そして彼女を愛し抜くことで一人の男として「覚醒」した息子の姿を前に、彼は敗北を認めたのだ。
「ヴィルヘルム様?」
アーデルハイトの柔らかな声に、ヴィルヘルムは我に返った。
彼女は、かつての彼が決して見ようとしなかった温かな慈愛をその薄水色の瞳に宿し、じっと夫を見守っている。
「……アーデルハイト。お前はこの家が冷たい場所だと、ずっと思っていたのだろうな」
唐突な問いに、アーデルハイトは目を瞬かせた。
彼女自身、この家に嫁いでから長い間、孤独の中にいた。夫とは政略結婚であり、交わす言葉は事務的なものばかり。ギルベルトへの教育も、愛情より先に義務が優先される、そんな家風だった。
「それは……。でも、私はギルベルトが生まれてきてくれただけで、幸せでしたわ」
「私は、お前にもあいつにも、一方的に強いることしか知らなかった。シュバルツバルトの繁栄こそが正義であり、そこに個人の心など不要だと信じて疑わなかった」
ヴィルヘルムの指が、カップの縁をゆっくりとなぞる。
「だが、あいつらは変えてしまった。……家門という殻に閉じこもっていた私の目を、無理やり開かせたのだ。エレオノーラも、敵国の戦利品などではなく、一人の女として、一人の母親として、あまりにも真っ直ぐに生きていた」
(ヴィルヘルム様が、あの方を認めていらっしゃる……)
アーデルハイトは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
かつては冷徹な政治家として、ロランディア王国の解体さえも冷酷に推し進めた夫が、今、その国の女性を尊重しようとしている。
「私は不器用な男だ。今更、これまでの振る舞いを詫びるつもりはない。だが……」
ヴィルヘルムは言葉を切り、ようやくアーデルハイトの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前が長年、この冷え切った家を支え、ギルベルトをあそこまで情熱的な男に育ててくれたことには、感謝している」
それは、結婚して以来、初めて聞く夫からの感謝の言葉だった。
アーデルハイトは、思わず目元を潤ませた。
彼女が願っていたのは、華やかな社交界の頂点でも、公爵家の絶対的な権力でもない。ただ、こうして家族が心を通わせ、温かな紅茶を飲む時間だったのだ。
「ヴィルヘルム様。私も……あなたと共に、今のこの景色を見られることを、心から幸せに思っております」
彼女が微笑むと、ヴィルヘルムは照れ隠しのように、ようやく冷めかけた紅茶を口にした。
(私の願いは、あの子たちが叶えてくれた。そして、この人も……。雪が溶けて春が来るように、私たちの時間もようやく動き出したのね)
温室の向こう、本邸の庭で、使用人たちがテオドールのために雪だるまを作っているのが見える。
かつての殺伐とした空気はどこにもない。
ロランディアの誇り高き元侯爵夫人が、このシュバルツバルト公爵家に持ち込んだのは、洗練された所作だけではない。それは、どんな過酷な環境でも折れない「生きるための力」であり、人を愛するという「誇り」だった。
ヴィルヘルムは、静かに窓の外を見つめながら、ふと呟いた。
「今度の春には、テオドールに新しい馬の乗り方を教えてやらねばならんからな」
その言葉には、かつての冷酷な当主ではなく、一人の祖父としての不器用な愛情が滲んでいた。
アーデルハイトは、そっと夫の手に自分の手を重ねた。
その手は、かつてのように冷たくはなく、冬の午後の柔らかな光に包まれて、確かな体温を伝えていた。




