第六章
「……本当に、行くのかい?」
バルツァー北部の国境を越えた、冷たい風が吹き抜ける異国の辺境の町。古びた修道院跡の共同住居の前に、荷物をまとめたエレオノーラは立っていた。
目の前には、これまで「エル」と名乗っていた彼女を家族のように受け入れてくれた住人たちの姿がある。リザが、少しだけ潤んだ目でエレオノーラを見つめていた。
「ええ。……皆さんには、どれだけ感謝してもしきれません。身重で行き倒れそうになっていた私を助けてくださり、ここで生きる術を教えてくださった。……本当に、ありがとうございました」
エレオノーラが深く頭を下げると、マルトが優しく彼女の肩を叩いた。
「いいんだよ。あんたは働き者で、刺繍の腕も立派だったからね。でも……」
マルトの視線が、エレオノーラの背後に控える長身の男に向けられる。漆黒の髪と銀灰色の瞳を持つ、バルツァー王国騎士団長、ギルベルト・フォン・シュバルツバルト。彼は今、身分を示す豪奢な外套を脱ぎ捨て、一切の隙がない引き締まった体躯を黒の平服に包み、一人の男としてエレオノーラの傍らに静かに立っていた。
「いつだって戻って来て良いんだからね」
「そうだよ。エルが、やっぱり無理ってなったら、またおいでよ」
リザがマルトの言葉に同調し、エレオノーラの手をきゅっと握る。その温かさに、エレオノーラの胸の奥が熱くなった。見知らぬ異国の辺境の地で、これほどまでに温かい言葉をかけられる日が来るとは、王宮で絶望に耐えながら雑用係として酷使されていた頃には想像もできなかった。
「しないで後悔するよりは、して後悔する方が良いよ。このお貴族様みたいにね」
セリアが、ギルベルトをからかうように横目で見て笑う。常に険のある表情を崩さないギルベルトだが、不快感を示すどころか、真摯な表情で彼女たちに向かって深く頭を下げた。
「彼女を……俺の妻を、そして腹の子を守っていただいたこと、生涯恩に着る。いくら感謝しても足りない」
大国の騎士団長であり、公爵家の跡継ぎである男のその躊躇いのない態度に、リザたちは少しだけ目を丸くし、やがて柔らかく微笑んだ。
彼らからの温かいエールを背に受け、エレオノーラはギルベルトが差し出した手を取り、王都へと向かう馬車に乗り込んだ。
道中、馬車に揺られながら、エレオノーラはふと窓の外を流れる景色を見つめた。
(これから、どうなるのかしら……)
不安がないと言えば嘘になる。自分は敗戦国ロランディアの元侯爵夫人だ。ギルベルトがどれほど自分を愛し、家門を捨ててでも共に生きると誓ってくれても、彼を取り巻く環境がそれを容易に許すはずがなかった。
「……不安にさせているな」
不意に、少しだけ荒れた、しかしひどく熱を持った大きな手が、彼女の膝の上で組まれた手を強引に、けれど壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
顔を上げると、ギルベルトの鋭い銀灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いていた。彼の中に渦巻く、痛いほどの執着と決意の光。
「お前が俺の横にいることで、どれほどの重荷を背負わせるか……分かってはいる。だが、もう二度と俺のそばから離す気はない。何があろうと、お前と腹の子は俺が生かす。俺のすべてを懸けて、必ず」
その声は低く、地を這うような切実さに満ちていた。彼の言葉は、甘い愛の囁きというよりは、己の命を削ってでも誓約を果たすという重い誓いそのものだった。
理不尽な始まりだった。けれど、その狂気じみた熱情の裏にある実直さを、エレオノーラはもう知っている。
「……ええ。信じています、ギルベルト様」
エレオノーラは、彼の手の熱を確かめるようにそっと微笑んだ。彼が己の立場をなげうってまで迎えに来てくれたのだ。ならば自分も、彼と共に生き抜くために、あらゆる障壁に立ち向かう覚悟を決めねばならない。
◆◆◆◆◆
王都へ向かう数日間の過酷な旅程の中、ギルベルトとエレオノーラは、国境近くの宿場町で一夜の休息を取っていた。
客室の暖炉には赤々と火が焚べられ、冷え切った体を温めている。部屋の隅には、ギルベルトが特別に手配した、温かい湯を張った木製の湯浴み桶が用意されていた。
「エレオノーラ」
ギルベルトは、彼女の柔らかな小麦色に染まった髪をそっと撫でた。異国の辺境で平民として生きるために、彼女が自身の誇りごと塗り潰したその色は、彼女の強さと決意の証でもあった。だが、彼と共にシュバルツバルト公爵邸へ向かう今、もう彼女が自身を偽り、隠れる必要はないのだ。
「俺の両親に会う前に、その髪を元に戻してはくれないだろうか。……俺は、ロランディアの侯爵夫人であった誇り高きお前を、ありのままの姿で迎え入れたいんだ」
その真摯な言葉に、エレオノーラは深く澄んだ青い瞳を瞬かせ、やがて静かに微笑んで頷いた。
「ええ。……私も、ありのままの私で、あなたのご両親にご挨拶したいわ」
エレオノーラは湯浴み桶の前に座り、ギルベルトが用意した特別な石鹸を手に取った。それは、彼が事前にベルーナル商会の手代から買い求めていた、草木染めを優しく洗い落とすための高価な油脂石鹸だった。
水となって足元へ流れ落ちていった。何度かすすぎと洗髪を繰り返すうちに、本来の透き通るような色素が少しずつ姿を現し始める。
やがて、洗い終えた髪を厚手の布で拭き上げ、暖炉の火のそばで梳かしていくと、そこには月明かりを紡いだような、細く美しい銀糸の髪が完全に蘇っていた。
「……やはり、お前にはその色が一番よく似合う」
ギルベルトは息を呑み、きらきらと輝く銀髪の束を愛おしげに掬い上げて、そっと口付けを落とした。
過去を隠すための仮面を脱ぎ捨てたエレオノーラは、本来の透き通るような美しさと気高さを取り戻し、ギルベルトと共に王都での対面へと向かう覚悟を新たにするのだった。
数日の過酷な旅程を経て、馬車は王都へと到着した。
向かった先は、王宮ではなく、シュバルツバルト公爵邸であった。重厚な鉄格子の門をくぐり、広大な庭園を抜けて、歴史と威厳を感じさせる本邸の前に降り立つ。
出迎えた使用人たちの驚愕と戸惑いの入り混じった視線を浴びながら、ギルベルトは堂々とした足取りでエレオノーラをエスコートし、邸内へと足を踏み入れた。
案内されたのは、重厚な調度品で整えられた豪奢な応接室だった。
そこにはすでに、二人の人物が待ち受けていた。
一人は、ギルベルトと同じ漆黒の髪に白髪を混じらせた、威厳に満ちた体躯の男。バルツァー王国国務大臣にして、シュバルツバルト公爵家当主、ヴィルヘルム。彼の銀灰色の瞳は、部屋に入ってきた息子と、その傍らに立つ女を、刃のように冷ややかに見据えていた。
そしてもう一人は、美しく結い上げられた金糸の髪を持つ貴婦人。公爵夫人、アーデルハイト。
彼女の薄水色の瞳は、張り詰めた空気の中で、ギルベルトの傍らに立つエレオノーラの姿を捉え、わずかに見開かれた。
エレオノーラは、己の簡素な身なりがこの場にどれほど不釣り合いであるかを自覚していたが、決して目を逸らさなかった。背筋を伸ばし、かつてロランディアの社交界で培った洗練された所作で、静かに、しかし誇り高く一礼する。透き通るような銀糸の髪と、深い海を思わせる青い瞳が、毅然とした光を放っていた。
アーデルハイトは、ふっと息を呑んだ。
その凛とした佇まい、隠しきれない気品、そしてその類まれな美貌に、見覚えがあったのだ。
「あなたは……まさか、セオドア・ローゼンタール侯爵の……」
驚愕に微かに震えるアーデルハイトの声が、静まり返った応接室に響き渡った。
静寂に包まれた豪奢な応接室で、エレオノーラはアーデルハイトの紡いだ言葉に思わず目を見張った。
常に冷静でいるよう努めてきた彼女の、深い海のような青い瞳がかすかに揺らぐ。毅然とした態度は崩さなかったが、その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
「主人を……セオドア様をご存知なのですか……?」
アーデルハイトは、優雅な手つきで広げていた扇をゆっくりと畳み、豪奢なドレスの膝の上へと静かに下ろした。彼女の薄水色の瞳には、敵国の女に向けるような侮蔑はなく、ただ真っ直ぐな敬意と、微かな哀愁が浮かんでいる。
「ええ。ロランディア王国のやり手の領主と聞けば、誰もが彼を思い浮かべるでしょう。領地経営に奔走するあまり、自身の婚姻などには見向きもしていなかった彼が、ひと目で惹かれた社交界屈指の美貌の令嬢……。あなた方ご夫婦の仲睦まじさを知らぬ高位貴族など、他国にもいませんよ」
ふふ、とアーデルハイトは上品に微笑んだ。その柔らかな声音に、ギルベルトはわずかに目を見張り、隣に立つエレオノーラを庇うように動かしかけていた肩の力をそっと抜いた。
「それに、ローゼンタール侯爵家は、私の実家である侯爵家とも古くから関わりがあります。商いを通じて、領民を第一に想うセオドア卿の素晴らしいお人柄は、幾度となく耳にしておりました」
そこでアーデルハイトは一度言葉を切り、目の前に立つエレオノーラの質素な灰色の服と、それに反するような気高い立ち姿を痛ましげに見つめた。
「あなたのような教養も誇りもある方が、戦利品として身分を奪われ、捨て駒のように扱われるとは……。いかに戦勝国とはいえ、我が国も落ちぶれたものですね」
「アーデルハイト。言葉が過ぎるぞ」
その痛烈な自国への批判に、それまで沈黙を保っていた当主ヴィルヘルムが、銀灰色の瞳を鋭く細め、眉間の皺を深くした。空気が再び氷のように張り詰める。しかし、彼の口から続いたのは、敗戦国の女を嘲る言葉ではなかった。
「……うむ。だが、ローゼンタール侯爵のことは私も知っている。あの男は、激しい戦地にあっても、敵味方関わらず負傷した者がいれば手当をさせ、力無き民に手を差し伸べていたと聞く。戦火の中であっても、一人としてその生活を理不尽に奪われる者があってはならぬと、各方面に声を上げていたそうだな」
「そこに国境は無いのだと……。ローゼンタール侯爵は、いつだって口癖のように言っていましたわね」
ヴィルヘルムの重々しい言葉に、アーデルハイトが静かに相槌を打つ。
冷徹な政治家であるヴィルヘルムの視線は依然として厳しいものだったが、そこには確かに、同じく国を背負って戦った「好敵手」への確かな敬意が含まれていた。
エレオノーラは、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
(セオドア様……)
エレオノーラの知る夫は、領地を愛し、邸宅で穏やかに微笑む優しい人だった。けれど、泥に塗れた凄惨な戦場において、彼がどれほどの覚悟で己の信念を貫いていたのかは知らなかった。
敵国であるバルツァーの重鎮たちの口から語られた、戦火に散ったセオドアの気高き戦い。その信念の強さに触れたような気がして、エレオノーラは込み上げてくる熱いものを堪えるように、そっと目を伏せた。
応接室の重厚な長椅子に腰を下ろすよう促され、エレオノーラとギルベルトは並んで座った。
アーデルハイトは、亡き前夫への想いを馳せ静かに目を伏せるエレオノーラから、その隣に座っている息子のギルベルトへと視線を移した。
これまでエレオノーラに向けていた慈愛に満ちた眼差しは消え、アーデルハイトの薄水色の瞳は、公爵家の女主人としての、そして一人の母親としての厳格な光を帯びていた。
「ギルベルト。お前は自分の過ちを認め、本当にエレオノーラと一緒になって、その凄惨な過去や思いを背負う事が出来るのですか?」
静かな応接室に、アーデルハイトの冷たく厳しい声が響く。
それは、激情のままに家門を捨てようとする若き息子への、痛烈な問いかけだった。戦勝国の騎士団長という絶対的な権力をもって、敗戦国の女である彼女を囲い込み、誇りを踏みにじったという事実。その罪の重さを、本当に理解しているのかと。
「少なからずとも、彼女の心の中にはセオドア卿への気持ちも残っているでしょう。その全てを受け入れられるのですか?」
ギルベルトの太腿の上で、厚い掌が固く、白くなるほどに握り締められた。
『彼女を檻に閉じ込め、誇りを踏みにじっていたのは貴方だ』
かつて、クラウスから叩きつけられた非難の言葉が脳裏をよぎる。己の傲慢さが彼女をどれほど絶望の淵へ追いやり、この細い肩にどれほどの凄惨な苦痛を与えたか。思い出すだけで、己の胸を剣で貫かれたような激しい後悔が押し寄せる。
そして、彼女の心の奥底には、今も気高き亡夫セオドア・ローゼンタールの存在が深く刻み込まれている。自分がどれほど愛を与えようと、決して消え去ることのない、不可侵の領域。
沈黙が落ちた。ヴィルヘルムもまた、銀灰色の双眸を細め、息子の覚悟を見定めるように黙り込んでいる。
やがて、ギルベルトはゆっくりと顔を上げた。
その鋭い瞳には、一切の迷いも、逃げもなかった。
「……俺の犯した罪は、一生消えるものではない。彼女がどれほどの絶望と恐怖の中で日々を耐え抜いていたか、俺の身勝手な執着がどれほど彼女の誇りを傷つけたか……痛いほど思い知った」
低く、絞り出すような声だった。自身の罪を一つ一つ数え上げるようなその声音に、エレオノーラは思わず隣に座る彼の横顔を見つめた。
「彼女がセオドア卿をどれほど深く愛し、誇りに思っているかも分かっている。俺は、卿の代わりにはなれない。彼女の過去を塗り替えることもできない」
ギルベルトは、握り締めていた拳をゆっくりと解き、隣に座るエレオノーラの華奢な手を、己の大きな両手でそっと包み込んだ。ひどく不器用で、ひどく優しい手つきだった。
「だが、それでも……俺は彼女を手放さない。彼女の過去も、俺がつけた傷も、心の奥底に残り続ける亡夫への想いも、腹に宿る新たな命も……そのすべてを、俺が背負う」
狂気じみた執着から始まった関係は、やがて彼の中で、己の命を燃やし尽くしてでも彼女を守り抜くという、揺るぎない覚悟へと変わっていた。
「たとえ一生涯、許されなくとも構わない。俺は、エレオノーラを生涯の妻とし、残りの命のすべてを懸けて彼女を愛し抜く。……何があろうとだ」
その宣言は、両親へ向けた言葉であると同時に、彼自身とエレオノーラへ向けた絶対の誓いであった。
張り詰めた空気の中、アーデルハイトは小さく息を吐き、扇で口元を覆った。厳格だった彼女の瞳が、ふっと柔らかく、安堵したように細められるのを、エレオノーラは確かに見た気がした。
ギルベルトの魂を削るような誓いの後、応接室を支配したのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
ヴィルヘルムは表情を変えず、ただ険しく、息子とエレオノーラの重なった手を見つめている。その銀灰色の瞳に宿る思考は、誰にも読み取れない。
「旦那様……」
アーデルハイトが、隣に座る夫へと顔を向けた。その声は小さかったが、長年連れ添った夫への、静かで、かつ断固とした問いかけだった。
ヴィルヘルムは、深く、重い溜息を一つ吐いた。それは、一族の利益と国家の威信を何よりも重んじてきた冷徹な政治家が、初めて「個」としての息子の熱情に屈した瞬間でもあった。
「……勝手にするがいい。もはや、私がお前を御せぬことは理解した」
ヴィルヘルムの言葉は突き放すようではあったが、そこには確かな許しが含まれていた。
ギルベルトの肩から、目に見えて力が抜ける。エレオノーラもまた、知らずのうちに止めていた息を、震えながら吐き出した。
アーデルハイトは、夫の返答を聞くと満足げに一度頷き、再び居住まいを正して二人に向き直った。その瞳には、すでに具体的な未来図が描かれている。
「良いでしょう。話は決まりました。エレオノーラ、あなたを私の姉が嫁いだ伯爵家に、養子として迎え入れられるよう、すぐさま手配を整えます。あちらには娘がおらず、ずっと望んでいましたから。高潔な貴女を迎えられると知れば、きっと喜ぶことでしょう」
エレオノーラは驚きに目を見開いた。養女として身分を整える。それは、彼女が「敗戦国の戦利品」という汚名を雪ぎ、バルツァー王国の貴族として再び誇り高く生きるための、唯一にして最大の救済だった。
「そんな……。私のような者に、そこまで……」
「貴女の価値は、私が一番よく分かっています。セオドア卿の誇りを継ぐ貴女を、このまま埋もれさせるわけにはいきませんから」
アーデルハイトが優しく微笑んだのを受け、ギルベルトはわずかに目を瞠った後、真っ直ぐに母を見据えた。
「……母上。実は、エレオノーラの身分を整えるため、すでにクラウスを通じてランツァー子爵家へ資金援助を持ちかけ、養女として迎え入れさせる手筈を整えておりました」
「ランツァー子爵家? あそこは先代の事業の失敗で、没落寸前ではありませんか」
「はい。だからこそ金で動きやすいと判断したのです」
ギルベルトの言葉に、アーデルハイトは小さくため息をつき、呆れたように首を振った。
「馬鹿な子ですね。いくら身分を洗浄するためとはいえ、次期公爵夫人となる者を没落寸前の子爵家から迎えたとなれば、貴族院の者たちがまた余計な口出しをしてきます。……私の姉が嫁いだエーデルフェルト伯爵家であれば、由緒も格も申し分なく、何より私とヴィルヘルム様が後ろ盾につくという最強の牽制になります」
「……」
「ランツァー子爵家への資金援助は、そのままあなたの個人資産から出して救済してあげなさい。ただし、縁組の話は取り下げること。……これからのシュバルツバルト公爵家を背負うエレオノーラには、それに相応しい最高の箔をつけて迎え入れます」
母の完璧な政治的配慮と、エレオノーラへの深い歓迎の意に、ギルベルトは深く息を吐き出し、深く頭を垂れた。
「……母上のご配慮に、心より感謝いたします。ランツァー家の件は、すぐに事後処理を行います」
アーデルハイトは満足げに頷き、次にギルベルトへと、射抜くような鋭い視線を向けた。ここからは、甘い親心だけでは済まされない厳しい条件の提示だった。
「ただし、ギルベルト。お前には相応の責務を果たしてもらいます。まず、騎士団長を辞しなさい。これからは公爵家の次期当主として、国政と領地経営のすべてを一から学び直すのです。お前を『家門の駒』ではなく一人の人間として認めましょう。ならば、お前もまた、家門を支える柱としての覚悟を見せなさい」
「……ああ。望むところだ」
ギルベルトに迷いはなかった。愛する女を守るための剣は、これからは権力と知略という形に変えて振るうことになる。
「そして、婚姻の儀は子供が産まれ、お前が当主としての基礎を身につけてからです。それまで、エレオノーラは同じ王都内にあるその伯爵家で暮らすことになります。同じ屋敷に住むことは許しません」
「なっ……!」
ようやく共に生きられると安堵していたギルベルトの顔が、目に見えて強張った。思わず反論しようと身を乗り出す息子を、アーデルハイトは冷ややかな声で制した。
「当然でしょう。私はまだ、お前の過ちを許したわけではありません。権力に物を言わせ、彼女を不当に扱い、その心と誇りを傷つけた罪は、そう簡単に贖えるものではないのですよ。離れた場所から、己の行いを悔い、誠意をもって彼女に通いなさい。……良いですね?」
ぐうの音も出ない正論に、ギルベルトは奥歯を噛み締め、深く頭を垂れた。
「……承知した」
己のしでかした事の重大さを誰よりも理解しているからこそ、彼はその罰を甘んじて受けるしかなかった。
アーデルハイトは、ようやくすべてを解き放つように、穏やかに微笑んだ。
「私達は、時期を見て当主の座を退きます。その後は、ヴィルヘルム様と静かに余生を過ごすつもりよ。……ギルベルト、エレオノーラ。お前たちが作る新しいシュバルツバルト公爵家を、楽しみにしています」
エレオノーラは、隣で肩を落とす不器用な男の大きな手を、自身の両手でそっと包み込んだ。
(私たちが、家族に……)
過酷な運命に翻弄され、一度はすべてを失った。けれど今、目の前には、亡き夫の信念が繋いでくれた新たな縁と、不格好なまでに真っ直ぐに愛してくれる男との、確かな未来が開かれようとしていた。
エレオノーラは、溢れそうになる涙を堪え、深く、深く頭を下げた。その銀糸の髪が、窓から差し込む光を浴びて、静かに、そして気高く輝いていた。
今後の身の振り方が決まると、アーデルハイトは素早く動き出した。
「さあ、ギルベルト。お前はすぐに騎士団宿舎へ戻り、団長としての引き継ぎと退団の準備を進めなさい。エレオノーラの縁組が整うまでの数日間、彼女は私がこの公爵邸で保護しますから、お前は決して近づかないように」
「な……数日もか!? 母上、それはいくらなんでも」
「おや、たった数日も我慢できない男に、次期公爵としての重責が務まるとでも? それとも、彼女をまたあの劣悪な宿舎へ連れ帰るとでも言うのですか」
「っ……分かった。すぐに行く」
ピシャリと言い放つ母に、ギルベルトは渋々ながらも引き下がるしかなかった。名残惜しそうに何度もエレオノーラを振り返りながら、彼は重い足取りで応接室を後にした。
嵐のような話し合いが終わり、静寂が戻った公爵邸。
夕刻、茜色の夕日が美しく差し込むサロンに、エレオノーラは招かれていた。身を清め、使用人の灰色の服から、アーデルハイトが用意した肌触りの良い上質なドレスへと着替えた彼女は、かつての侯爵夫人としての輝きを完全に取り戻していた。
「エレオノーラ、少し話をしませんか?」
向かいの長椅子に座るアーデルハイトが、湯気の立つ紅茶のカップを置きながら優しく声をかけた。
「はい、奥様」
エレオノーラが背筋を伸ばして畏まると、アーデルハイトはふふっと小さく笑い、目尻を下げる。
「あなたはもう使用人では無いのですから、そんなに畏まらなくてよろしいのよ。そうですね……義母と呼んでも構いません」
「お義母さま……」
「ええ。何れそうなるのですから、今からそう呼んでも良いでしょう?」
アーデルハイトの柔らかく、慈愛に満ちた微笑みに、エレオノーラの張り詰めていた心がゆっくりと解けていくのを感じた。
サロンを包む温かな夕日の中、二人はこれまでの事や、これからの未来について静かに語り合った。
アーデルハイトは、冷徹な夫ヴィルヘルムとの間に愛のない政略結婚で嫁いできた過去を、隠すことなくエレオノーラに打ち明けた。冷たい家風の中で孤独を抱えながら、ただ一人息子のギルベルトだけを心の支えに生きてきたこと。「家門の駒」として厳しく育てざるを得なかった後悔。だからこそ、息子には心から愛する人と結ばれて幸せになってほしいと、密かに願い続けていたこと。
「あの子は不器用で、あなたには取り返しのつかない酷い事をしてしまった。……けれど、あの子が家門を捨ててでもあなたを守ると言った時、私は母親として、心から嬉しかったのですよ」
「……ギルベルト様は、本当に真っ直ぐで、情に深い方です」
エレオノーラが伏し目がちにそう答えると、アーデルハイトは嬉しそうに頷き、ふとエレオノーラのお腹へと視線を落とした。
「ところで……セオドア卿との間には、子はいなかったのね?」
その問いに、エレオノーラは膝の上でそっと両手を重ねた。脳裏に浮かぶのは、優しかった前夫の顔と、迫り来る戦火の影に怯えていた日々。
「はい。……日々戦火の火種が増していく中、子供を作ることが憚られまして。戦争が終わって、落ち着いてからという話をしていました。まさか、領地経営に尽力していた高位貴族までもが戦線に召集されるほど、ロランディアの状況が悪くなるとは思ってもいませんでしたから……」
(いつか、平和になったら)
そう先延ばしにした未来は、二度と訪れることはなかった。夫は戦死し、国は敗れ、自分はすべてを失った。愛する人の子を腕に抱くという、ささやかな夢さえも。
「……だから、ギルベルト様の子を身ごもったと分かった時、私は……」
エレオノーラは重ねた手を、少しふくらみ始めた自身のお腹へとそっと移動させた。
始まりは、決して褒められたものではなかった。絶望と屈辱の中で強いられた関係だった。それでも、彼が不格好に示し続けてくれた真摯な愛情に触れるうちに、彼女の心は確実に彼を求めていた。
「この命の存在を知った時、私は自身の身分も、彼への影響もすべて頭から飛び去ってしまうほど、嬉しかったのです。もう二度と、愛する人を失いたくない。後悔したくない。……ですから、どうしても……今度こそ、お慕いする彼との子を産みたかったのです」
顔を上げたエレオノーラの青い瞳には、涙が光っていた。しかし、その顔に浮かんでいたのは、悲しみではなく、愛する男と我が子を守り抜くという、力強く美しい母の決意だった。
「……そう。本当に、強い子ね」
アーデルハイトは優しく微笑むと、身を乗り出し、エレオノーラの頬を伝う涙を自身の指先でそっと拭った。
夕暮れのサロンには、過酷な運命を乗り越えて真実の愛に辿り着いた若き母と、それを見守る義母との、穏やかで温かい時間が流れていた。
◆◆◆◆◆
「えぇっ!? 団長、辞められるんですか?」
騎士団長室。引き継ぎの書類を無造作に机に置いたギルベルトの言葉に、いつも冷静沈着な副団長クラウスが珍しく目を丸くし、素頓狂な声を上げた。
「ああ。これからは次期公爵として、一から国政と領地経営を学ぶことになった。……エレオノーラを、正式に妻として迎えるために」
事の顛末を淡々と、しかしどこか晴れやかな顔で語るギルベルトに対し、クラウスは深い緑色の瞳を細め、あからさまな深い溜息をついた。
「はぁ……。ご自身の幸せを掴み取られたことは祝福いたしますが、よりにもよってこの時期にですか……? 陛下がまた隣国へ攻め入ろうと、不穏な暗躍をしているこの時に」
「お前がいれば大丈夫だろう。俺の剣技に次いで腕が立ち、誰よりも頭の回るお前が新団長となれば、騎士団はより強固になる」
「大丈夫じゃありませんよ」
クラウスは、いつもの食えない笑みを完全に消し去り、本気で落胆したように肩を落とした。
「私は、団長と背中を預け合っていられる仲だからこそ、副団長としてやっていけていたのですよ。面倒な政治的圧力はすべて公爵家の御曹司である貴方に押し付け、私は実務と剣に集中できていたというのに」
「お前……今まで俺をそんな風に扱っていたのか」
「今更でしょう。……ああ、憂鬱だ」
頭を抱えるクラウスだったが、やがて顔を上げると、いつもの静かで知的な笑みをふっと浮かべた。
「……仕方ありません。ですが、情勢が落ち着いたら私も騎士団を辞めますからね。そうしたら、次期公爵である貴方の家で、側近として高給で雇ってくださいよ」
「ふっ……。ああ、せいぜいこき使ってやる」
互いの背中を預け合った無二の戦友として、二人は固く握手を交わした。
こうしてギルベルトは若くして就任した騎士団長の座を退き、もう何年も空けていたシュバルツバルト公爵邸へと戻り、次期当主としての厳しい学びに身を投じることとなった。
一方、エレオノーラはアーデルハイトの手配により、同じ王都内にあるエーデルフェルト伯爵家との養子縁組の手続きを無事に終えていた。
アーデルハイトの姉である伯爵夫人は、娘がいないこともあり、洗練された気品と心優しい性格を持つエレオノーラを手放しで歓迎した。美しいドレスや宝石が次々と贈られ、大切に庇護される日々。それは、敗戦国の使用人として酷使されていた日々からは想像もつかない、穏やかで温かい時間だった。
ギルベルトは母との約束を固く守り、同じ屋敷に住むことはせず、節度を持って彼女の元へと通った。
次期当主としての執務と勉学で目を回すほど忙しいはずなのに、エーデルフェルト伯爵邸には毎日欠かさず、彼から美しい花束と不器用な手紙が届けられた。そして週に一度は必ず時間を空け、彼女をエスコートしてデートに出かけた。
「歩幅は早すぎないか? 疲れていないか、エレオノーラ」
「ふふっ。大丈夫ですよ、ギルベルト様。そんなに心配そうに見つめないでくださいな」
少しずつふくらみを増していく彼女のお腹を気遣い、ギルベルトはまるで壊れ物を扱うように慎重に彼女をエスコートした。かつての険のある表情は鳴りを潜め、愛する女に向けるその眼差しは、ただただ甘く優しい。そんな不格好なほどに誠実な彼の姿に、エレオノーラもまた、心からの笑顔を向けるようになっていた。
二人が穏やかな婚約期間を育み、新たな命の誕生を心待ちにしていた頃――。
バルツァー王国では、歴史を揺るがす大きな政変が起きていた。
無謀にも再び隣国へと軍を向けようとした現国王の狂気に、ついに国内の不満が爆発したのだ。
その中心に立ったのは、新たな騎士団長となったクラウス・ヴェルナーであった。彼は持ち前の冷静沈着な頭脳で強固な包囲網を敷き、流れる水のような美しい剣捌きで、向こう見ずな現国王の親衛隊をあっという間に無力化してみせた。
流血を最小限に抑えた鮮やかな手口で現国王を制圧したクラウスは、父王の横暴に長年頭を悩ませていた誠実な王太子を、新たな国王として玉座に据えた。
新王の即位により、敗戦国への理不尽な搾取は見直され、バルツァー王国は新たな平和な時代へと歩み出すこととなる。
長きにわたる悲劇の連鎖は、ついに終わりを告げようとしていた。
◆◆◆◆◆
バルツァー王国の国政が大きく変わり、季節は茹だるような熱気を孕んだ夏から、穏やかな初秋へと移り変わろうとしていた。
新王の即位に伴う混乱は、クラウスの緻密な手腕によって最小限に抑えられ、国はかつてないほど平穏な空気に包まれていた。敗戦国ロランディアに対する過酷な政策も撤廃され、両国間の傷跡はゆっくりと、しかし確実に癒えようとしている。
エーデルフェルト伯爵邸で手厚く庇護されているエレオノーラのお腹は、誰の目にもはっきりと分かるほどに大きくなり、いよいよ出産の時期が近付いていた。
「ギルベルト様、今日はとても風が心地よいですね」
「ああ。だが、足元には気をつけてくれ。絨毯のわずかな段差でも危ない」
伯爵邸の陽当たりの良いサロン。最近のギルベルトは、身重なエレオノーラの体を気遣い、外でのデートを控えて伯爵邸へと足繁く通っていた。彼が過保護なほどにエレオノーラを気遣う姿は、もはやエーデルフェルト邸の使用人たちの間でも微笑ましい日常の光景となっている。
「少し大袈裟ですよ。私はとても健康ですし、お腹の子もよく動いてくれますから」
「それでもだ。俺の心臓が持たない」
真顔で返すギルベルトに、エレオノーラはふふっと小さく笑い、愛おしげにお腹を撫でた。かつての殺伐とした騎士団長の面影はすっかり消え、そこにいるのは、愛する妻と我が子を何よりも大切に想う、不器用で誠実な一人の男だった。
一方、シュバルツバルト公爵邸でも、確かな変化が訪れていた。
「ギルベルト。あなたも、立派に公爵としてやっていけそうですね」
執務室で山のような領地経営の書類に目を通す息子に、アーデルハイトは温かいお茶を差し出しながら目を細めた。
騎士団を辞したギルベルトの吸収力は凄まじかった。持ち前の実直さと責任感で国政や領地の内情を一から学び直し、今や現当主であるヴィルヘルムも密かに舌を巻くほどの政務能力を身につけつつある。
(これなら、私たちが引退する日もそう遠くないわね……)
目まぐるしい息子の成長に、アーデルハイトは安堵の息を吐いた。
そんな平穏な公爵邸に、一人の珍客が訪れたのは、夏の終わりを告げる涼しい風が吹き始めた日の午後だった。
「クラウス……」
応接室に通されたその男を見て、ギルベルトは驚きに目を丸くした。
そこに立っていたのは、数ヶ月前まで王国騎士団長として新王を支えていたはずの男、クラウス・ヴェルナーだった。しかし、彼は見慣れた騎士団の制服ではなく、仕立ての良い上質な平服を身に纏っている。
「団長……あ、今はギルベルト次期公爵でしたね。お元気そうで何よりです。約束通り、騎士団を辞めてきましたから、私を雇ってください」
クラウスは、いつものように栗色の長い髪を揺らし、食えない笑みを浮かべてあっさりとそう言った。
「お前……本当に、辞めてきたのか?」
「ええ。私は嘘はつきませんよ。クーデターの事後処理も新体制の構築も、すべて完璧に終わらせてきました。いやあ、大変な激務でしたよ」
「だとしても、新王の右腕としてどれだけでも出世できただろうに……」
絶句するギルベルトに対し、クラウスは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ギルベルト様が雇ってくださらないと、家門を継げない三男坊の私は路頭に迷ってしまいますからね。それに……私はやはり、貴方の背中を支えている方が性に合っているのですよ」
深い緑色の瞳に宿る、決して揺らぐことのない忠誠心と信頼。
ギルベルトはふっと息を吐き、やがて呆れたように、けれど心底嬉しそうに口角を上げた。
「……仕方ない。俺の側近として、せいぜいこき使ってやろう」
「ええ、お手柔らかにお願いしますよ。主君殿」
こうして、かつて騎士団で背中を預け合った無二の戦友クラウスは、次期公爵ギルベルトの筆頭側近として、シュバルツバルト公爵邸に迎え入れられることとなった。彼がいれば、ギルベルトの当主としての地盤はさらに盤石なものになるだろう。
◆◆◆◆◆
やがて季節は完全に秋へと移り変わり、王都の木々が美しい黄金色に染まる頃。
エーデルフェルト伯爵邸で静かにその時を待っていたエレオノーラに、ついに陣痛が訪れた。
屋敷中がにわかに慌ただしくなり、知らせを受けたギルベルトが、顔面を蒼白にしながら馬を飛ばして駆けつける。
長く過酷な冬を耐え抜いた没落夫人の、新たな命の誕生がいよいよ始まろうとしていた。
エーデルフェルト伯爵邸の長く広い廊下に、落ち着きのない重い足音が響き続けていた。
重厚な木扉の前を行き来しているのは、ギルベルトである。
かつては王国最強と謳われた騎士団長であり、いかなる死地や修羅場においても決して冷静さを失うことのなかった男が、今はひどく狼狽え、血の気を失った顔で何度も自身の髪を掻き毟っていた。
「……っ、う、ああっ……!」
不意に、分厚い扉の向こうから、悲痛とも聞こえるエレオノーラの叫び声が漏れ聞こえてきた。続いて、医師や産婆たちの切羽詰まった声が重なる。
(エレオノーラ……っ)
その声を聞くたびに、ギルベルトの心臓は鷲掴みにされたように激しく痛んだ。
彼女は芯が強く、どれほどの絶望や屈辱の中でも、決して声を上げて泣き叫ぶような真似はしなかった。その彼女が、あれほどまでに苦鳴を上げている。己の身体を二つに引き裂かれるような苦痛に耐えているのだ。
それなのに、自分はここでただ待つことしかできない。
愛する女を守るために無敵の剣技を磨き、権力を手にしたはずなのに、今の彼女の苦痛を和らげるためには、己の力など何の役にも立たないのだ。
(どうか、無事で……。俺の命などどうなってもいい。だから、どうか彼女を護ってくれ……!)
壁に背を預け、ギルベルトは両手を固く組み合わせて祈った。彼が神にすがるなど、これまでの人生で一度たりともなかったことだ。
数時間という時間が、まるで何年にも、何十年にも感じられた。
秋の短い陽が落ち、窓の外が完全に夜の闇に包まれても、部屋の中での壮絶な戦いは終わらない。張り詰めた空気の中、ギルベルトの息が詰まりそうになったその時だった。
――オギャアッ! オギャアッ!
突然、扉の向こうから、生命力に満ちた甲高い産声が響き渡った。
ギルベルトは弾かれたように顔を上げた。
呼吸を忘れたように立ち尽くす彼の前で、やがて重厚な木扉がゆっくりと内側から開かれる。
「……っ」
顔を出した医師は、額に汗を浮かべながらも、その顔に安堵の笑みをいっぱいに浮かべていた。
「おめでとうございます。ご子息のご誕生です。エレオノーラ様もご無事です」
その言葉を聞いた瞬間、ギルベルトの肩からすべての力が抜け落ちた。
張り詰めていた糸が切れ、危うくその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。視界が急速に熱く滲み、大きく息を吸い込むと、肺の奥底から震えるような安堵の吐息が漏れた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう……」
掠れた声で医師に深い感謝を告げると、ギルベルトは吸い寄せられるように、愛する妻と我が子が待つ部屋の中へと足を踏み入れた。
◆◆◆◆◆
あの凄絶な出産から一月半。
産後の肥立ちも良く、すっかり体力を回復したエレオノーラは、秋晴れの澄み渡る空の下、ついにギルベルトとの婚姻の儀を迎えていた。
王都の中心にそびえ立つ、荘厳な大聖堂の控え室。
柔らかな光が差し込むその部屋で、大きな姿見の前に立つエレオノーラは、自身の姿にふさわしくないような、くすぐったい思いを抱いていた。
身に纏うのは、最高級の絹をふんだんに使った純白のウェディングドレス。首元や裾には、かつての彼女が共同住宅で生計を立てるために刺していたものとは比べ物にならないほど繊細で、見事な銀糸の刺繍が施されている。透き通るような銀糸の髪は美しく結い上げられ、輝くティアラが乗せられていた。
かつて、絶望の中で与えられた粗末な灰色の使用人服を着ていた女と、同一人物とは到底思えないほどの神々しい美しさがそこにあった。
「エレオノーラ、大変美しいですよ」
背後から掛けられた感嘆の声に振り返ると、豪奢なドレスを纏ったアーデルハイトが、目を細めて微笑んでいた。
そのふくよかな腕の中には、真っ白なおくるみに包まれた小さな命――アーデルハイトにとっては初孫となる、テオドールが静かに寝息を立てて抱かれている。
「お義母さま、ありがとうございます。……今日はテオドールの事、どうかよろしくお願いいたします」
エレオノーラが深く頭を下げると、アーデルハイトは愛おしそうに孫の柔らかい頬を指先で撫でた。
「ええ、勿論よ。可愛いこの子と一日中一緒にいられるのですから、私にとってはご褒美のようなものです。……本当に、ようやくこの日が迎えられましたね」
「はい……」
アーデルハイトの言葉に、エレオノーラの胸の奥が熱くなる。
敗戦国の戦利品としてすべてを奪われ、絶望の淵に立たされたあの日。そこから始まり、幾度も傷つき、すれ違い、それでも互いの手を強く握り直して辿り着いた、今日という日。
腕の中のテオドールという存在が、二人が数々の障壁を乗り越えて結ばれた、何よりの証だった。
コンコン、と。
控え室の扉が軽くノックされ、親しげな声とともに一人の男が顔を覗かせた。
「エレオノーラ様、ご準備は整いましたか?」
ギルベルトの筆頭側近として、仕立ての良い礼服を隙なく着こなしたクラウスである。彼はいつもの食えない笑みを浮かべ、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ギルベルト様が、今にも扉を蹴破って突入しそうな勢いで外でお待ちになっておりますよ。これ以上待たせると、せっかくの晴れ舞台の前に聖堂の警備兵が薙ぎ倒されかねません」
相変わらずの主君への遠慮のない物言いに、エレオノーラは思わず吹き出してしまった。
愛する妻の晴れ姿を待ちきれず、大聖堂の廊下で熊のようにウロウロと歩き回っている不器用な彼の姿が、容易に想像できたからだ。
「ええ、今行くわ」
エレオノーラが振り返り、ふわりと純白のドレスの裾を揺らすと、クラウスは一瞬だけ目を瞠り、やがて心からの感嘆を込めて恭しく頭を下げた。
「ふふ、やはりエレオノーラ様はお綺麗ですね。今日のお姿は、どの花も恥じらう程です。……我が主君には、少々もったいないくらいだ」
「まあ、ありがとう。クラウス」
エレオノーラは、照れ隠しのように上品に微笑んだ。
「さあ、参りましょう」
クラウスが恭しく扉を大きく開け放つ。
扉の向こうには、長く美しい大理石の回廊が続いており、その先には彼女のすべてを受け入れ、命を懸けて愛し抜くと誓ってくれたただ一人の男が待っている。
(ギルベルト様……)
エレオノーラは、大きく深呼吸を一つすると、未来への希望に満ちた真っ直ぐな足取りで、ギルベルトの待つ大聖堂へと歩みを進めた。
大聖堂での厳かな婚姻の儀は滞りなく終わり、エレオノーラは今日から正式に、シュバルツバルト公爵邸の女主人として住まうこととなった。
公爵邸の大広間では、盛大な披露宴が開かれていた。新国王となったかつての王太子からの祝いの品が届けられ、多くの貴族たちが次々と祝福の言葉を掛けに訪れる。かつて敗戦国の使用人として蔑まれていたエレオノーラに向けられるのは、もはや羨望と敬意の眼差しのみであった。彼女は長丁場の疲れを見せることもなく、隣に立つギルベルトと共に、完璧な気品と微笑みでそれらに応え続けていた。
披露宴も終盤に近付き、華やかな喧騒が少しだけ落ち着き始めた頃。
エレオノーラの元にクラウスが歩み寄り、周囲に聞こえないようそっと耳打ちをした。
「エレオノーラ様。少々よろしいですか? 庭園の方へご案内したいのですが」
「庭園へ? ええ、構わないわ」
不思議に思いながらも、エレオノーラはギルベルトに小さく目配せをし、クラウスのエスコートで夜の庭園へと足を踏み出した。
広間の熱気から一転、初冬の冷たくも澄んだ風が、火照った頬を撫でる。美しく手入れされた薔薇の香りが漂う庭園の東屋に、三つの人影が立っているのが見えた。
「エル! おめでとう!」
暗がりから飛び出してきたその声に、エレオノーラは弾かれたように顔を上げた。
「まあまあ……あの時もそうだけど、本当に綺麗だわ」
「子供も無事に産まれたんでしょ? 会いたかったよぉ」
そこに居たのは、国境を越えたバルツァー北部の辺境の町で、身一つで逃げてきた彼女を家族のように助け、生活を共にしてくれた恩人たち。マルト、セリア、リザの姿だった。
「皆さん……! どうして、ここに……っ」
驚きと喜びで、エレオノーラの深い青い瞳からあっという間に涙が溢れ出した。
外国の平民である彼女たちは、当然ながら厳格な身分制度のあるバルツァーの貴族の披露宴会場に入ることはできない。しかし、豪奢なドレスを汚すことも厭わず駆け寄ってきたエレオノーラを、三人は笑いながら温かく抱きしめた。
「ギルベルトさんが、是非来て欲しいって、立派な馬車とお迎えを寄越してきてね。王都見物も兼ねてご招待しますって」
「そうそう。エルの一生に一度の晴れ姿なんだから、行かないわけないじゃない」
マルトとセリアが笑いながら言うと、リザも目を潤ませて何度も頷いた。
エレオノーラは、ハッと息を呑んだ。冷徹で身分を重んじていたかつての彼なら、決して思いつきもしないことだ。けれど今のギルベルトは、エレオノーラが誰に感謝し、誰を大切に想っているかを理解し、己の権力を使って彼女たちをこの公爵邸へと招き入れてくれたのだ。
クラウスが後ろで、優雅に微笑んでいる。遠く離れた恩人であり友人たちとの予期せぬ再会。それは、ギルベルトからエレオノーラへの、何よりも嬉しく、愛に溢れた結婚祝いだった。
◆◆◆◆◆
数時間後。
長い披露宴が完全にお開きとなり、公爵邸が静寂を取り戻した夫婦の寝室。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる中、エレオノーラとギルベルトは、豪奢な長椅子に並んでゆっくりと寛いでいた。ギルベルトは堅苦しい礼服の上着を脱ぎ、少しだけシャツの胸元を緩めている。その隣で、寝香水がほのかに香るガウンを羽織ったエレオノーラが、温かい紅茶の入ったカップをテーブルにそっと置いた。
「ギルベルト様。今日は本当に、ありがとうございました。皆さんとまたお会い出来て……心から、嬉しかったのです」
彼女が穏やかな微笑みとともに見上げると、ギルベルトは愛おしそうに目を細め、大きな掌で彼女の銀糸の髪をそっと撫でた。
「礼を言う必要はない。彼女たちも、エレオノーラにとってはかけがえのない人達だ。俺の妻と子を護ってくれた恩人に、相応の礼を尽くすのは当然のことだろう」
その声はひどく優しく、深い響きを持っていた。
かつては、狂気に満ちた執着で彼女を檻に閉じ込めようとした男。けれど今、彼の与えてくれる愛は、どこまでも温かく、彼女の心を自由にしてくれる。
エレオノーラは、彼に撫でられる心地よさに目を閉じ、その厚く広い胸にそっと自身の身を預けた。ギルベルトの長い腕が、大切な宝物を抱え込むように彼女の背中を包み込む。彼の力強い鼓動が、耳元で確かな安心感となって響いていた。
(……あなたの元に戻って良かった……)
エレオノーラは、彼に寄り添いながら、心からそう思えた。
すべてを失い、絶望の底を這うような日々から始まった二人の関係。泥に塗れ、傷つけ合い、それでも決して手放さなかった絆の果てに、ようやく辿り着いた真実の愛の居場所だった。
窓の外では、冷たい初冬の風が夜の庭園を吹き抜けている。しかし、暖炉の火が揺れる寝室で寄り添う二人の間には、まるで春の陽だまりのような、甘く穏やかな温もりが満ちていた。
幾多の試練を越えた夫婦の夜は、ただ静かに、幸福に更けていった。




