第五章
ベルーナル商会でのクラリスとの会談から数日が経過した。
バルツァー王宮の片隅にある騎士団専用の鍛錬場には、春の暖かな日差しが降り注いでいたが、そこだけはまるで真冬の吹雪の中にいるかのような、凍てつく剣気が満ちていた。
鋭い金属音が連続して響き渡る。
漆黒の髪を汗で濡らしたギルベルトは、手にした木剣で次々と打ち込み用の木人に向かって凄まじい連撃を叩き込んでいた。その一撃一撃には、実戦さながらの重い殺気と、行き場のない苛立ちが込められている。
周囲で訓練を行っていた若い騎士たちは、団長の放つ尋常ではない覇気に圧倒され、遠巻きに息を潜めて見守るしかできない。
『貴方が用意したと言うそれは、ただ鉄の檻を黄金の檻に変えただけ』
『思い上がりも甚だしい』
木剣を振るうたびに、クラリス・ベルーナルの冷酷なまでの指摘が、頭の中で何度も木霊する。
エレオノーラを理不尽な環境から救い出し、誰もが傅く公爵夫人という安全な場所へ据える。それこそが彼女への最大の贖罪であり、愛の証だと信じて疑わなかった。
だが、クラリスに言わせれば、それは自分自身の権力と身分に依存した、身勝手な自己満足に過ぎないというのだ。
バキリ、と鈍い音が鳴り、ギルベルトの渾身の一撃が分厚い木人の胴体を真っ二つに叩き割った。
木片が乾いた音を立てて石畳に転がる。ギルベルトは荒い息を吐きながら、折れた木剣をその場に投げ捨てた。
(俺は、父上と同じだったというのか)
汗を拭い、空を仰ぐ。
権力で他者を支配し、己の思い通りに動かそうとしたヴィルヘルム。そのやり方を憎み、反発して実家を力で制圧した自分だが、本質的な部分は何も変わっていなかったのではないか。
エレオノーラという一人の誇り高き女性を、自分の目の届く安全な場所に「閉じ込めておきたかった」だけではないのか。彼女の強さも、這いつくばってでも己の足で生きようとする覚悟も、すべて見て見ぬふりをして、ただ自分が安心したいがために権力を振りかざしていた。
「……ひどい有様ですね、団長。備品を壊されては経費がいくらあっても足りませんよ」
静かな声が響き、振り返ると、副団長のクラウスが呆れたような表情で立っていた。その深い緑色の瞳は、荒れ狂う主君の心の内を正確に見透かしているようだった。
「クラウスか……。すまない、後で俺の給金から引いておいてくれ」
「そうさせていただきます。……姉からひどく絞られたようですね。商会からの帰り道、あなたの顔はまるで死人のようでしたよ」
「あのお方は、恐ろしいほど正確に俺の急所を突いてきた。反論の余地もないほどにな」
ギルベルトは自嘲気味に笑い、鍛錬場の隅にある長椅子に腰を下ろした。クラウスもその隣に座り、鍛錬場の砂埃が舞う空間に視線を向ける。
「団長。あなたはこれから、どうされるおつもりですか。公爵閣下から干渉権を奪い、ランツァー子爵家との養子縁組の話もまとまりかけている。彼女を迎える準備は完璧に整いつつあります。あとは、行方さえ分かれば……」
「……いや、すべて白紙に戻せ」
ギルベルトの口から出た予想外の言葉に、クラウスは僅かに目を瞠った。
「白紙、ですか。あれほど強引に推し進めた計画を?」
「ああ。クラリス夫人の言う通りだ。身分を洗浄し、公爵家の庇護下に置くことなど、エレオノーラは何一つ望んではいない。それは俺の傲慢だ」
ギルベルトは自身の手のひらをじっと見つめた。剣ダコが刻まれた、無骨で大きな手。この手で彼女を抱きしめ、繋ぎ止めようとしたが、結局は彼女を傷つけ、遠くへ追いやる結果にしかならなかった。
白紙に戻すと口では言ったものの、ではどうすれば正解なのか、今のギルベルトには全く見当もつかなかった。
身分を捨てれば済むという単純な話ではないことは、クラリスのあの冷ややかな眼差しが物語っていた。地位や名誉をかなぐり捨てて彼女を追うことが、本当に彼女の望む愛なのか。それもまた、自分の罪悪感を解消するための独りよがりな陶酔ではないのか。
(俺は、彼女に何ができる。何を与えれば、彼女は俺を見てくれるのだ……)
深い泥沼に沈んでいくような閉塞感に、ギルベルトは顔を覆った。騎士として、公爵家の跡継ぎとして、常に正解を選び取ってきたはずの彼が、今、人生で初めて「答えの出ない問い」に突き当たっていた。
隣で沈黙を守っていたクラウスが、不意に視線を空に向け、独り言のようにつぶやいた。
「団長、商売って言うのは扱うものが良かったり、多いって言うだけでは成り立たないんですよ。私も商売に関して詳しい訳じゃありませんけど……義兄もよく言ってます。商売って言うのは第一に信用が大事だって。商会に信用が無ければ、どんなに品物があっても、良いものが揃っていても客は来ない……らしいです」
ギルベルトは覆っていた手をどけ、不審げにクラウスを見た。この状況で唐突な商売の話に戸惑ったが、クラウスの表情は極めて真剣だった。
クラウスはゆっくりとギルベルトに顔を向けて言った。
「身分が高かろうが、無かろうが……団長自身が信用されて無ければ、傍に居たいとは思わない……ですよね?」
その言葉が、ギルベルトの胸にストンと落ちた。
冷たい水が乾いた喉を潤すように、混迷していた思考が一気に晴れていく感覚だった。
(信用……。そうだ、俺にはそれが欠けていたのだ)
これまでギルベルトがエレオノーラに対して行ってきたことは、すべて一方的な「施し」か「強制」だった。
戦利品として弄び、身の安全と引き換えに私室に囲い込み、勝手に将来の身分を用意する。そこには対等な人間としての対話も、時間をかけて育むべき信頼も存在しなかった。
(彼女が俺を拒み、姿を消したのは、俺の身分や立場が理由ではない。俺という男を、一人の人間として信用できていなかったからだ。命を預け、共に歩む伴侶として、俺は彼女の心に何の根も下ろせていなかった)
「……信用、か。身分や権力という看板を外した、俺自身の値打ちか」
ギルベルトの声には、先ほどまでの苛立ちはなく、静かな反省が混じっていた。
公爵家という盾も、騎士団長という鎧も、エレオノーラの前では何の意味もなさない。むしろ、それらが大きければ大きいほど、二人の間に溝を作っていた。
「私は姉に似て、少々意地悪な言い方をしたかもしれません」
クラウスは立ち上がり、軽く服の埃を払った。
「ですが団長、商売の『信用』というのは、一度失えば取り戻すのに何倍もの時間がかかるものです。地道に、誠実に、相手が求めているものを理解しようとしなければならない。今のあなたは、商品(身分)だけを並べて、客(彼女)に無理やり買わせようとしている店主に見えますよ」
ギルベルトは自嘲気味に息を吐いた。
「手厳しいな。だが、その通りだ。俺は彼女の心を、俺の力で買えるものだと思い込んでいたのかもしれない。……クラウス、礼を言う。少しだけ、道が見えた気がする」
「それは良かったです。さて、壊れた木人の始末は任せましたよ」
クラウスはひらひらと手を振りながら、鍛錬場を後にした。
一人残されたギルベルトは、再び空を見上げた。
春の空はどこまでも高く、澄み渡っている。
(エレオノーラ……。俺は、お前に信じてもらえる男になりたい。どれほど時間がかかっても、どれほどの無様を晒しても、お前の誇りに見合う俺に……)
折れた木剣を握りしめる。
これから歩むべき道は、どんな戦場よりも困難で、長く険しいものになるだろう。
だが、その一歩を踏み出すための覚悟だけは、今、確かに彼の内に宿っていた。
ギルベルトは、これまでの傲慢な自分を脱ぎ捨てるように、深く、長く呼吸を繰り返した。
◆◆◆◆◆
鍛錬場でのクラウスとの対話から数日後。
ギルベルトは再び、王都の一角に広大な敷地を構えるベルーナル商会の本館を訪れていた。
通された豪奢な応接室には、前回と同じく最高級の茶器が並べられ、甘い香りの紅茶が湯気を立てている。だが、そこに座るギルベルトの纏う空気は、数日前の彼とはまるで別人のように変わっていた。
常に周囲を威圧していた剣呑な覇気や、行き場のない焦燥感はすっかり影を潜めている。漆黒の特注制服に身を包んではいるものの、その銀灰色の瞳は静かな湖面のように澄み渡り、ただ真っ直ぐに前を見据えていた。
向かいの長椅子に腰を下ろしたクラリスは、扇越しにギルベルトの顔をじっと見つめ、やがてふっと扇を下ろした。
「……答えが出たようね」
クラリスの言葉に、ギルベルトは静かに頷いた。
「ええ。あなたの弟君から、商売における『信用』の大切さを教わりました。俺はこれまで、身分や力という対価を支払えば、人の心すらも手に入ると錯覚していた。……彼女が俺から離れたのは、俺という人間を何一つ信用していなかったからです」
己の愚かさを隠すことなく、淡々と語るギルベルト。
その清々しいほどの潔さに、クラリスは少しだけ目を丸くした。あの強権的で傲慢だった若き騎士団長が、たった数日でここまで己を省み、変わることができるとは思っていなかったのだ。
「商会の情報網を使えば、彼女の居場所を探すことは安易な事よ」
クラリスはティーカップを手に取り、ゆっくりと口に運んでから、冷徹な商人の顔に戻って告げた。
「でも、申し訳ないのだけれど、私達も信用第一でやっているから、それは使えないわ。一個人の逃亡者を、商会の力を使って無理やり探し出し、権力者の元へ引き渡すような真似をすれば、私達の商会そのものの信用に関わる。いくら弟の上官であろうと、商会の根幹を揺るがすような真似はできないの」
突き放すような言葉だった。
数日前のギルベルトであれば、公爵家の権力を笠に着て激昂し、強引に情報を引き出そうとしたかもしれない。だが、今の彼は微塵も怒りを露わにすることはなかった。
「……それは当然だ」
ギルベルトは深く頷き、静かな声で肯定した。
「あなた方の信用を損なわせてまで、俺の我儘を通すわけにはいかない。俺は、俺自身の足で彼女を探すつもりだ。今日ここへ来たのは、先日の非礼を詫びるためと……俺が騎士団を退役し、公爵家を出た後、クラウスにこれ以上の迷惑がかからぬよう、ベルーナル家からも口添えを頼みたかったからだ」
すべてを捨てる。その言葉が嘘偽りない本心であることを悟り、クラリスは隣に座る夫、ベルーナル伯爵と視線を交わした。
伯爵は、妻の強気な性格を穏やかに包み込むような、温和で知的な顔立ちの男だった。彼は妻の意図を汲み取り、ゆっくりと頷く。
クラリスは小さく息をつき、柔らかな笑みを浮かべた。
「……本当に、見違えたわね。馬鹿な男だと思っていたけれど、どうやら見込み違いだったみたい」
「夫人?」
「商会の情報網を使って探し出すことはしない。でも……彼女である確証は無いけれど、気になる話なら教えてあげられるわ」
クラリスが隣の夫へ視線を向けると、ベルーナル伯爵は静かな口調で話し始めた。
「最近、北部の辺境の町から、見事な刺繍を刺した織物が私達の所にも流れて来ます。草花をあしらった非常に繊細で美しいもので、王都の貴族が好むような洗練された意匠が施されているのです」
(刺繍……)
ギルベルトの脳裏に、かつての上官宿舎で、破れた騎士たちの制服を完璧に繕っていたエレオノーラの姿が鮮明に蘇った。
彼女の指先から生み出される手仕事は、ただの修繕の域を超え、常に気品と丁寧さが宿っていた。元侯爵夫人としての高い教養と、戦時中を生き抜いた確かな生活能力。その両方を持つ彼女ならば、見事な刺繍を施すことなど造作もないはずだ。
伯爵の言葉を引き継ぐように、クラリスが目を細めて言った。
「刺繍なんて、平民はあまりしないわ。日々の生活に追われる辺境の村や町なら、なおさらのこと。あれほど高度な絹糸の扱いと洗練された図案を思いつくのは、よほど教養のある……例えば、高位の貴族として教育を受けた女性くらいのものよ」
それは、確信に満ちた商人としての見立てだった。
北部の辺境。厳しい寒さと自然に囲まれたその地に、彼女は身を寄せているのかもしれない。
「北部、か……」
ギルベルトは自らの膝の上で、大きな拳を固く握りしめた。
広大な北部のどこにいるのか、はっきりとした町の名も分からない。雲を掴むような話かもしれない。だが、これまで完全に見失っていた暗闇の中に、微かな、しかし確かな一筋の光が差し込んだのだ。
「クラリス夫人、ベルーナル伯爵。……この恩は、一生忘れない」
ギルベルトは立ち上がると、バルツァー王国最強の騎士団長としての矜持も、公爵家嫡男としてのプライドもすべて投げ捨て、ただ一人の男として、二人の前に深く、深く頭を下げた。
◆◆◆◆◆
エレオノーラが暮らす辺境の町にも長く厳しい冬が終わりを告げ、ようやくうららかな春の兆しが見え始めていた。
屋根に積もった雪は溶けて軒先から滴り落ち、石畳の隙間からは生命力に溢れた青草が顔を覗かせている。冷たく吹き荒れていた風は柔らかさを帯び、中庭の陽だまりには穏やかな温もりが満ちていた。
共同住居の一角、日当たりの良い窓辺に腰を下ろし、エレオノーラは静かに針を進めていた。
身分を隠すために透き通るような小麦色に染められた髪は、作業の邪魔にならないよう実用的に後ろで一つにまとめられている。身に纏っているのは、王宮での使用人服よりもさらに簡素な、村の女たちが着るありふれた綿の平服だ。しかし、背筋をすっと伸ばして座るその洗練された姿勢や、糸を引く指先のしなやかな所作には、隠しきれない気品が漂っていた。
真っ白な布地に、色鮮やかな絹糸で花々が咲き乱れていく。
王都の商会で高く買い取られるこの見事な刺繍こそが、現在の彼女の生活を支える糧だった。誰に強いられるでもなく、己の腕一つで稼ぐそのささやかで確かな営みが、今のエレオノーラにとって何よりの誇りであった。
「エルさん、こんにちは。入るよ」
控えめなノックの音と共に、木の扉がギイと音を立てて開いた。
顔を出したのは、隣町から月に一度、この辺境の町まで巡回に来てくれる白髭の老医師だった。
「いらっしゃいませ、先生。遠いところを毎月ありがとうございます」
エレオノーラは縫いかけの布を籠に置き、ふわりと微笑んで立ち上がった。意志の強さを感じさせる深い海のような青い瞳が、今は春の陽射しのように柔らかく細められている。
「いやいや、春になって道も歩きやすくなったからね。さて、今日の体調はどうかな」
老医師は手慣れた様子で部屋の椅子に腰掛け、エレオノーラの脈を診て、少しずつふくらみ始めた彼女の腹部にそっと触れた。
診察の間、部屋の中には柱時計の静かな音だけが響く。やがて、老医師は満足そうに何度も頷き、優しい笑みを浮かべた。
「うん、素晴らしい。脈も力強いし、お腹の子もとても順調に育っている。極度の栄養失調だったと聞いて最初は心配したが、今の君はとても健康的な顔色をしているよ。このまま順調にいけば、木の葉が色付く秋頃には元気な赤ん坊が生まれるだろう」
「……秋頃、ですね」
エレオノーラは自身のお腹を両手で包み込むようにして撫でた。
まだ胎動をはっきりと感じるわけではないが、自分の中に確かに宿っている小さな命の温もりが、手のひらを通して伝わってくるような気がした。
「初産で不安も多いだろう。だが、ここに暮らす女性たちも出産経験のあるものは多いし、皆がお腹の子の誕生を心待ちにしている。いざとなれば皆が助けてくれるから、一人で抱え込まないことだ」
「ありがとうございます、先生。ここの皆さまには、本当に助けていただいてばかりで……とても心強いです」
老医師を見送り、再び一人になった部屋で、エレオノーラは温かいハーブティーを淹れて窓辺に戻った。
湯気越しに、中庭で住人の子供たちが元気に駆け回るのどかな風景を見つめる。
(侯爵夫人だった頃にも、こんなに穏やかな時間はなかったかもしれないわね……)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
ロランディア王国の侯爵夫人として過ごした日々は、常に社交界のしがらみと、家門の体面を保つための重圧に満ちていた。贅を尽くした美しいドレスを着て、豪奢な邸宅に住んではいたが、心から安らげる時間は少なかったように思う。
やがて戦争が始まり、物資不足に喘ぐ領民たちを守るために奔走し、夫の死という悲報に打ちのめされた。敗戦後は戦利品として敵国へ引き立てられ、人間の尊厳を奪われるような王宮での使用人生活が始まった。
そして、あの不器用で、狂気的なまでに自分を求めてきた孤独な騎士団長の存在。
彼から逃れ、身一つでこの北の果てまで辿り着いた。すべてを失い、行き着いた先であるこの質素な共同住宅での暮らしが、これまでのどの時代よりも穏やかで、満ち足りているという事実に、エレオノーラは不思議な感慨を覚えていた。
「大丈夫よ。あなたには、私がいるから」
お腹の子供に向かって、そっと語りかける。
父親であるギルベルトの輝かしい未来を奪わないためにも、彼女は二度と彼に会うつもりはなかった。どれほど過酷だろうと、平民として一人でこの子を育て上げると決めたのだ。
過酷な運命に翻弄され続けてきた彼女だが、その魂の奥底にある芯の強さは決して折れてはいない。
エレオノーラは静かに目を閉じ、春の風の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、再び美しい花を咲かせるべく針を手にとった。
穏やかな春の日差しに包まれた共同住宅の昼下がり。
昼食の片付けを終えたエレオノーラは、共有の居間でマルトが淹れてくれた薬草茶を飲みながら、ひとときの休息をとっていた。手元には新しく取り掛かった赤ん坊のための小さな産着があり、少しずつ丁寧に縫い目を進めている。
「ただいまー! いやあ、今日は町の中央通りが妙に騒がしかったよ」
勢いよく木の扉が開かれ、町へ買い出しに行っていたセリアが大きな籠を抱えて帰ってきた。彼女の元気な声に、居間にいた数人の住人たちが顔をほころばせる。
「おかえりなさい、セリアさん。お疲れ様でした」
エレオノーラが微笑んで出迎えると、セリアは「ふぅ」と息を吐きながら籠をテーブルに置き、空いていた椅子にどっかりと腰を下ろした。
「エル、頼まれてた刺繍の納品、ちゃんと済ませてきたからね。商会のおかみさん、今回もすごく喜んでてさ、またすぐ次の注文をお願いしたいって言ってたよ」
「ありがとうございます。これでまた、皆で美味しいパンが買えますね」
安堵の笑みを浮かべるエレオノーラだったが、セリアは少しだけ声をひそめ、どこか訝しむような表情で身を乗り出してきた。
「それがさ、ちょっと気味が悪いっていうか……。さっき商会に行ったらさ、何かお貴族様みたいな男性がさ、人を探してるっておかみさんに聞いてたよ」
「……え?」
エレオノーラの心臓が、ドクリと嫌な音を立てて跳ねた。
持っていた針先が指に触れそうになり、慌てて手を止める。
「お貴族様……ですか?」
「そう。身なりは立派なんだけど、この辺りじゃ見かけないような上等な黒い服を着ててさ。背がすごく高くて、なんだか近寄りがたいっていうか……目がとっても冷たくて鋭い人だった。連れの男も一人いたかな」
「…………!」
背が高く、冷たく鋭い目をした黒衣の男。
その特徴を聞いた瞬間、エレオノーラの脳裏に、漆黒の髪と銀灰色の瞳を持つギルベルトの姿が鮮烈にフラッシュバックした。
(嘘……。どうして、こんな辺境まで……)
血の気が引き、手足の先から急速に温度が奪われていくのがわかる。
彼から逃れ、身分を偽り、髪を小麦色に染めてまで手に入れたこの穏やかな生活。誰にも見つかるはずがないと思っていた。だが、もしあの執着と独占欲に満ちた彼が、あらゆる手段を使ってここまで追ってきたのだとしたら。
「……どんな人を、探していたか聞こえましたか?」
震えそうになる声を必死に押し殺し、エレオノーラは努めて平静を装って尋ねた。
「いや、詳しいことまでは聞こえなかったけど……。でも、おかみさんは『そんな女はこの町にはいないねぇ』って誤魔化してたみたいよ」
セリアはエレオノーラの強張った表情を、単なる「余所者への不安」だと受け取ったのか、安心させるように明るく言葉を継いだ。
「ま、ここはワケありの女の子ばっかりが集まってるからさ、おかみさんも絶対口を割らないよ」
セリアはそう言うが、エレオノーラの不安は拭えない。
確かに、この修道院跡の共同住宅には様々な事情を抱えた女性たちが身を寄せている。商会のおかみさんもそれを承知で、深く詮索せずに彼女たちを受け入れ、庇ってくれているのだ。
だが、相手がギルベルト・フォン・シュバルツバルトであったなら話は別だ。彼が持つ莫大な財力や、目的のためなら手段を選ばない異常なまでの執着心を、エレオノーラは身をもって知っている。彼が本気になれば、辺境の商会など容易く屈服させられてしまうだろう。
(彼が私を見つけたら、どうなる?)
輝かしい未来を持つ彼を拒絶し、勝手に姿を消したのだ。あの強烈な情熱が憎悪に変わっていてもおかしくはない。あるいは、力ずくで再びあの息の詰まるような私室へと連れ戻されるのか。もし連れ戻されれば、彼との間にできたこの子は、彼の経歴に致命的な傷をつけてしまう。
(逃げなければ……でも、身重の体で、これ以上どこへ……?)
エレオノーラは無意識のうちに、ふくらみ始めたお腹を両手で強く抱きしめていた。
せっかく見つけた安住の地。温かな人々。だが、ここに留まれば、やがて彼に見つかるのは時間の問題かもしれない。
「エル? 本当にどうしたの、顔色が真っ青だよ。やっぱり具合が悪いんじゃない?」
心配そうに顔を覗き込んでくるセリアに対し、エレオノーラは引きつりそうになる頬を必死に緩め、ぎこちなく首を振った。
「……いえ、なんでもありません。少し、立ち眩みがしただけで……。少し横になりますね」
春の暖かな陽光が差し込む居間が、急に薄暗く、ひどく冷たい場所のように感じられた。平和な日常という薄氷が今、足元でピシリと音を立ててひび割れていくのを、彼女は逃れようのない恐怖と共に感じ取っていた。
◆◆◆◆◆
カラン、と軽やかなベルの音を背後に響かせ、ギルベルトは深く息を吐きながら、商会の分厚い木の扉を後ろ手に閉めた。
春の陽気に包まれた異国の辺境の町は、バルツァー王都の洗練された街並みとは違う、土と生活の匂いが色濃く漂う活気に満ちていた。行き交う人々は、上等な黒衣に身を包んだ長身のギルベルトたちを物珍しそうに遠巻きに眺めては、足早に通り過ぎていく。
「……やっぱり、違うんでしょうか?」
周囲の視線を軽く受け流しながら、ギルベルトに同行しているクラウスが静かに問いかけた。その緑色の瞳には、徒労に終わった聞き込みへの僅かな疲労が見え隠れしている。
「……まあ、知っていても教えてはくれないだろう事は予想していた」
ギルベルトは苛立ちを噛み殺すように、低く落ち着いた声で返した。
先ほど応対に出た商会のおかみは、人好きのする笑顔を貼り付けたまま、「そのような見事な刺繍をする女はこの町にはいない」と頑なに言い張った。かつてのギルベルトであれば、相手の胸倉を掴んででも、あるいはバルツァー王国の権力を笠に着てでも情報を吐き出させていたかもしれない。だが、今の彼はクラウスの言葉通り「信用」の重さを痛感している。無理強いをして商会を荒らせば、彼女をさらに怯えさせ、遠くへ逃がしてしまうだけだと分かっていた。
「ベルーナル伯爵家絡みの商会はそうでしょうね」
クラウスは肩をすくめ、商会の看板を見上げた。
「確固たる商会の情報網を持っているが、決して他人には漏らさない。それがベルーナル伯爵家の統括する商会だ。姉上が直々に口止めしているのか、それとも現場の商人としての矜持か……いずれにせよ、これ以上あの店で強引に聞き出そうとするのは得策ではありませんね」
「ああ。それに、これだけ頑なに隠そうとするということは、裏を返せば『何かを庇っている』証拠でもある。……俺の勘だが、彼女はこの町のどこかにいるはずだ」
ギルベルトの銀灰色の瞳が、入り組んだ路地の奥を鋭く見据える。だが、クラウスは冷静に現実を突きつけた。
「団長、ここの国民でない私たちの滞在日数は限られています。市場で聞き込みなんてしている時間なんてありませんよ?」
クラウスの指摘に、ギルベルトはぐっと奥歯を噛み締めた。
バルツァー王国の人間である彼らが、身分を伏せたまま正規の許可証だけで異国に滞在できる期間は決して長くない。公爵家を出る覚悟を決めたとはいえ、正式な手続きを終える前の今の状態では、あまり長く王都を空けることもできなかった。
虱潰しに町中を探し回る猶予は、彼らには残されていないのだ。
「分かっている。……だが、決して手ぶらで帰るつもりはない」
ギルベルトは冷たい風に漆黒の髪を揺らしながら、再び商会の扉を振り返った。
「彼女があの商会に刺繍を納めているのなら、必ずまた接触するはずだ。あるいは、あれほど見事な絹糸を扱う場所は、この辺境では限られている」
時間がない中で、焦りに呑まれることなく次の一手を思考する。その横顔は、力でねじ伏せることしか知らなかった傲慢な騎士団長ではなく、愛する女を何としてでも探し出そうとする一人の不屈の男の顔になっていた。
商会を後にしたギルベルトとクラウスは、一先ず町を一回りしてみることにした。
市場に行けば、彼女に繋がる何らかの足掛かりが得られるかもしれないと考えてのことだった。
中央通りの市場は、辺境の小さな町とはいえ、多くの人々が行き交い活気に満ちていた。色とりどりの野菜や果物、日用雑貨を並べた露店が所狭しと軒を連ね、異国特有の香辛料の匂いと商人たちの威勢の良い呼び込みの声が、あちこちから響き渡っている。
「ここで人を探すのは大変そうですよ?」
クラウスは、目の前を流れる雑多な人混みに目をやりながら、少しだけ眉を下げて呟いた。滞在日数の制限がある中で、この人海戦術はあまりにも分が悪い。
「ああ。だが、彼女自身が表を出歩いていなくとも、必ずどこかに痕跡はあるはずだ。あれほどの腕前を持つ刺繍だ、使う糸や布もそれなりの質のものを選ぶに違いない」
ギルベルトは足を止めることなく、鋭い銀灰色の瞳で通りに立ち並ぶ店を一つ一つ品定めするように見回していく。焦る気持ちを冷たい理性で押さえ込みながら、周囲のあらゆる音と視覚情報に神経を研ぎ澄ませていた。
暫く中央通りを歩いていると、一軒の小綺麗な裁縫店の前を通りかかった。
その時、カランと軽快なベルの音を鳴らして、店の中から一人の女性が出てくる。
「また良い生地と刺繍糸が入ったら教えて! 本当に魔法みたいなんだから」
店員に向けて明るく笑いかけながらそう言ったのは、くすんだ焦茶色の髪をした若い女性——リザだった。彼女の腕には、購入したばかりの柔らかな布地や色鮮やかな糸が詰まった籠が、大事そうに抱えられている。
喧騒の中でも、ギルベルトの耳は『刺繍糸』と『魔法みたい』という言葉を絶対に逃さなかった。
ピタリと足を止め、軽やかな足取りで歩き出したリザの背中に鋭い視線を向ける。
「団長……今のは」
クラウスもまた、同じ言葉に反応して声を潜めた。
(魔法のような、刺繍……)
暗闇の中で手探りを続けていた彼らの前に、不意に、細くとも確かな糸が垂らされた瞬間だった。
ギルベルトは無言のまま短く頷くと、人混みに紛れていくリザの焦茶色の髪を見失わないよう、静かに、だが決して逃がさないという確実な足取りでその後を追い始めた。
足取り軽く人混みを進むリザを、ギルベルトとクラウスは一定の距離を保ちながら追った。
リザの歩みは迷いがなく、雑多な市場の人波を縫うようにして軽快に進んでいく。バルツァー王都の洗練された区画とは異なる、入り組んだ辺境の町の造りに僅かに戸惑いながらも、二人は決してその焦茶色の髪を見失うことなく背後をついていった。
上等な黒衣を纏った長身の男二人が尾行するのは、本来であれば悪目立ちして仕方がない。それでも彼らが比較的群衆に紛れ込めていたのは、長年騎士として培ってきた気配を殺す歩法ゆえだった。
しかし、ふと中央通りを抜けた先で足を止めるリザ。
市場の喧騒がふっと遠のき、静かな住宅街へと続く石畳の路地に入った直後のことだった。彼女は手にした裁縫道具の入った籠を抱え直すと、不自然なほど唐突に動きを止めたのだ。
「アンタたち、何?」
リザは振り向かずに言う。
その声には、怯えよりも、見知らぬ不審者に対する明確な警戒心と強い棘が滲んでいた。
「私に何か用?」
冷ややかな問いかけが、春の路地に響き渡る。
まさかこれほど早く気付かれるとは思っていなかったクラウスが、僅かに目を瞠った。ただの町娘にしては、背後の気配に対する勘が鋭すぎる。この異国の辺境で生き抜くための知恵なのか、それとも彼女自身が何か深い事情を抱えているゆえの警戒心か。
ギルベルトは静かに足を止め、リザとの間に数歩の距離を置いたまま留まった。
「……驚かせてすまない。怪しい者だが、決して危害を加えるつもりはない」
かつての彼であれば、相手が振り向く前に強引に肩を掴み、問答無用で情報を引き出していただろう。だが、今のギルベルトの立ち姿には、相手を威圧するような暴力的な覇気は一切なかった。ただひたすらに低く、落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。
「先ほどの裁縫店で、あなたが『魔法のような刺繍』と言っているのが聞こえた。無礼を承知で頼む。……その刺繍を刺した人物について、少しでも心当たりがあるのなら教えてくれないか」
ギルベルトはゆっくりと頭を下げた。公爵家の跡継ぎとして、あるいは騎士団長としてではなく、ただ一人の女性を探し求める男としての誠意だった。
「俺は、どうしてもその人に会わなければならないんだ」
背を向けたままのリザの肩が、ギルベルトの切実な声を聞いて微かにピクリと動いた。
ギルベルトの切実な声と、深く下げられた頭。
その異様な光景に、路地裏には微かな風の音だけが流れた。
上等な衣服を身に纏い、どう見ても高位の貴族であるはずの男が、見ず知らずの異国の町娘に対して一切の躊躇なく頭を下げているのだ。
「その人に会ってどうするつもり?」
リザはゆっくりと振り返る。
その目は鋭く二人を射抜く。
「その前に、アンタたち何者?」
警戒心を露わにしたリザの問いに、ギルベルトは静かに顔を上げた。
誤魔化しは通用しない。この娘は、真っ直ぐに自分たちの本質を見極めようとしている。
(ここで「バルツァー王国の騎士団長だ」などと名乗れば、彼女は間違いなく口を閉ざし、逃げ出すだろう)
ギルベルトは、ありのままの事実を、嘘偽りなく口にすることを選んだ。
「……俺は、彼女を深く傷つけ、追い詰めてしまった愚か者だ」
その言葉に、リザの眉が微かにピクリと動いた。
「俺は己の傲慢さゆえに、彼女の誇りを踏みにじり、彼女がどれほど苦しんでいるかを見ようともしなかった。彼女が俺の前から姿を消して初めて、自分がどれほど取り返しのつかない過ちを犯したのかを思い知ったのだ。……謝罪したい。そして、もし許されるのなら、これからの生涯をかけて彼女と、彼女のお腹にいる子供を守り抜きたい」
「子供……」
リザが小さく息を呑んだ。
その反応で、ギルベルトとクラウスは確信した。探している女性が間違いなくこの町に、それもこの娘のすぐ身近にいるということを。
「アンタ……まさか、エルのお腹の……」
思わず口走ってしまったリザは、ハッとして口元を押さえた。しかし、もう遅かった。
「エル」という偽名。だが、子供を身ごもっているという決定的な事実が見事に一致している。
「名は、ギルベルトと言う。俺は彼女を探し出すために、故郷での身分も、地位も、すべてを捨てるつもりでここへ来た。ただの一人の男として、彼女に会いたい」
ギルベルトの銀灰色の瞳には、一切の淀みがなかった。
狂気的な執着でも、権力者の傲慢でもない。ただ純粋に一人の女性を愛し、その愛のためにすべてを投げ打つ男の、痛切なまでの覚悟がそこにはあった。
リザは値踏みするようにギルベルトをじっと見つめ、やがてふうっと大きなため息をついた。
「……身分も地位も捨てるつもりだって? 馬鹿じゃないの。お貴族様がそんな簡単にすべてを捨てられるわけないじゃない」
口調は相変わらず棘があったが、彼女の瞳から先ほどの刺すような警戒心は少しだけ和らいでいた。
(この男、嘘は言ってないみたいね……。それに、エルのあの悲しそうな顔の理由、この男のせいだったんだ)
共同住宅で「エル」として暮らすエレオノーラは、いつも穏やかに微笑んでいるが、ふとした瞬間にひどく寂しそうな、遠くを見るような目をすることがあった。そして、お腹の子供の父親については、誰に聞かれても決して口を割ろうとはしなかったのだ。
「いいこと、ギルベルトとか言ったわね。私はアンタを信用したわけじゃない。でも……」
リザは腕を組み、真っ直ぐにギルベルトを見据えた。
「エルは今、大事な時期なの。もしアンタが会って、あの子が少しでも怯えたり、泣いたりしたら……私がアンタを町中の衛兵に突き出してやるからね。身分を捨てる覚悟があるっていうなら、それくらいできてるんでしょうね?」
「ああ。彼女が俺を拒絶するなら、大人しく引き下がる。絶対に無理強いはしないと誓おう」
即答したギルベルトの態度に、リザはもう一度ため息をつき、「ついてきなさい」と顎で促した。
二人のやり取りを背後で見守っていたクラウスは、密かに胸を撫で下ろした。
(……団長、本当に変わられましたね。以前のあなたなら、この娘を脅してでも居場所を吐かせていたでしょうに)
春の柔らかな日差しが差し込む路地裏を、三人の影が連なって歩き出す。
長く苦しいすれ違いの果てに、ギルベルトはようやく、愛する女性の元へと続く最後の扉に手をかけようとしていた。
入り組んだ石畳の路地を抜け、町外れの静かな区画へと足を踏み入れた先。
そこにひっそりと建っていたのは、古い修道院跡を改築したと思われる、質素だが手入れの行き届いた石造りの大きな建物だった。高い塀で囲まれてはいるが、門扉の奥からは微かに、穏やかな生活の気配と弾むような子供たちの笑い声が漏れ聞こえてくる。
共同住宅の玄関前まで来ると、リザはピタリと足を止め、振り返って二人を鋭く制止した。
「エルに話をして来るから、ここで待ってなさいよ」
リザは腕に抱えた裁縫道具の籠をギュッと抱え込み、ギルベルトの長身を見上げながら、念を押すように強く言った。
「絶対押し入ったり、騒ぎ立てたりしないで。ここは色んな事情を抱えた子ばかりが居るんだから。少しでも妙な真似をしたら、アンタがどんな身分だろうと本当に衛兵を呼ぶからね」
この共同住宅が、過去を捨てて懸命に生きようとする女性たちにとっての、不可侵の聖域であることを物語る厳しい言葉だった。
「……約束しよう。一歩たりとも、この場所からは動かない」
ギルベルトは一切の反論をせず、ただ深く頷いた。
かつての彼であれば、愛する女が目の前の扉の奥にいると分かった瞬間、理性を吹き飛ばして強引に踏み込んでいただろう。だが、今の彼は微動だにせず、ただ静かにリザの言葉に従い、玄関前の石畳に根を張ったように立ち尽くしている。
その真摯な態度に、リザは小さく鼻を鳴らした。
「……そっちのひょろいアンタもよ」
クラウスに向けてそう言い残すと、リザは重厚な木の扉を開け、足早に建物の中へと消えていった。
バタン、と鈍い音を立てて扉が閉ざされる。
春の柔らかな風が、ギルベルトの漆黒の髪を揺らした。
建物の外に取り残された二人の間には、張り詰めたような静寂が降り降りている。門の向こうからは相変わらず平和な生活の音が聞こえてくるが、ギルベルトの耳には今、自身の早鐘のように打ち鳴らされる激しい心臓の音しか届いていなかった。
(エレオノーラ。お前は今、この扉の向こう側にいるのだな)
彼女を探し求め、権力を捨て、異国の地まで足を運んだ。
狂おしいほどの執着を抱え、それでもなお彼女の意志を尊重しようと必死に己の理性を繋ぎ止めている。もし、リザが戻ってきて「会いたくない」と拒絶の言葉を伝えられたら、自分は果たしてそれに耐えられるだろうか。
手酷く傷つけた彼女が、自分を許すはずがない。拒絶されるのが当然なのだ。それでも、ただ一目でもいいから、彼女が無事である姿をこの目に焼き付けたかった。
ギルベルトは無意識に自身の両手を見つめた。
剣を握り、敵を斬り伏せ、そして愛する女を力ずくで押さえつけた、大きく無骨な手。この手で、今度こそ彼女を正しく包み込むことができるだろうか。
「……ひどく緊張されているようですね、団長」
隣で静かに見守っていたクラウスが、少しだけ空気を和らげるように声をかけた。
「……俺は、戦場に出る時ですら、これほど恐ろしいと思ったことはない」
ギルベルトは自嘲気味に口の端を歪め、深く、長く息を吐き出した。
「彼女に拒絶されることが、これほどまでに恐ろしいとはな。……だが、どれほど恐ろしくとも、俺はあの扉が開くのを待つしかない。それが、彼女の尊厳を奪った俺にできる、唯一の誠意なのだから」
クラウスはそれ以上何も言わず、ただ静かに主君の決意を見届けた。
春の陽光が降り注ぐ修道院跡の門前で、バルツァー王国最強の剣と謳われた男は、一人の女性からの審判を、ただひたすらに、祈るような思いで待ち続けていた。
重厚な木の扉を背手に閉め、共同住宅の中へと戻ったリザは、真っ直ぐに厨房へと向かった。そこでは、共同住宅のまとめ役である年配の女性マルトが、夕食の仕込みのために野菜を刻んでいるところだった。
「マルトさん、ちょっといい?」
リザは声をひそめ、外で起きている異常事態について手短に説明した。
上等な身なりをしたバルツァーの貴族が二人、外で待っていること。そのうちの一人がギルベルトと名乗り、身分を捨てて「エル」を探しに来たこと。そして、彼がエルの腹にいる子供の父親であること。
「……なるほどね。さっきセリアが言っていた人探しの男は、その人のことだったんだね」
マルトは包丁を置き、深いしわの刻まれた顔を険しくした。
「エルの過去に何があったかは深く聞かない約束だけど……その男の目は、どうだったんだい? 復讐や、力ずくで連れ戻そうとするような、そんな恐ろしい目だったかい?」
「ううん……」
リザは首を横に振った。
「見た目は近寄りがたいくらい怖かったけど……本当に、ただの一人の男として謝りたいって。一切無理強いはしないって、私に頭を下げたわ。嘘をついているようには見えなかった」
「そうか……。なら、決めるのはエル自身だね」
マルトに背中を押され、リザはエレオノーラの自室へと向かった。
コンコン、と控えめに扉を叩くと、「はい」という微かに震える声が聞こえ、リザは静かに部屋へ入った。
エレオノーラはベッドの端に腰掛け、両手でお腹を庇うようにしてうつむいていた。先ほど居間で立ち眩みがしたと言っていた時から、顔色は青白いままだ。
「エル。少し、落ち着いて聞いてね」
リザはエレオノーラの隣に座り、その冷え切った手を両手でそっと包み込んだ。
「外に、男の人が二人来てる。一人は背が高くて、黒い髪の……ギルベルトって名乗る人。アンタに謝りたいって、外で待ってるわ」
「っ……!」
エレオノーラの肩が大きく跳ねた。包まれた手から、嫌な汗が滲み出してくるのがわかる。
(見つかった……。本当に、彼がここまで……)
呼吸が浅くなり、視界がぐらりと揺れる。あの息の詰まるような王宮の私室、彼に力ずくで組み敷かれた夜の記憶、そして彼が放っていた狂気的なまでの熱情がフラッシュバックする。
だが、リザの口から続いた言葉は、エレオノーラの予想を完全に裏切るものだった。
「あの男、アンタを探し出すために、故郷での身分も地位も、すべてを捨てる覚悟でここへ来たって言ってた。ただの一人の男として、アンタに会いたいって」
エレオノーラは弾かれたように顔を上げた。深い青の瞳が見開かれ、激しい困惑が渦巻いている。
(ギルベルトが、身分を捨てる……?)
信じられなかった。彼は公爵家の唯一の跡継ぎであり、王国最強の騎士団長だ。自らの責務に誰よりも実直で、一族の重圧をその双肩に背負い続けてきた彼が、地位を捨てるなどあり得ないはずだった。
彼がどれほど自分に執着していたかは知っている。だが、それはあくまで「安全な鳥籠」の中に自分を閉じ込めておくための、権力に裏打ちされた傲慢な愛だったはずだ。
「……もし会いたくないなら、私が追い払ってくる。衛兵を呼んだっていい。あの男も、アンタが拒絶するなら大人しく引き下がるって約束したから」
リザは真剣な眼差しでそう言ってくれた。
その温かい言葉に、エレオノーラはハッと我に返った。
(私がここで逃げ隠れすれば、リザやマルトさんたちに彼を追い払わせることになる。もし彼が約束を破って暴挙に出たら、ここの皆を危険に晒してしまう……)
ギルベルトが本当に権力を手放したのかどうか、今は分からない。だが、自分を受け入れ、穏やかな生活を与えてくれたこの温かい共同住宅の人々に、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。厄介事を持ち込んだのは自分なのだ。ならば、自分の足で立ち向かい、決着をつけなければならない。
かつてロランディアの侯爵夫人として、過酷な運命に決して屈することのなかった誇り高き矜持が、再び彼女の背筋をすっと伸ばさせた。
「……ありがとう、リザ。でも、大丈夫よ」
エレオノーラは震える手をぎゅっと握り締め、ゆっくりと立ち上がった。その顔からは先ほどの青ざめた怯えは消え、静かな覚悟が宿っていた。
「私が、彼に会います。……ここの皆さんに、これ以上ご迷惑は掛けられないわ」
逃げるのは、もう終わりにしよう。
エレオノーラは小さく深呼吸をすると、過去のすべてと向き合うため、扉へ向かって静かに歩み出した。
共同住宅の重厚な木の扉が、内側から静かに開かれた。
石畳の上で彫像のように立ち尽くしていたギルベルトは、その音に弾かれたように視線を向け、息を止めた。扉の向こうから現れたのは、彼が狂おしいほどに探し求めていた女性、エレオノーラその人だった。
春の柔らかな陽光を浴びて、彼女の姿が眩しく浮かび上がる。
かつての透き通るような銀糸の髪は、素朴な小麦色に染められ、後ろで簡素にまとめられている。身に纏っているのは質素な麻の平服だが、その立ち姿に宿る気品と、ふくらみ始めたお腹を慈しむように添えられた手は、何よりも気高く見えた。
「……お久しぶりですね、ギルベルト様」
その凛とした声を聞いた瞬間、ギルベルトはあふれ出す感情を抑えきれず、その場に膝をついた。それは騎士としての礼ではなく、一人の男としての、魂からの謝罪だった。
「……すまなかった。俺の傲慢さが、お前をどれほど傷つけ、追い詰めたか……。許してくれとは言わない。ただ、生きていてくれたことに、心から感謝したい」
エレオノーラは、自分を「戦利品」としてではなく、一人の女性として敬うギルベルトの姿に、目を見開いた。以前の彼なら、迷わず彼女の腕を掴み、強引に連れ戻していただろう。だが、今の彼は、彼女の許しがなければ一歩も近づかないという沈黙の誓いを立てているようだった。
「顔を上げてください、ギルベルト様」
エレオノーラの静かな言葉に、ギルベルトはゆっくりと顔を上げた。二人の視線が交差する。そこでエレオノーラは、胸の奥に澱のように溜まっていた「不安」を、震える声で吐露し始めた。
「私は……あなたの汚点には…なりたくないのです」
ぽつりと漏れたその言葉に、ギルベルトは息を呑んだ。
「夫を戦争で亡くした時から、私はずっと、失うことが怖かった。そして今の私は、敗戦国の没落した未亡人に過ぎません。そんな私が公爵家の跡継ぎであるあなたの隣に立てば、人々はあなたを嘲笑い、あなたの輝かしい名誉を汚してしまう。……私は、あなたを愛してしまった。愛しているからこそ、あなたの人生に消えない泥を塗りたくないのです」
涙を流しながら、自分を否定し続けるエレオノーラ。
かつて侯爵夫人として家門の重責を担っていた彼女だからこそ、自分がギルベルトにとってどれほど「不釣り合いな重荷」であるかを考え、自らを責め続けてきたのだ。
「お願いです、ギルベルト様……。私を、あなたの汚点にしないで……」
泣き崩れそうになるエレオノーラの元へ、ギルベルトは静かに歩み寄った。そして、壊れ物を扱うかのような慎重さで、彼女をその広い胸の中に抱き寄せた。
「……自分を汚点だなどと、二度と言わないでくれ。エレオノーラ」
頭上から降ってくるギルベルトの声は、どこまでも温かく、そして揺るぎない確信に満ちていた。
「お前が俺の隣にいてくれること……それがどれほど誇らしく、俺の人生を輝かせるか。それを決めるのは、世間でも家門でもない。俺自身だ」
ギルベルトは彼女の肩を優しく掴み、その目を真っ直ぐに見つめた。
「……エレオノーラが家門の汚点になるというのなら、俺はすべてを捨てる。俺はお前以外には何もいらない。だから、もう自分を責めないでくれ」
彼は彼女の頬を伝う涙を指先で拭い、祈るような微笑みを浮かべた。
「お前は俺の汚点なんかじゃない。……暗闇にいた俺を導いてくれた、唯一の光なんだ。エレオノーラ、頼む。俺と共に王都へ帰り、俺の家族になってほしい。今度こそ、お前の誇りと幸せを、俺の生涯をかけて守り抜かせてくれ」
その熱を帯びた、そして彼女の存在そのものを唯一無二の価値として認める言葉に、エレオノーラの心の中で凍てついていた自責の念が、春の雪解けのように溶け去っていった。
エレオノーラはギルベルトの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
長く、あまりにも遠回りをし、傷つけ合ってきた二人の心が、異国の辺境の地で、今ようやく一つに溶け合った瞬間であった。




