エピローグ
シュバルツバルト公爵邸を包む空気は、五年前のそれとは劇的に変わっていた。
かつては伝統という名の重圧と冷徹な沈黙が支配していた石造りの回廊に、今は柔らかな陽光が差し込み、どこからか子供の活気ある声が聞こえてくる。
現当主となったギルベルト・フォン・シュバルツバルトは、公爵としての多忙な執務を終え、本邸のサンルームへと足を向けていた。
漆黒の髪を揺らし、鋭く冷ややかな銀灰色の瞳は、公務の場では他者を寄せ付けぬ威厳を放っているが、愛する家族が待つ私邸の扉を開ける時だけは、その険のある表情がわずかに和らぐ。
「おとうさま、お帰りなさいませ!」
扉を開けると同時に、弾むような足取りで駆け寄ってきたのは、五歳になる息子のテオドールだった。ギルベルト譲りの漆黒の髪と、エレオノーラ譲りの深い海のような青い瞳を持つ少年は、父親の姿を見つけると姿勢を正し、完璧な所作で一礼する。
「ああ、ただいま。今日もいい子にしていたか、テオドール」
ギルベルトは屈み込み、不器用ながらも慈しみを込めて息子の頭を撫でた。かつて「公爵家の最高傑作の駒」として愛を知らずに育てられたギルベルトにとって、真っ直ぐに自分を慕う我が子の存在は、何物にも代えがたい救いだった。
「はい。おかあさまと一緒に、おじいさまのところへご挨拶に行ってまいりました」
テオドールが振り返る先には、陽光を背に受けて微笑むエレオノーラの姿があった。
銀糸の髪を美しく結い上げ、最高級のシルクを用いた深い藍色のドレスを纏った彼女は、敗戦国の使用人として虐げられていた頃の面影を感じさせないほど、気高く美しい。だが、どんな逆境でも失わなかった気品と、意志の強い青い瞳は、あの駐屯地で雑用に追われていた頃と何も変わっていなかった。
「お疲れ様です、ギルベルト様。今日は少しお早いお帰りですね」
エレオノーラが歩み寄り、夫の腕にそっと手を添える。ギルベルトはその掌の温もりに、外で張り詰めていた心が解けていくのを感じた。
「ああ。……父上たちの様子はどうだった」
「ええ、とても仲睦まじくお過ごしでしたわ。別邸の庭に新しく植えた薔薇を、お二人で仲良く選んでいらっしゃいました。久々に夕食を一緒にどうだと仰られています」
エレオノーラの報告に、ギルベルトは感慨深く目を細めた。
かつて国務大臣として冷徹に権勢を振るい、息子さえも道具と見なしていた父ヴィルヘルムは、隠居後、驚くほど穏やかになった。冷え切った政略結婚の末に孤独を深めていた母アーデルハイトを、今ではいたわるように常に傍に置いている。
(あの父が、母と手を取り合って庭を歩く日が来るとはな。……エレオノーラ、君がこの家に持ち込んだのは、誇りだけではなかったんだな)
「失礼いたします。ギルベルト様、先ほど届いた王宮からの書状、こちらに纏めておきました」
落ち着いた声と共にサンルームに姿を現したのは、筆頭側近のクラウス・ヴェルナーだった。
彼は新王即位に伴う事後処理という激務を完璧に完遂した後、約束通り騎士団を辞め、今は側近としてギルベルトを支えている。深い緑色の瞳は穏やかで、主君を敬いながらも、どこか家族の団欒を温かく見守るような慈しみを湛えていた。
「クラウスか。わざわざ済まない」
「いえ、私の役目ですから。……テオドール様、また少し背が伸びましたね。お父様に似て、立派な騎士になられそうだ」
クラウスが優しく目を細めて語りかけると、テオドールは青い瞳を輝かせ、クラウスの手をぎゅっと掴んだ。
「クラウス、また剣を教えて!」
少年の元気な声に、クラウスは困ったように、けれど嬉しそうに眉を下げた。
「おやおや。お父上の方が私より強いのですよ?ふふ、ギルベルト様。若君は相当な熱血漢になりそうです」
「ふん……。テオドール、クラウスをあまり困らせるな。俺が教えると言っているだろう」
「おとうさまの稽古は、きびしすぎるのです! クラウスのほうが、教えかたがやさしいんだもん」
テオドールが頬を膨らませると、室内に柔らかな笑い声が広がった。かつての戦友であり、今は兄のように自分を諌めてくれるクラウスの存在に、ギルベルトは内心で深く感謝した。クラウスはそんな主君親子のやり取りを満足げに見守り、一礼して静かに下がっていった。
その夜、本邸の寝室。月明かりに照らされたバルコニーで、ギルベルトは夜空を見上げるエレオノーラの肩に、そっと薄手のショールをかけた。
「夜風が冷える。中に入ろう、エレオノーラ」
「ありがとうございます、ギルベルト様。……こうして穏やかな夜を迎えられること、今でも時折、不思議に思うのです」
彼女は夫の逞しい腕に身を預け、遠くに見える王都の灯りを見つめた。
「ロランディアが滅び、私がここへ連行された時、心はとうに死んだと思っていました。けれど、あなたが私を見つけ、私の中に眠っていた誇りを呼び覚ましてくれた。……私を、一人の女として愛してくださったから、今の私があります」
「違う。俺を変えたのは君だ」
ギルベルトは彼女の体を抱き寄せ、その銀糸の髪に顔を埋めた。
「君がどれほど理不尽に虐げられても、決してその瞳の光を消さなかったから、俺は己の傲慢さを恥じ、過ちを悟ることができた。俺が公爵として、一人の男として今ここに立っていられるのは、君の矜持が俺の魂を救ったからなんだ」
ギルベルトは彼女の顎を指先で持ち上げ、誓いを立てるように深く口づけを落とした。
五年前、地位も名誉もすべてを捨てる覚悟で彼女を追い求めたあの冬の熱情は、今は決して消えることのない、静かで確かな愛の炎となって二人の胸に灯り続けている。
「愛している、エレオノーラ。君が俺の妻である限り、シュバルツバルトの誇りは揺るがない」
「私も愛しております、ギルベルト様。……この命が尽きるまで、あなたの隣で、共に歩んでいくことを誓います」
月光が、重なる二人の影を優しく照らし出していた。
かつて戦利品と呼ばれた女性は、今や王国の誰もが敬意を払う高潔な公爵夫人として、最愛の夫と息子と共に、光り輝く未来へと歩みを進めていく。
Fin
次回から番外編を上げていきます




