第四章
重厚なマホガニーの扉が鈍い音を立てて閉ざされ、ギルベルトの放っていた凄絶な覇気が消え去った後も、シュバルツバルト公爵邸の応接室には、凍てつくような沈黙が支配していた。
公爵家当主、ヴィルヘルム・フォン・シュバルツバルトは、砕け散ったティーカップの破片を冷ややかに見下ろし、深く椅子に身を沈めた。銀灰色の瞳には、実の息子から向けられた「刃」への憤怒と、計算外の事態に対する戸惑いが混在している。
「……影の者よ、おるか」
低く、地を這うような声。それに応じるように、部屋の隅の影が揺れ、黒装束の男が音もなく片膝をついた。公爵家が長年飼い慣らしている、汚れ仕事を担う私兵である。
「直ちに国境へ向かえ。ギルベルトが執着しているロランディアの女を……エレオノーラ・ローゼンタールを見つけ出し、速やかに始末しろ。腹の子ごと、この世から消すのだ」
「御意」
影が消えようとした、その瞬間だった。
「お待ちください」
それまで沈黙を守っていた公爵夫人、アーデルハイトが静かに、しかし断固とした拒絶を込めて立ち上がった。憂いを帯びた薄水色の瞳が、初めて夫であるヴィルヘルムを真っ向から射抜く。
「……何の真似だ、アーデルハイト。これは家門の純血を守るための処置だ。お前のような女が口を挟む領域ではない」
「いいえ、いいえ。これは私自身の、そしてあの子の母親としての戦いですわ」
アーデルハイトは洗練された貴婦人としての優雅な所作を崩さぬまま、影の男に向かって鋭く手をかざした。
「今すぐ下がりなさい。もしその女に、いいえ、ギルベルトが『愛した人』に指一本でも触れるというのなら……私は、あの子と共に、この家を刺し違えてでも滅ぼす覚悟です」
ヴィルヘルムの眉が大きく跳ねた。従順であったはずの妻が、ここまで激しい言葉を口にすることなど、結婚以来一度もなかったことだ。
「……狂ったか。お前はその女に会ったこともないのだぞ。正体も知れぬ、敗戦国の女のために、我が家を壊すというのか」
「あの子があれほどまでに、一人の女性を求めているのです。……旦那様、あの子はこれまで、あなたが用意した名門との縁談をすべて切り捨て、ただ家門の駒として、感情を殺して生きてきました。そんなあの子が、地位も名誉も捨てて守りたいと叫んだ相手です。会わずとも分かりますわ……その方は、あの子に『心』を与えてくださった方なのだと」
アーデルハイトは扇を握りしめ、夫を一瞥した。
「もし私兵を動かすのであれば、私は即刻、実家の侯爵家を頼り、貴族院へ旦那様の『戦時中の不正』を告発いたします。……これは脅しではありません。あの子の未来を奪うのであれば、私はこの家のすべてを道連れにします」
ヴィルヘルムは舌打ちをし、忌々しげに顔を歪めた。妻が握っている「秘密」は、確かに今の公爵家にとって致命傷になりかねない。
「……好きにしろ。だがな、アーデルハイト。私は認めん。そのような女が、公爵家の敷居を跨ぐことなど、万に一つもあり得ぬと思え」
◆◆◆◆◆
王都の裏路地。冷たい夜気が、ギルベルトの熱を帯びた肌を撫でる。
愛馬の手綱を掴もうとした時、背後の闇から馴染みのある足音が響いた。
「……交渉は、物別れに終わったようですね、団長」
振り返ると、栗色の髪を後ろで一つに結んだ副団長、クラウス・ヴェルナーが静かに立っていた。その深い緑色の瞳は、夜の闇の中でも冷静に主君の状態を観察している。
「クラウスか。……エレオノーラは、どこだ」
焦燥に満ちた問い。クラウスは僅かに視線を落とし、淡々と報告を始めた。
「エレオノーラは、国境を越えた地点で私の姉夫婦とは別れました。……すでに、この国の法も騎士団の権力も及ばぬ、国外へと渡っています」
ギルベルトの呼吸が止まった。
「……国外だと?」
「ええ。彼女は、団長に迷惑を掛けることを何より恐れていましたから。ベルーナル商会の追跡さえも振り切るつもりでしょう。……これより先は、公爵閣下の私兵がどれほど執拗に動こうとも、広大な他国の地から彼女一人を捜し出すのは、至難の業です。……彼女とお腹の子は、誰の手も届かない場所で、一人で生きる道を選ばれた」
ギルベルトは馬の鞍を、指が白くなるほど強く握りしめた。
自分を守るために、彼女はすべてを捨てて、見知らぬ異国の地へ消えたのだ。
(どこまでも……どこまでも誇り高く、そして残酷な女だ。俺を置いていくなと、あれほど言ったのに)
胸を抉るような喪失感。だが、その瞳にはすぐに、どす黒いほどの執念が宿った。
「……クラウス。騎士団の精鋭を集めろ。公爵邸の周囲を『護衛』という名目で完全封鎖する。私兵の出入りは一人たりとも許すな。……父上の手足をもぎ、一切の反撃の芽を摘み取る」
「団長、それは実のご実家との全面戦争になりますよ」
「構わない。俺が彼女を、エレオノーラを迎えに行くために、この家が邪魔だというのなら……、更地にしてでも道を拓く」
ギルベルトは馬に跨り、夜の闇へと駆け出した。
こうして、シュバルツバルト公爵家を巡る、前代未聞の親子相克の幕が上がった。
ヴィルヘルムは強固な意志でギルベルトの廃嫡を画策し、他派閥の貴族を動かして封鎖を解こうと試みる。対するギルベルトは、王国騎士団の武力を背景に、公爵邸を事実上の監獄へと変えていった。
経済を握るベルーナル商会。
武力を握る王国騎士団。
そして、政治的な弱みを握り、沈黙を武器に夫を縛るアーデルハイト。
公爵家という巨大な牙城は、内側と外側の双方から、容赦なく切り崩されようとしていた。しかし、その先に待つ「許し」も「再会」も、未だ霧の向こう側であった。
バルツァー王国の国境を越え、さらに北へと進んだ他国の辺境。
鉛色の厚い雲が空を覆うその小さな町には、すでに厳しい冬の到来を告げる粉雪が舞い始めていた。
石畳にうっすらと積もる雪を踏みしめながら、エレオノーラは外套の襟を深く合わせ、身を縮めるようにして歩いていた。ベルーナル伯爵夫妻の護衛のもと国境を越え、彼らと別れてから数日。人目につきにくい乗り合い馬車を乗り継ぎ、ようやくこの町に辿り着いたのだ。
道中の過酷な寒さと疲労は、確実に彼女の体力を奪っていた。時折襲ってくる吐き気と目眩を深い深呼吸でやり過ごしながら、エレオノーラはそっと自身の下腹部を撫でた。
(……大丈夫よ。私は、あなたを守り抜くわ)
お腹の小さな命の温もりだけが、今の彼女を支える唯一の熱だった。
冷たい風を避け、町の裏通りへと入り込んだエレオノーラは、看板に小さな天秤の紋章が描かれた商会の前に立ち止まった。建物の規模は小さいが、堅牢な造りをしており、入り口のガラスは綺麗に磨かれている。
彼女は凍えきった手で重い木製の扉を押し開けた。
カラン、と乾いた鐘の音が鳴り響き、暖炉の薪が爆ぜる温かな空気と、香辛料の入り混じった商会特有の匂いが彼女を包み込む。
カウンターの奥から、恰幅の良い中年の夫人が顔を出した。
「いらっしゃい。……おや、随分と冷え切っているね。何かお探しかい?」
エレオノーラは静かにフードを下ろした。透き通るような銀糸の髪と、長旅の疲労を隠しきれない蒼白な肌。しかし、その深い海のような青い瞳には、一切の淀みも卑屈さもない。侯爵夫人として培われた洗練された姿勢と気品は、粗末な外套を羽織っていてもなお隠しきれるものではなかった。
「突然の訪問をお許しください。……住むところと、仕事の紹介をお願いしたいのです」
エレオノーラはそう告げると、懐から一つの銀色の品を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
それは、重厚な銀の細工が施された、ベルーナル家の家紋入り懐中時計であった。国境で別れる際、ベルーナル伯爵が「困った事があれば、各地の商会でそれを見せれば助けになってくれます」と持たせてくれたものだ。巨大商会を束ねるトップ直々の証である。
商会の夫人はその懐中時計を見た瞬間、わずかに目を見開き、そして深く頷いた。
「……なるほど。アンタが、お偉いさんから話のあったお嬢さんだね」
夫人は周囲に他の客がいないことを確認すると、声のトーンを落とした。バルツァー国内のみならず、国境を越えた他国にまで広がるベルーナル商会の独自の連絡網は、すでにこの辺境の小さな町にまでエレオノーラの事情を伝達していたのだ。
「話は聞いているよ。ずいぶんと遠くから、よく無事に辿り着いたね。……身重の体で一人で働きながら生活するのは大変だからね。安心しな、そこに住む女達は皆ワケありで、出産経験がある子も多い」
夫人は温かい眼差しでエレオノーラのお腹に視線をやると、引き出しから一枚の手書きの地図を取り出し、カウンター越しに手渡した。
「ここから歩いて二十分ほどの場所にある、古い修道院の跡地を改築した共同住居さ。ウチの商会が買い取って、行き場のない女たちの働き口と住み処として提供しているんだ。機織りや縫い物、簡単な事務仕事なんかがある。アンタなら、文字の読み書きや計算もできるんだろう?」
「はい。家事全般と、帳簿の管理程度であれば問題なくこなせます。……ご厚意に、心より感謝いたします」
「丁寧な挨拶はいいよ。お互い様さ」
夫人は豪快に笑い飛ばし、店の窓から見える灰色の空を指差した。
「ここはアンタが来たバルツァーの王都よりだいぶ北に位置する。これから本格的に雪が積もれば、峠を越えるのも命がけだ。当分追っ手も阻めるだろうさ。……今はただ、お腹の赤ん坊のために体を休め、ここで静かに春を待つことだね」
「……はい」
追っ手。その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラの胸の奥が鋭く痛んだ。
自分の不在を知ったギルベルトは、今頃どうしているだろうか。あの鋭く冷ややかな銀灰色の瞳を怒りに燃やし、己を探しているのだろうか。それとも、公爵家の重圧に縛られ、すべてを諦めて別の誰かを妻に迎えるのだろうか。
(私が離れたことが、彼にとって最善の道。……これでよかったのよ)
湧き上がる彼への思慕を強靭な精神力で断ち切り、エレオノーラは静かに微笑んで頭を下げた。
「あの、向かう前に、いくつか日用品と衣類を購入させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんさ。必要なものは何でも揃っているよ」
エレオノーラは商会の棚を見て回り、過酷な冬を乗り越えるための厚手の毛織物の肌着や、これから大きくなるお腹を締め付けないゆったりとした衣服、そして当面の保存食となる乾燥豆や塩漬け肉などを、迷いのない手つきで選んでいった。
戦時中の深刻な物資不足を乗り越えた経験を持つ彼女にとって、何が本当に実用的で必要かを見極めることは容易いことであった。限られた持ち金の中で的確な品選びをするその生活能力の高さに、商会の夫人も感心したように息を吐く。
「アンタ、その身なりと綺麗なお顔に似合わず、随分と買い物上手だね。これなら、あの共同住居でもしっかりやっていけるだろうよ」
「お褒めいただき、光栄です」
エレオノーラは代金を支払い、荷物を丁寧にまとめ上げた。
「それでは、失礼いたします。色々とご配慮いただき、ありがとうございました」
「無理はするんじゃないよ。何か困ったことがあれば、いつでも商会においで」
温かい言葉に見送られ、エレオノーラは再び商会の扉を開けた。
外は、先ほどよりも雪の勢いが増していた。灰色の空から舞い落ちる冷たい雪が、彼女の銀糸の髪を白く染めていく。
バルツァー王国の王宮で過ごした屈辱的な日々も、ギルベルトの狂気じみた情熱と不器用な優しさも、すべては遥か南の空の下にある。
エレオノーラは地図を頼りに、新たな住処となる共同住居へ向けて、静かに、しかし確かな足取りで雪道を踏み出していった。
灰色の空から絶え間なく舞い落ちる雪は、容赦なくエレオノーラの体温を奪い続けていた。
商会で手渡された地図を頼りに、厚く積もり始めた雪道を一歩、また一歩と踏みしめる。冷たい風が外套の隙間から入り込み、芯から凍えるような寒さが彼女の体力を確実に削り取っていた。
やがて、白い息を吐きながら丘を登り切った彼女の視界に、古い石造りの建物が現れた。
かつて修道院であったというその建物は、派手な装飾こそないものの、重厚で堅牢な造りをしており、煙突からは温かな生活を思わせる白い煙が立ち昇っている。窓から漏れるオレンジ色のランプの灯りが、凍てつく雪景色の中でそこだけ切り取られたように優しく瞬いていた。
(あそこが、私の……いえ、私とこの子の、新しい居場所)
エレオノーラはかじかむ手で重い鉄張りの木の扉を押し開けた。
ふわりと、暖炉の薪が爆ぜる匂いと、どこか懐かしい生活の香りが鼻腔をくすぐる。
「……あら」
入り口の物音に気づき、奥の廊下から一人の年配の女性が小走りで現れた。簡素なエプロン姿に、白いものが混じった髪をきっちりと結い上げている。その目元には深いシワが刻まれていたが、漂う空気はひだまりのように穏やかであった。
「アンタ、もしかして商会の奥さんから連絡のあったお嬢さんかい? まあ、こんな雪の中を一人で……さあ、早く中にお入りなさい」
女性は驚いたように目を丸くした後、すぐに母のような温かな笑みを浮かべ、エレオノーラの冷え切った手を取った。その手のひらの温もりが、手袋越しにもじんわりと伝わってくる。
「突然の訪問、申し訳ありません……。私、エレオノーラと……」
名乗ろうと口を開き、深く一礼しようとした瞬間だった。
安全な場所に辿り着き、人の確かな温もりに触れたことで、国境を越えるまで極限まで張り詰めていた彼女の「緊張の糸」が、ふつりと音を立てて切れた。
急激な目眩が視界を歪め、膝から力が抜け落ちる。
「お嬢さん!?」
年配の女性の焦ったような声が遠のき、エレオノーラの意識は暗い底へと沈んでいった。
◆◆◆◆◆
微かに聞こえる、パチパチという薪の爆ぜる音。
ふかふかとした毛布の柔らかな感触と、どこからか漂ってくる温かいスープの匂い。
エレオノーラがゆっくりと重い目蓋を開けると、そこは素朴だが隅々まで清潔に整えられた、小さな部屋のベッドの上だった。
視界が徐々に鮮明になると、ベッドの傍らで二つの顔が自分を覗き込んでいることに気がついた。玄関で迎えてくれたあの年配の女性と、もう一人、エレオノーラと同じ年頃と思われる栗毛の若い女性だ。
「……あ、気がついたみたいですよ、マルトさん」
「おお、よかった。お嬢さん、気分はどうだい? どこか痛むところはないかい?」
二人の心底安堵したような声に、エレオノーラはハッとして上体を起こそうとした。
「私、玄関で……っ」
「こらこら、急に起き上がっちゃ駄目だよ。まだ目眩がするだろう」
マルトと呼ばれた年配の女性が、優しく、しかし力強い手でエレオノーラの肩を押さえ、再びベッドに横たわらせた。
「お腹の赤ん坊は無事だから、安心しなさい。……でもね、まだ安定期にも入っていない体で、こんな雪の中を何日も移動するなんて、無茶にも程があるよ。アンタ、自分の命ごと落とす気だったのかい」
少しだけ小言を含んだその声は、バルツァーの王宮で内官から浴びせられた冷酷な罵声とは違う、純粋に彼女の身を案じる温かな響きを持っていた。
エレオノーラは自身の平らな下腹部にそっと手を当てた。微かに波打つ自身の脈動の奥に、確かな命の気配を感じ取り、長く震える息を吐き出す。
(よかった……生きてる。この子は、無事だわ)
「詳しい事情は、商会の奥さんから使いの者を通じて聞いているよ。……身重の体で、ずいぶんと遠くから逃げてきたんだね」
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません……」
「謝ることはないよ。ここにはね、アンタみたいにワケあって故郷や家族から逃げてきた女たちばかりが暮らしているんだ。誰もアンタの過去を穿ち聞きしたりはしない。まずはその冷え切った体を休めて、赤ん坊を守ることだけを考えなさい」
マルトの優しい言葉に、エレオノーラの目頭がふわりと熱くなった。
「エレオノーラさん、でしたよね」
横にいた若い女性が、柔らかく微笑みかけてきた。少し日に焼けた肌に、親しみやすい丸い瞳をしている。
「私はセリア。ここに来て二年になるの。私もね、お腹にこの子くらいの小さな命を抱えたまま、着の身着の着のままでここに逃げ込んできたんだから。今は元気な男の子を育てながら、機織りをしてるのよ」
「セリアさん……」
「だから、不安に思わなくて大丈夫よ。ここはとても安全で、温かい場所だから」
セリアはそう言うと、傍らの小さな丸テーブルから、湯気を立てる木製の深皿を両手で持ち上げた。
「ずっと何も食べていないでしょう? 商会で買ってきたお野菜をたっぷり入れた、温かいポトフよ。お肉は匂いがきついかもしれないから、少しだけにして、根菜を柔らかく煮込んであるの。……食べられそう?」
差し出された器からは、澄んだスープの湯気と、甘く煮えた玉ねぎや人参の優しい香りが立ち昇っていた。数日前からエレオノーラを悩ませていた酷い吐き気は、不思議と今は治まっていた。
「……はい。ありがとうございます」
エレオノーラが身を起こし、木のスプーンを受け取って一口スープを口に運ぶ。
野菜の甘みと微かな塩気が、凍えていた内臓にじんわりと染み渡っていく。それは、侯爵夫人時代に食べていた豪奢な料理でも、王宮の厨房でギルベルトのために作っていた洗練された食事でもない、ただ純粋な「人の優しさ」で作られた味だった。
「……美味しいです。とても、温かい」
エレオノーラはポトフを味わいながら、小さく震える唇を噛み締めた。
ロランディア王国が敗戦し、すべてを失い、戦利品として尊厳を踏みにじられ続けた日々。ギルベルトの狂気じみた情熱に翻弄され、愛するがゆえに一人で身を引くという決断を下すまでの、孤独な戦い。
誰にも見せることのなかった涙が、温かなスープの湯気とともに、ポロポロと彼女の白い頬を伝い落ちていった。
マルトとセリアは何も言わず、ただ優しく微笑みながら、泣きながらポトフを食べるエレオノーラの背中を、温かい手でゆっくりと撫で続けていた。
その日、エレオノーラは泥のように深く、そして静かな眠りについた。
ロランディアが敗戦して以来、彼女の眠りは常に浅く、いつ怒声で叩き起こされるか分からないという極度の緊張感に包まれていた。ギルベルトの専属となってからも、彼の重い執着と己の心との間で葛藤し、心が休まる暇などひと時もなかったのだ。
しかし、この古い修道院の跡地には、彼女を脅かすものは何一つない。分厚い石壁が外の吹雪を完全に遮断し、暖炉の残り火が部屋を優しく温め続けていた。
翌朝。
窓の隙間から差し込む、雪の反射を帯びた柔らかな朝の光で、エレオノーラはゆっくりと目を覚ました。
(……朝。もう、こんな時間……)
王宮にいれば、とうの昔に厨房に立ち、冷たい水でギルベルトの朝食を準備している時間だ。遅くまで眠ってしまったことへの微かな焦りが胸をよぎったが、ふと、自分がもうあの過酷な場所にはいないのだという事実を思い出し、大きく息を吐き出して毛布の温もりに身を沈めた。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「エレオノーラさん、起きてる?」
扉が少しだけ開き、昨日ポトフを作ってくれたセリアが顔を覗かせた。彼女の表情は明るく、その頬は朝の労働を終えてきたのか、ほんのりと赤く色づいている。
「あ、おはようございます。私、すっかり寝過ごしてしまって……」
「ふふ、いいのよ。マルトさんが、昨日あれだけ無理をしたんだから、今日は一日寝かせておきなさいって言ってたから。……調子、どう? 朝ごはん食べられる?」
セリアが部屋の中へと足を踏み入れると、その後ろからちょこちょこと小さな影がついてきた。
セリアの足元に隠れるようにして引っ付いているのは、栗色の柔らかい髪をした小さな男の子だった。年齢は二歳を少し過ぎたくらいだろうか。セリアと同じ、親しみやすい丸い瞳で、見慣れないエレオノーラのことを不思議そうに見つめている。
「……セリアさんの、お子さんですか?」
「ええ。息子のルカよ。ほらルカ、ご挨拶して」
セリアに背中を優しく押されたルカは、もじもじしながらも一歩前へ出た。そして、ベッドの上に身を起こしたエレオノーラの姿をまじまじと見上げると、ぽかんと小さく口を開けた。
就寝時、エレオノーラは普段後ろで実用的にまとめている銀糸の髪を解いていた。透き通るような白い肌と、肩から真っ白なシーツへと零れ落ちる美しい銀の髪が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。その神秘的なまでの美しさに、幼い子供の目もすっかり釘付けになってしまったようだった。
「おねーしゃ、かみ、きれー」
まだたどたどしい喋りで、ルカは短い指を真っ直ぐに伸ばし、エレオノーラの髪を指差した。純真無垢なその声と、一切の裏表がないキラキラとした瞳に、エレオノーラはわずかに目を瞠った。
これまで彼女の容姿に向けられてきたのは、王宮の男たちのねっとりとした欲望の視線か、あるいは他の使用人たちからの嫉妬と悪意に満ちたものばかりだった。ギルベルトでさえ、彼女の美しさに対しては常に苛立ちと狂気じみた独占欲を滲ませていた。
ただ純粋に「綺麗だ」と褒められたのは、いったいどれくらいぶりのことだろうか。
「……ありがとう、ルカ」
エレオノーラはふわりと柔らかく微笑み、自分の銀糸の髪をそっと撫でた。
侯爵夫人としての威厳でもなく、使用人としての仮面でもない、年相応の穏やかな笑みだった。彼女のその美しい微笑みを見て、ルカは嬉しそうにキャッキャと笑い、再びセリアの足元へと隠れてしまった。
「もう、ルカったら失礼ね。ごめんなさいね、エレオノーラさん」
「いいえ、とても可愛らしいです。……私にも、いつかあんな風に笑う日が来るのでしょうか」
エレオノーラは自身の下腹部にそっと手を添えた。まだ膨らみは全くないが、確かにそこに命が宿っている。ルカの元気な姿を見たことで、彼女の中で『母親になる』という実感が、初めて形を持った温かいものとして胸に広がっていった。
すると、不思議なことに、数日前から彼女を苦しめていた酷い吐き気がすっかり鳴りを潜め、代わりに胃の奥からきゅるりと小さな音が鳴った。
過酷な逃避行を終え、安全な場所で深い眠りにつき、そして幼い命の輝きに触れたことで、彼女の身体がようやく「生きるための欲求」を取り戻したのだ。
「……ふふ。なんだか私、とてもお腹が空いてしまったみたいです」
「よかった! マルトさんがね、朝の焼き立てのパンと、卵のスープをとっておいてくれたの。食堂に運ぶから、顔を洗ったらおいでなさいな」
「はい、すぐに参ります」
セリアとルカが部屋を出ていくと、エレオノーラはベッドから静かに降り立ち、窓の外を見た。
空は相変わらずの厚い雲に覆われ、雪が絶え間なく降り続いている。バルツァーの王都とは違う、長く厳しい冬の景色だ。
しかし、彼女の心の中には、かつてないほどの静かな決意と温かな火が灯っていた。
(ここで生きていく。……この子と共に)
過去の誇りも、捨ててきた愛しい人の記憶も、すべてを胸の奥底に大切に仕舞い込み、エレオノーラは洗面台へと向かった。
身重の身体で挑む、見知らぬ辺境の町での共同生活。ここから、エレオノーラ・ローゼンタールの新しい生活が本格的に幕を開けるのだった。
身支度を整え、セリアに教えられた通りに一階の奥へと進むと、開け放たれた扉の向こうから賑やかな声と食器の触れ合う音が聞こえてきた。
広い食堂には長い木の机がいくつも並べられ、様々な年代の女性たちが集まって朝食をとっていた。皆、質素な身なりをしているが、その表情は一様に明るく、バルツァーの王宮で見かけたような張り詰めた暗さはどこにもない。
入り口で少しだけ足を踏み留めていると、机の一つから小さな手がぶんぶんと振られた。
「えるおーら、ここ」
ルカが、自分の隣の空いた丸椅子を一生懸命に指差してエレオノーラを招いていた。その愛らしい仕草に、彼女の口元が自然と綻ぶ。
歩み寄ると、向かいの席でパンを千切っていたセリアが苦笑いをして息子の頭を撫でた。
「もう、ルカ、違うよ。エレオノーラさんよ」
「えるおーら」
「違うわよ、エ・レ・オ・ノーラさん」
「えるおーら」
首を傾げながら何度繰り返しても上手く発音できないルカの様子に、エレオノーラは柔らかく微笑み、彼と同じ目線になるように少し身を屈めた。
「エルで良いわ。長いし、言いにくいもの……」
エレオノーラがそう言うと、ルカはパッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「える!」
「ええ、そうよ。よろしくね、ルカ」
自身の新しい呼び名を口にした瞬間、エレオノーラの胸の奥に冷たい現実が静かに波打った。
エレオノーラ・ローゼンタール。ロランディアの元侯爵夫人であり、バルツァーの王国騎士団長ギルベルト・フォン・シュバルツバルトが異常なまでの執着を寄せた女。
(ベルーナル商会の方々が秘密を漏らすことは決してないわ。でも、人の口に戸は立てられない……)
いくら強固な庇護の下にあろうと、透き通るような銀糸の髪と青い瞳という彼女の容姿は、ただでさえ人目を惹きすぎる。このまま本名で名乗り、目立つ姿のままでいれば、町を行き交う旅人や行商人たちの口伝てに、自然と噂が流れ出てしまう可能性は十分にある。
もしその噂が、血眼になって自分を探しているであろうギルベルトや、公爵家の私兵の耳に入れば、すべてが水泡に帰してしまう。
(彼に迷惑をかけないために身を引いたのに、私が足跡を残してどうするの)
エレオノーラは、マルトが運んできてくれた温かい卵のスープと焼き立ての黒パンを味わいながら、真剣な面持ちで顔を上げた。
「マルトさん。ご相談があるのですが」
「なんだい、エル。ほら、ちゃんと食べながら話しなさい」
早くも新しい愛称で呼んでくれたマルトに対し、エレオノーラは自身の名前と容姿がもたらす危険性について、言葉を選びながら正直に打ち明けた。
事情を聞き終えたマルトは、ふむ、と顎に手を当てて深く頷いた。
「そうね……。アンタの名前と、そのあまりにも美しい容姿は確かに目立つわね。追っ手から逃れるためには、過去を完全に切り離す必要がある。……名前を変えて、その髪も染めてはどうだい?」
「髪を、ですか」
「そうさ。瞳の色は変えられないけど、髪の色を変えれば、全体の印象は随分と違って見えるはずよ」
マルトはそう言うと、立ち上がって二つ隣の机で食事をしていた女性に声をかけた。
「リザ、ちょっとこっちへ来ておくれ」
「なあに、マルトさん」
呼ばれてやって来たのは、くすんだ焦茶色の髪を短く切り揃えた、そばかすのある女性だった。
「彼女もね、ここへ来た時に髪の色を変えているのよ。元は、太陽みたいに綺麗な金に近い色をしていたんだから」
「ええ、そうよ」と、リザは照れくさそうに笑って自分の髪の毛先を指で摘んだ。
「胡桃の殻や特定の木の皮を煮出した汁で何度も染め直すの。最初は少し匂いがきついかもしれないけど、すぐに慣れるわ。それに、こうして地味な色にしておいた方が、変な男の目も引かないから、街へ買い出しに行く時も安全なのよ」
エレオノーラはリザの髪を見つめ、静かに頷いた。
侯爵夫人としての誇りであった美しい銀糸の髪を泥のような色に染めることへの躊躇いは、今の彼女には微塵もなかった。お腹の子供を守り、そして何より、愛するがゆえに別れを選んだあの不器用な騎士団長に、二度と自分を見つけさせないための強固な盾となるのなら、喜んで容姿を捨てよう。
「教えていただいてありがとうございます。……マルトさん、リザさん。どうか、私の髪もそのように染める方法を教えてください」
「覚悟は決まっているみたいだね。分かった、後で染料の作り方を教えてあげるよ」
マルトは力強く頷くと、エレオノーラの背中を優しく叩いた。
「いいかい、エル。ここでは誰もアンタの過去を咎めないし、詮索もしない。でも、生きていくためには、過去の自分を殺す強さも必要なんだよ。悲しいことや辛いことは全部雪の中に埋めて、今日から新しい自分として生きなさい」
「はい……。私、ここで『エル』として、しっかり生きていきます」
エレオノーラが真っ直ぐに答えると、隣に座っていたルカが「える、たべる!」と元気な声を上げて、自分の皿のパンを指差した。その無邪気な声に、食堂の空気がふわりと温かく和む。
過去を捨て、身を隠すための術を得たエレオノーラ。
彼女の決意を祝福するかのように、窓の外の雪は静かに降り積もり、彼女の歩んできた足跡をどこまでも白く覆い隠していくのだった。
昼下がり。雪が小降りになったのを見計らい、修道院の裏庭の軒下では、かまどに掛けられた大きな鍋が湯気を立てていた。
胡桃の殻や特定の木の皮をじっくりと煮出した汁は、少し鼻を突く独特の青臭い匂いを放っている。
分厚い布を肩に掛け、丸椅子に腰掛けたエレオノーラの背後で、リザとセリアが手際よくその染料を彼女の髪に塗り込んでいた。
しかし、その静かな庭先には、先ほどから火のついたような子供の大泣きする声が響き渡っている。
「える、らめ!かみ、らめー!」
ルカだった。彼は母親であるセリアのエプロンを小さな手で力いっぱい引っ張りながら、ポロポロと大粒の涙をこぼして必死に抗議している。今朝出会ったばかりのエレオノーラの、あの雪よりも美しく輝く銀髪が染料でどす黒く塗り潰されていくのが、幼い彼にとっては耐えがたい悲劇だったらしい。
「もー、ルカ。ワガママ言わないでよ。エルがお外に出るために必要なことなの」
セリアが困ったように息子の頭を撫でて宥めるが、ルカは「らめー!」と首を横に振って泣き止まない。
その様子を見て、染料を毛先まで丁寧に揉み込んでいたリザが、ふう、と息を吐いて苦笑いをした。
「ま、ルーの気持ちは分かる。こんな綺麗なのに勿体無い」
リザの言う通り、エレオノーラの銀髪は月明かりを紡いだように細く、そして透き通るように美しかった。染料を塗り込む手でさえ躊躇ってしまうほどのその極上の絹糸を、自ら泥のような色に染め上げていくのは、同性である彼女たちから見てもどこか罪悪感を覚える作業だった。
(ごめんね、ルカ。でも、これでいいの。……こうしなければ、私は本当の意味で生まれ変われない)
エレオノーラは泣きじゃくるルカに申し訳なさを感じながらも、自身の決意が揺らぐことはなかった。過去の自分を彩っていたものなど、今はお腹の子供を守るための障壁でしかないのだ。
やがて全体に染料が馴染み、寒空の下でしばらく時間を置いた後、彼女たちはかまどで沸かしておいた温かいお湯を使って、エレオノーラの髪から余分な染料を丁寧に洗い流していった。
「よし、こんなものかな。寒かったでしょう、エル。早く中に入って暖炉の前で乾かしましょう」
セリアに促され、エレオノーラは布で髪の水分を拭き取りながら食堂へと戻った。
パチパチと燃える暖炉の火のそばで、くしを通しながら髪を乾かしていく。次第に水分が飛び、本来の質感が戻り始めたエレオノーラの髪を見て、リザが不思議そうに首を傾げた。
「……下地が綺麗すぎなのかな?」
「え?」
「ほら、見て。エル、鏡ある?」
リザから手渡された小さな手鏡を覗き込み、エレオノーラはわずかに目を丸くした。
予定では、リザのようなくすんだ焦茶色になるはずだった。しかし、鏡に映るエレオノーラの髪は、光に当たるときらきらと輝いて見える、柔らかな小麦色に変わっていたのだ。
元々の色素が薄すぎたためか、染料の暗い色がそのまま定着せず、まるで太陽の光をたっぷり浴びた麦穂のような、温かみのある明るい色合いに落ち着いてしまったらしい。
「もっと茶色くなるかと思ったけど…でも印象は全然変わったわ」
リザが満足そうに頷き、セリアも「本当、なんだか村娘みたいで可愛いわよ!」と手を叩いて喜んだ。
先ほどまで大泣きしていたルカも、とてとてと歩み寄ってきて、乾いたばかりの小麦色の髪を不思議そうに小さな手で触っている。
「きれー……」
「ふふ、ありがとうルカ。泣き止んでくれてよかったわ」
エレオノーラは鏡の中の『新しい自分』を改めて見つめた。
侯爵夫人としての冷たく透き通るような威厳は消え去り、そこには少し垢抜けない、しかし確かな親しみやすさと温もりを持つ一人の女性の姿があった。深い海のような青い瞳だけは変わらないが、髪の色が変わっただけで、纏う空気は全く違うものになっている。
(さようなら、エレオノーラ・ローゼンタール)
彼女は鏡の中の自分に向かって、静かに別れを告げた。
今日から自分は、名もなき平民の女「エル」だ。
誰の所有物でもなく、誰の重荷でもない。ただ、お腹の子供を守り抜くためだけに、この雪深い辺境の地で力強く生きていく、一人の母親なのだ。
◆◆◆◆◆
エレオノーラが北の辺境の地で美しい銀髪を染め、過去と決別していたのと同じ頃。
遥か南に位置するバルツァー王国の王都では、シュバルツバルト公爵家を舞台に、国を揺るがすほどの苛烈な戦いが火花を散らしていた。
王都の中心にそびえ立つ壮麗な公爵邸は、今や完全に孤立した陸の孤島と化していた。
豪奢な鉄柵の門前には、王国最強と謳われる騎士団の精鋭たちが重武装で隙なく立ち並んでいる。表向きは「公爵閣下の身辺警護」という名目であったが、実態は完全なる封鎖である。屋敷から出ようとする者は使用人であろうと容赦なく押し留められ、公爵が裏の仕事に使っていた私兵たちも、一歩でも敷地を出れば即座に騎士団の剣が突きつけられる状況であった。
邸内の執務室では、重厚なマホガニーの机に叩きつけられた羊皮紙の束が床に散乱していた。
「……ええい、どいつもこいつも! 恩知らずの腰抜け共め!!」
国務大臣にして公爵家当主であるヴィルヘルム・フォン・シュバルツバルトは、血走った目で怒声を上げ、手元のインク壺を壁に向かって力任せに投げつけた。ガシャンという鋭い音と共に、黒い染みが美しい壁紙を汚していく。
冷徹な政治家として常に感情を抑制してきた彼が、ここまで取り乱すのは異例中の異例であった。
「閣下、お鎮まりください。……現在、我々公爵派に属する主要な貴族たちからの連絡は、すべて途絶えております」
壁際に控えていた側近が、顔面を蒼白にしながら震える声で報告した。
「ベルーナル商会が、公爵派の領地に対する物資の供給と資金の融通を突如として完全停止いたしました。領内の流通は麻痺し、冬越しの準備すらままならない状況です。彼らは皆、我が家への支援を打ち切り、自らの保身に走っております……」
「あの小娘の商会ごときに、我が派閥が崩されるというのか! 貴族院の重鎮たちはどうした、私が送った密使は!」
「すべて、騎士団によって邸外で拘束されました。手紙も押収され、外部との連絡手段は完全に絶たれております」
ヴィルヘルムはギリッと奥歯を鳴らし、深い疲労と屈辱に顔を歪めた。
武力と情報網を完全に掌握している息子のギルベルトと、その右腕として緻密な包囲網を敷く副団長クラウス。そして、国内の経済を牛耳るクラウスの姉、クラリス・ベルーナル。
王国を支える若き実力者たちが結託し、本気で一人の権力者を潰しにかかっているのだ。長年、恐怖と利益によって派閥を統率してきたヴィルヘルムにとって、利益を絶たれた瞬間に蜘蛛の子を散らすように離れていく貴族たちの態度は、己の権力がいかに脆い土台の上に成り立っていたかを痛感させるものであった。
カチャリ、と執務室の扉が開いた。
「随分と荒れておいでですね、旦那様」
静かな足音と共に現れたのは、妻のアーデルハイトであった。彼女は壁のインクの染みや散乱した書類を一瞥し、優雅な所作で扇を広げた。
「……アーデルハイト。貴様、私を笑いに来たか」
「いいえ。ただ、現実を受け入れていただく時期かと思いまして。……旦那様が裏で頼りにしようとしていた近衛兵団の幹部も、先ほど私の実家である侯爵家からの圧力により、一切の介入を辞退するとの書状が届きましたわ」
ヴィルヘルムの目が驚愕に見開かれた。
「お前、実家まで動かしたのか……っ! この家門を、本気で崩壊させる気か!」
「崩壊させないための、荒療治です。あの子は言いましたわ。愛する人を迎え入れるための準備を整えると。……旦那様が降伏し、あの子の婚姻に対する一切の干渉と、あの女性への殺意を放棄する誓約書に署名さえすれば、この封鎖はすぐに解かれます」
アーデルハイトは冷たく光る薄水色の瞳で、かつて自身を政略の道具としてしか扱わなかった夫を見据えた。
「その女性がどのような方なのか、私には分かりません。ですが、あの子に心を与え、すべてを投げ打ってでも守りたいと思わせた方です。私は母親として、あの子の選んだ道を信じます。……武力、経済、そして政治。すべてにおいて、旦那様の退路は断たれました。不正な資金工作の証拠を貴族院に提出される前に、どうかご決断を」
「……くそっ、あの敗戦国の小娘一人のために……!」
ヴィルヘルムが執務机に両手をつき、ギリギリと歯ぎしりを響かせるその姿は、かつての絶対的な覇気を完全に失っていた。
◆◆◆◆◆
一方、公爵邸を包囲する騎士団の天幕の中。
ギルベルトは広げられた王都の地図から視線を上げず、静かな、しかし確かな熱を帯びた銀灰色の瞳で戦況を見つめていた。
「団長。公爵派の貴族で、最後まで抵抗していた伯爵家が今朝方、白旗を揚げました。これで完全に、公爵閣下は孤立無援です」
天幕に入ってきたクラウスが、淡々とした口調で報告する。
「そうか。これで父上も、これ以上は耐えきれまい。降伏の書状の準備をしておけ。親としてのすべての権限を放棄させ、俺の決定に一切の異議を唱えさせないための完璧な誓約書だ」
「承知いたしました。……しかし団長、公爵閣下を黙らせたとしても、敗戦国の女性を正妻に迎えるとなれば、貴族院が黙っていないでしょう。どうされるおつもりで?」
「金に困窮している由緒ある家門か、あるいは後継ぎのいない没落貴族を洗い出せ。そこに莫大な資金を援助する見返りとして、エレオノーラを一度養女として迎え入れさせ、過去の身分を完全に洗浄する。その上で、シュバルツバルト公爵家として正式に婚約を申し入れる手筈だ」
クラウスは微かに目を瞠った。実家を屈服させるだけでなく、彼女を迎えるための政治的な地盤固めまで、すでに計算し尽くしているのだ。
「……まさか本当に、これほどの大事にしてまでやり遂げるとは。彼女に対する団長の執念には、さすがの私も恐れ入りますよ」
「執念ではないさ、クラウス。……これは、俺のけじめだ」
ギルベルトは地図から顔を上げ、天幕の入り口から見える、どこまでも続く鉛色の空へと視線を向けた。
その横顔には、かつての氷のように冷酷な騎士団長の面影はない。あるのはただ、愛する女性を想う、一人の男としての深い情愛と後悔であった。
「彼女は俺の未来を守るために、身重の体ですべてを捨てて、国境の向こう側へと姿を消した。今、どこにいるのか、どんな空の下で震えているのかすら分からない。……だが、あの気高く、誰よりも優しい人を、これ以上一人で戦わせるわけにはいかない」
「団長……」
「俺は、彼女を二度と戦利品や使用人などとは呼ばせない。公爵夫人として、誰もが傅き、二度と彼女が理不尽な運命に涙することのない安全な場所を、この手で創り上げるんだ」
足跡の途絶えた遠く見知らぬ地で、一人で小さな命を抱きしめているであろう彼女の姿を思い描き、ギルベルトは強く目を閉じた。
(エレオノーラ……どうか、無事でいてくれ。君をもう二度と悲しませない、君と子供が心から安らげる場所を必ず用意する)
腰の剣の柄を強く握り締め、彼は心の中で愛しい人へと語りかける。
(待っていてくれ。……必ず、迎えに行く)
深く静かな愛情と、決して揺るがない決意を胸に秘め、若き騎士団長は彼女を取り戻すための最後の戦いへと、力強く歩みを進めるのであった。
天幕の入り口から鉛色の空を見つめるギルベルトの背中を、副団長であるクラウスは深い緑色の瞳で静かに見守っていた。
親の権力を削ぎ落とし、国を敵に回してでも愛する女性の居場所を創り上げる。その途方もない覚悟と、彼女を取り戻すという狂おしいほどの熱情を目の当たりにし、クラウスは微かな感心を覚えていた。
「……私にもそんな熱があれば、妻に逃げられることもなかったのでしょうか?」
静寂に包まれた天幕の中に、クラウスの唐突な独白がぽつりと落ちた。
常に冷静沈着で、物事を客観的に捉える副団長の口から出た個人的な言葉に、ギルベルトは僅かに目を瞠り、そして呆れたように振り返った。
「……お前は夫人に執着どころか、爪の先程も興味を示さなかったからだろう」
ギルベルトの容赦のない事実の指摘に、クラウスは中性的な顔立ちに苦笑を浮かべ、あっさりと肩をすくめた。
「手厳しいですね。ですが、仰る通りです。……どうにも私は、自分が結婚して温かな家庭を築くという未来が、全くもって考えられない質のようでして」
伯爵家の三男であるクラウスもまた、数年前に親の決めた政略によって一度婚姻を結んでいる。しかし、すべてを損得と合理性で割り切る性格であった彼は、嫁いできた妻に対して一切の情を湧かせることはなかった。
妻が愛のない日々に耐えきれず離縁状を叩きつけて実家へ帰った時でさえ、彼は引き留めるどころか「ああ、これでようやく自分の静かな時間が作れる」と安堵してしまったほどなのだ。
「自身のすべてを懸けて一人の女性を求め、なりふり構わず守り抜こうとする団長のその熱さは、私には到底理解も真似もできない芸当ですよ」
クラウスはそう言って、どこか達観したような、清々しいまでの笑みを浮かべた。文武両道で頭脳明晰な彼が持つ、唯一と言っていい欠点であった。
「……やっぱり私は、色恋や家庭に収まるよりも、団長とこうしている方が、楽しいですね」
厄介な盤面をひっくり返し、主君の背中を預かって共に戦う。彼にとっては、甘い恋愛よりもその血湧き肉躍る闘争と男同士の絆の方が、遥かに価値のあるものだった。
「お前は本当に、食えない男だな」
ギルベルトは呆れたように小さく息を吐いたが、その声には長年の腹心に対する絶対的な信頼が滲んでいた。クラウスのような男が右腕でいてくれるからこそ、己は迷うことなく前だけを見て剣を振るうことができるのだ。
「さて、私のつまらない話はここまでにしておきましょう。時間が惜しいですからね」
クラウスは飄々とした空気をすぐに切り捨て、副団長としての知的な表情へと切り替わった。彼は懐から一枚の折り畳まれた羊皮紙を取り出し、ギルベルトの立つ机の上に広げる。
「エレオノーラを養女として迎え入れさせる家門の候補ですが、すでにベルーナル商会の情報網を使い、いくつか目星をつけております」
羊皮紙には、バルツァー王国の由緒あるいくつかの貴族の名と、その内情が細かく記されていた。
「最も条件が良いのは、東部に領地を持つランツァー子爵家でしょう。歴史と格式は十分にありますが、先代の事業失敗により莫大な借金を抱え、現在は屋敷を手放す寸前の状態です。当然、跡継ぎを娶る余裕もありません。……ここに、私の姉の商会を通じて『借金の全額肩代わりと、今後の莫大な資金援助』を条件に持ちかけます。見返りはただ一つ、一人の娘を養女として入籍させること」
「子爵家の遠縁として身分を整えるわけか」
「はい。金に困窮している彼らにとって、これほど美味しい話はありません。どんな素性の娘であろうと、喜んで頷くでしょう。入籍の手続きさえ済めば、彼女は法的に『バルツァー王国のランツァー子爵令嬢』となります。敗戦国の元侯爵夫人という過去は、完全に洗浄されるのです」
ギルベルトは羊皮紙に記された子爵家の名を鋭く見据え、深く頷いた。
「よし、それで進めろ。ベルーナル商会に動く金は、すべて俺の個人資産から出させる。足りなければ、公爵家の名義で俺が引き出す」
「承知いたしました。すぐに姉に連絡を入れ、手続きを急がせます」
クラウスが羊皮紙を巻き直し、一礼して天幕を出ようとした時、ギルベルトが低く声をかけた。
「……クラウス。お前のおかげで、道が拓けた。感謝する」
その真っ直ぐな言葉に、クラウスは目を瞬かせた後、静かに、そして満足げに微笑んだ。
「もったいないお言葉です、団長。……さあ、愛しい奥様を迎えに行くための仕上げを、さっさと終わらせてしまいましょう」
天幕の入り口が揺れ、クラウスの姿が外の雪景色へと消えていく。
ギルベルトは再び一人きりになった空間で、己の剣の柄を固く握り締めた。
頼れる無二の友の支えを得て、エレオノーラの身分を取り戻すための盤石な手筈は整った。彼女を迎えに行くための道は、今、確実に拓かれようとしていた。
◆◆◆◆◆
月日は流れ、遥か南のバルツァー王都では冬が終わりを告げようとしている頃。
北の辺境にあるこの町でも、厚い雲の隙間から差し込む陽光が、わずかに春の温かみを帯び始めていた。氷柱から滴る水の音が、静かな修道院の跡地に規則正しいリズムを刻んでいる。
小麦色に髪を染め、名もなき平民の女「エル」として生きる決意をしたエレオノーラにとって、今の生活は何物にも代えがたい安らぎに満ちていた。
午前中、彼女は窓際の陽だまりに椅子を置き、手元に集中するのが日課となっていた。
「……できたわ。ルー、見てごらんなさい」
エレオノーラが声をかけると、足元で大人しく遊んでいた小さな影が、ぱっと顔を輝かせて膝元に縋り付いてきた。セリアの息子、ルカである。
「える、ししゅ、きれー!」
ルカという発音がまだ難しく、自分のことを「ルー」と呼ぶ彼に合わせ、エレオノーラもいつしか愛を込めて彼を「ルー」と呼ぶようになっていた。ルカは、エレオノーラが白い布に魔法のように咲かせた、冬の終わりを告げるスノードロップの刺繍を、キラキラとした瞳で見つめている。
「ありがとう、ルー。これは商会の奥様に届けるものだから、汚さないように気をつけてね」
エレオノーラが微笑みながらルカの柔らかい髪を撫でる。
かつて侯爵夫人としての嗜みであった刺繍は、今や彼女の大切な「仕事」となっていた。戦時中の困窮を乗り越えた経験から、彼女の指先は極めて繊細かつ正確で、その緻密なステッチと優雅な図案は、辺境の商会でも「王都の高級店に匹敵する芸術品だ」と驚嘆され、驚くほどの高値で取引されていた。
(この手がある限り、私はこの子を養っていける。……誰の手を借りずとも、生きていける)
エレオノーラはふと、自身の緩やかな曲線を描き始めた下腹部に手を当てた。
安定期に入り、最近では胎動もはっきりと感じられるようになっている。お腹の中で命が躍動するたびに、彼女は自分の中に眠っていた「母」としての本能が、静かに、しかし力強く目覚めていくのを感じていた。
そんな彼女の様子を、厨房から戻ってきたマルトとセリアが温かな眼差しで見守っていた。
「エル、またそんなに根を詰めて。刺繍もいいけど、あんまり座りっぱなしなのも良くないよ」
マルトが腰に手を当て、年長者らしいアドバイスを口にする。
「これぐらいの時期から、少しずつ意識して体を動かしておかないとね。出産の時に体力が落ちてて辛い思いをするのはアンタなんだから。初産は想像以上に体力がいるんだよ」
「そうですよ、エルさん。私もルカを産む前は、わざと掃除や洗濯を積極的に手伝って、しっかり歩くようにしてたんですから」
セリアの言葉に、エレオノーラは真摯に頷いた。
「ありがとうございます、マルトさん、セリアさん。……そうですね、刺繍は一区切りつきましたから、今日のお昼の支度は私が代わります。立ち仕事も、良い運動になりますものね」
エレオノーラは椅子から立ち上がり、手慣れた様子でエプロンを締め直した。
かつては使用人に命じていた家事全般を、今の彼女は自らの意思で、喜んでこなしている。食材を無駄なく使い、栄養価の高いスープを作る。床を磨き、共同住居の仲間たちが心地よく過ごせるよう気を配る。その一つ一つの所作には、侯爵夫人としての気品と、生活者としての逞しさが共存していた。
昼食の準備を始めようと厨房へ向かう彼女の後を、ルカが「える、おてつだい!」と元気に追いかけていく。
「ふふ、ありがとう。じゃあ、ルーはお野菜を運んでくれるかしら?」
「あーい!」
無邪気な子供の笑い声と、薪の爆ぜる音。
それは、バルツァーの王宮で張り詰めた孤独の中にいた頃には、決して想像もできなかった「幸福」の形であった。
ロランディアの侯爵夫人として生きることを強いられた過去も、バルツァーの騎士団長に執着された日々も、すべては遠い南の雪の下に埋めてきた。今の彼女にとって何よりも重要なのは、明日のパンを焼き、隣で笑う幼子の頭を撫で、自分のお腹の中で育つ命を無事に産み落とすことだけだ。
窓から差し込む春の光が、彼女の小麦色の髪を優しく照らしている。
エレオノーラは沸き立つ鍋の湯気の中へと、迷いのない足取りで踏み出した。己の足で立ち、新しい命を育んでいくための彼女の日常は、雪解けの水のように澄んだ光に満ち溢れていた。
◆◆◆◆◆
北の辺境がまだ深い雪に覆われている頃、遥か南のバルツァー王都には、すでに柔らかな春の風が吹き始めていた。
しかし、シュバルツバルト公爵邸の執務室だけは、まるで深い冬の底に取り残されたかのように冷たく、重苦しい空気が淀んでいる。
王都の権力の中枢に君臨し続けてきた絶対的な当主、ヴィルヘルム・フォン・シュバルツバルトは、マホガニーの執務机の奥で深く背もたれに身を預け、虚ろな銀灰色の瞳で天井を見つめていた。
王国最強の武力と、ベルーナル商会の強大な経済力によって完全に邸宅を封鎖されてから、数ヶ月。その間、ヴィルヘルムは持てるすべての人脈と政治的権謀術数を駆使し、息子の包囲網を突破しようと抗い続けた。
だが、結果は惨憺たるものであった。彼が動かそうとした駒はことごとくギルベルトとクラウスによって先回りされて封じられ、頼みの綱であった貴族院の重鎮たちも、妻アーデルハイトが握る「不正工作の証拠」を恐れて完全に沈黙した。
もはや、公爵派の貴族でヴィルヘルムに付き従う者は一人もいない。
彼が恐怖と利益で築き上げてきた絶対的な権力基盤は、己の最高傑作であるはずの息子によって、文字通り完膚なきまでにへし折られたのである。
机の上には、王室の正式な承認印が押された書類の束が置かれている。
一つは、当主ヴィルヘルムが息子の婚姻に対する一切の干渉権を放棄し、その決定を完全にギルベルトへ委ねるという内容の絶対的な誓約書。
もう一つは、ギルベルトが連れ帰るであろう女性を、今後相応の家門の養女として身分を整えた暁には、シュバルツバルト公爵家の次期夫人として一切の異議なく迎え入れることを約束する、事前承認の書状であった。
ここに署名をすれば、敗戦国の元侯爵夫人という過去を持つ女が公爵家に入り込むことを、当主として自ら認めることになる。伝統と純血を何よりも重んじてきたヴィルヘルムにとって、それは自らの誇りと家門の歴史に対する完全なる敗北を意味していた。
羽根ペンを握ることもできず、ただじっと書類を睨みつけながら硬直している夫の背後へ、静かな足音が近づいた。
「旦那様、もう終わらせましょう」
そっと肩に手を置き、夫人のアーデルハイトは静かに言う。
彼女の声音には、これまでの冷ややかな拒絶や敵意はなく、ただ長年連れ添い、そして今、すべてを失おうとしている夫に対する微かな哀愁と、慈愛のようなものが滲んでいた。
「あの子は、あなたが育て上げた通り、誰よりも冷酷で、計算高く、そして圧倒的な力を持つ怪物へと成長しました。……ただ一つ、あなたの計算外だったのは、あの子がそのすべての力を、『一人の愛する女性を守り抜くため』だけに使ったこと。私たちが退く時が来たのですわ、ヴィルヘルム様」
長い、長すぎる沈黙が室内に降りた。
ヴィルヘルムはゆっくりと息を吐き出し、震える右手で羽根ペンを手に取ると、誓約書と承認状の末尾に、公爵家当主としての重厚な署名を一気に書き殴った。
「……これで、満足か」
掠れた声で呟き、ヴィルヘルムはペンを放り投げた。
その瞬間、執務室の扉が音を立てて開いた。漆黒の騎士団長制服を隙なく着こなしたギルベルトが、静かな足取りで足を踏み入れてくる。ギルベルトは机の上の書類を手に取ると、内容を鋭い瞳で確認し、一切の隙のない完璧な礼をとった。
「感謝いたします、父上」
ギルベルトが踵を返し、扉を出ようとしたその時。
背後から、アーデルハイトの凛とした、しかしどこか険のある声が響いた。
「ギルベルト」
振り返ると、母はこれまで見せたことのないような、公爵夫人としての厳格な眼差しを息子に向けていた。
「必ず、見つけ出しておいでなさい。……あなたの愛する、かけがえのない人を。ですがギルベルト、あなたが今回した事の責もまた大きいものです」
アーデルハイトは一歩前へ出ると、釘を刺すように言葉を継いだ。
「実の父親を武力で封じ、家門を壊しかねない兵糧攻めを強行した……。その手段が如何に彼女を守るためであったとしても、あなたが負った傷と、家門に与えた混乱は消えません。あなたはこの公爵家を立て直し、導く責任がある事を忘れてはなりませんよ」
その言葉は、慈愛に満ちた母の顔を脱ぎ捨て、シュバルツバルト公爵夫人として家門の永続を願う一人の高貴な女性の叱咤であった。
ギルベルトは母の言葉の重みを正面から受け止め、銀灰色の瞳に深い決意を宿して深く頷いた。
「……分かっております。この代償は、我が一生を懸けて贖い、この家をより盤石なものにすることで果たしましょう。母上」
ギルベルトはもう一度深く礼をし、扉の向こうで待機していたクラウスと共に、今度こそ公爵邸を後にした。
再び二人きりになった執務室。
ヴィルヘルムは力なく椅子に沈み込み、机の上に投げ出された己の右手をじっと見つめていた。すべてを失い、誇りも牙ももぎ取られた老いた鷲のようなその姿に、アーデルハイトは静かに歩み寄った。
「ヴィルヘルム様……」
彼女は夫の傍らに膝をつき、その節くれ立った大きな手を、自らの細い両手でそっと包み込んだ。ヴィルヘルムが驚いたように視線を落とすが、アーデルハイトは逃げることなく、穏やかな薄水色の瞳で彼を見つめ返した。
「……お前も、私を軽蔑しているのだろう。息子に敗れた無様な男だと」
「いいえ。あなたは誰よりもこの家を愛し、守ろうとしてこられました。そのやり方が少し、不器用で冷たすぎただけなのです」
アーデルハイトは夫の手を強く握り、かつてないほど真っ直ぐに想いを告げた。
「旦那様、これからは私もあなたに歩み寄り、今度こそお傍でお支えいたします。家門の駒としてではなく、あなたの妻として。……共に、あの子たちが帰ってくる場所を守っていきましょう」
ヴィルヘルムの喉の奥から、くぐもった、嗚咽のような吐息が漏れた。
長年の政略結婚。互いに背を向け合い、冷え切った家風の中で凍えていた二人の心が、皮肉にも全てを失ったこの瞬間、初めて重なり合った。
ヴィルヘルムは震える手で妻の手を握り返し、深く、深く頭を垂れた。
窓の外では、春を告げる暖かな陽光が、公爵邸の庭に咲き始めた花の蕾を優しく照らしていた。
一つの歴史が終わり、新しい時代が始まる。
すべての鎖を解き放たれた若き騎士団長は、己の子を宿した愛しい女を見つけ出すため、手掛かりの途絶えた国境の先へとついにその足を踏み出すのであった。
シュバルツバルト公爵家という最大の障壁を完全に打ち砕き、ギルベルトはすぐさま王国騎士団の精鋭と、自身が動かせる限りの情報網を駆使してエレオノーラの捜索を開始した。
しかし、結果は絶望的なものであった。
彼女の足取りは、バルツァー王国の国境を越えた町を最後に、ぷつりと途絶えていたのだ。そこから先は他国であり、王国の騎士団が公に立ち入ることはできない。何より、広大な大陸のどこへ向かったのかすら、一切の手掛かりが残されていなかった。
王宮の執務室で、ギルベルトはもたらされた「捜索打ち切り」の報告書を握り潰し、深く息を吐き出した。
(俺から逃げ切るために、これほどまでに痕跡を消し去ったというのか、エレオノーラ……)
身重の体で、見知らぬ異国の地へ消えた彼女。その過酷な道程を想うと、胸が鋭く締め付けられる。
このまま闇雲に人を放っても、広大な世界から彼女一人を見つけ出すことなど不可能に近い。今の自分に残された手立ては、ただ一つしかなかった。
「クラウス」
「はい、団長」
控えていた副団長へ、ギルベルトは振り返ることなく声を絞り出した。
「お前の姉君……ベルーナル伯爵夫妻との面会の場を設けてくれ。他国にも広く根を張る会の情報網を頼るほかに、彼女を見つけ出す手立てはない」
クラウスは深い緑色の瞳を静かに眇め、微かに息を吐いた。
「手配はいたします。……ですが団長、私の姉は一筋縄ではいきませんよ。彼女は根っからの商人です。騎士団長の権威や、公爵家の威光など一切通じない相手だとご承知おきください」
「ああ、分かっている。頭を下げてでも、協力を取り付ける」
数日後。
王都の一等地に構えられたベルーナル商会の本館、その最上階にある豪奢な応接室にて、ギルベルトはベルーナル伯爵夫妻と対峙していた。
上座の長椅子に腰を下ろしているのは、恰幅の良い穏やかな顔つきのベルーナル伯爵と、その隣に座る一人の美しい女性だ。
クラリス・ベルーナル。クラウスの姉であり、実質的にこの巨大商会を束ねる女傑である。弟と瓜二つと言っていいほどよく似た中性的な顔立ちに、栗色の髪を結い上げているが、常に冷静で達観しているクラウスとは違い、彼女の緑色の瞳には野心と知性が燃えるように輝いていた。
「単刀直入に申し上げる。エレオノーラの行方を探すため、貴商会の情報網をお借りしたい。対価は望むままに支払う。……どうか、力を貸してはいただけないだろうか」
ギルベルトは騎士団長としての傲慢さを一切捨て、一人の男として深く頭を下げた。
室内には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。伯爵は穏やかな笑みを崩さず、ただ黙って妻へ視線を向ける。実権を握るクラリスは、優雅な所作でティーカップをソーサーに置き、冷ややかな瞳で目の前の若き権力者を上から下まで見定めた。
「私の弟から、貴方がご実家相手にどのような大立ち回りを演じたかは聞いております。彼女を迎え入れるために公爵家を完全に制圧したその手腕、実に見事なものでした。……ですが」
クラリスはそこで言葉を区切り、扇を広げて口元を隠した。
「本当に彼女は、あなたが迎えに来る事を待っているのかしら?」
その一言は、鋭い刃となってギルベルトの胸の奥を抉った。
ギルベルトは顔を上げ、淀みない声で真っ直ぐに答えた。
「彼女には、安全で温かな寝床と、十分な食事、そして何より、誰かに理不尽に虐げられることのない『完璧な居場所』が必要だ。俺はそのために公爵家を屈服させ、彼女を正妻として迎え入れる身分と手筈をすべて整えた。……もし彼女が俺を生涯許さず、愛してくれなくとも構わない。ただ、彼女と俺の子供が、二度と理不尽な運命に涙することのない場所で生きられるのなら、俺は俺自身のすべてを捧げる覚悟だ」
すべてを投げ打つ、強固で情熱的な覚悟。
しかし、その言葉を聞き終えたクラリスの瞳は、微塵も揺らがなかった。それどころか、彼女は呆れたように小さく息を吐き、ピシャリと言い放った。
「それは、閣下の独りよがりではなくて? まるで彼女はあなたの手が無くては生きられないような言い方ですこと……彼女はそんなに弱くは無いわ。思い上がりも甚だしい」
氷の刃のようなクラリスの言葉に、ギルベルトは息を呑んで絶句した。
「彼女は戦時中の飢餓を生き抜き、敗戦国の女としてすべての尊厳を奪われてもなお、己の力で日々の労働をこなし、そして身重の体で国境を越えてみせたのです。貴方が用意したと言うそれは、ただ鉄の檻を黄金の檻に変えただけ。彼女を再び貴方の庇護下に閉じ込めるための、身勝手な自己満足に過ぎませんわ」
ギルベルトは激しく胸を打たれたように言葉を失った。
彼女を理不尽から救い出したいという想いは本物だった。しかし、その根底には「自分が守ってやらなければ」という、無意識の傲慢さが確かに潜んでいたのだ。エレオノーラの気高い精神と、これまでの過酷な境遇を乗り越えてきた逞しさを、彼自身が一番よく知っていたはずなのに。
(俺はまた、彼女の誇りを……一人の人間としての強さを、見くびっていたというのか)
己の独りよがりな保護欲を完璧に打ち砕かれ、ギルベルトは深く目を伏せた。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと、しかし先ほどよりも遥かに重く、地に足の着いた声で口を開いた。
「……夫人のおっしゃる通りだ。俺は思い上がっていた」
ギルベルトの銀灰色の瞳から、執着や保護欲という名の濁りが完全に消え去っていた。そこにあるのは、一人の対等な人間に対する、底知れぬ敬意であった。
「彼女は強い。俺の庇護などなくとも、異国の地で己の足で立ち、必ずや見事に子供を育て上げるだろう。彼女にとっての最善は、俺という厄介事から離れ、自由に生きることだ」
「では、なぜ追うのですか?」
クラリスが試すように問う。
「……俺が、彼女の隣にいたいからだ」
ギルベルトは真っ直ぐにクラリスを見据えた。
クラリスはさらに地を這うような、恐ろしいほどの凄みを帯びた声で問いかけた。
「あなたに、自分の身分を捨てる覚悟はあるのかしら?」
クラリスは手にしていた扇で、自身の掌をパチン、パチンと一定のリズムで打ちながら言葉を続ける。
「何の後ろ盾もない。元あった身分などゴミ同然。今まで自分に頭を垂れていた人間から嘲られ、蔑まれる……そんな覚悟が本当にあるのかしら?」
「それは勿論だ」
ギルベルトは即座に言い切った。彼女のためなら、騎士団長の地位も公爵家の名も、今すぐこの場で捨て去る覚悟はとうにできているつもりだった。
しかし、その淀みない返答を聞いた瞬間、クラリスは深く、心底呆れたような溜め息を一つ吐いた。
「無理ね。口では何とでも言えるわ」
冷酷な宣告だった。クラリスは扇を止め、真っ直ぐにギルベルトを射抜く。
「エレオノーラは、それを耐えてきたのではなくて? 敗戦国の女としてすべてを奪われ、這いつくばって、それでも一人で生きていく道を選んだのよ。今更、身分や権力なんて彼女にとっては何の価値もない。……閣下、貴方は何故身分を捨てる選択をせず、権力に固執したのかしら?」
その言葉は、ギルベルトの急所を正確に貫いていた。
彼女を守るためだと言い訳をして、自分は「公爵」という強大な権力を保持し、安全な場所から彼女を迎え入れようとした。それは、身一つで国境の向こうへと消えた彼女の強絶な覚悟に比べれば、あまりにも安全で、傲慢な手段に過ぎなかったのだ。
何も言い返せず、己の矛盾に打ちのめされて俯く若き騎士団長を見下ろし、クラリスは静かに席を立った。
「……出直しなさい。今のあなたには彼女を幸せにするなんて到底無理な話よ」
交渉決裂。
巨大商会を牛耳る女帝は、ギルベルトが用意した「覚悟」がいかに薄っぺらなものであるかを容赦なく暴き立て、背を向けた。
応接室に一人残されたギルベルトは、自身の拳が白くなるほど強く握り締められていることにすら気づかなかった。
彼女の苦しみを分かった気になっていた己の浅はかさが、どうしようもなく憎かった。身分を整えることなど、彼女の流した血と涙の前では何の価値もなかったのだ。
(俺は……どうすれば、彼女の隣に立つにふさわしい男になれる……)
手掛かりは一切得られなかった。それ以上に、己の在り方そのものを根底から打ち砕かれたギルベルトは、重い足取りでベルーナル商会を後にした。
エレオノーラの決意がどれほどのものか。それを身をもって知らされた彼が、本当の意味で「すべてを捨てる」覚悟を決めるための、長く苦しい問いが始まったのであった。




