第三章
冬の足音が近づくバルツァー王宮の朝は早い。
エレオノーラ・ローゼンタールは、まだ陽が昇りきらぬ薄暗い厨房で、ギルベルト専用の朝食を整えていた。
(……おかしいわ。今朝は、火の匂いがひどく鼻につく……)
普段なら手際よくこなすはずの調理が、今朝はどうにも進まない。焼いた肉の脂の匂いや、立ち昇る湯気の中に混じる微かな香辛料の香りに、喉の奥がせり上がるような不快感を覚える。
エレオノーラは口元を白い手で覆い、静かに呼吸を整えた。
ロランディアの侯爵夫人であった頃、これほどまでに自身の身体を制御できないことなどなかった。戦時中の飢えも、敗戦後の過酷な移動も、彼女はその精神力で乗り越えてきたのだ。
(疲れが溜まっているのね。……無理もないわ)
鏡を見るまでもなく、自分の顔色が優れないことは自覚していた。
ギルベルトの専属となってから、彼女の日常は激変した。昼は彼の身の回りの世話を完璧にこなし、夜は彼の執着に満ちた情欲を受け入れる。二十四歳の血気盛んな騎士団長である彼の愛撫は、時として彼女の体力を限界まで削り取っていく。
「おい、いつまでかかっている」
背後から響いた低い声に、肩が僅かに跳ねた。
振り返ると、漆黒の制服に身を包んだギルベルトが、苛立ったように入り口に立っていた。鋭い銀灰色の瞳が、エレオノーラの所作の一つ一つを射抜くように見つめている。
「申し訳ございません、ギルベルト様。すぐに……」
トレイを持ち上げようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
平衡感覚が消失し、足元の石床が遠ざかる。エレオノーラは必死にトレイを握りしめたが、銀の食器が触れ合う高い音が静かな厨房に虚しく響いた。
(いけない、倒れるわけには――)
倒れかかる彼女の身体を、強引なほどの力で支えたのはギルベルトだった。
分厚い胸板に顔を埋める形になり、彼の制服に染み付いた革と、戦場を渡り歩いてきた男特有の、研ぎ澄まされた香りが鼻腔を突く。それが決定打となった。
「……っ」
エレオノーラは彼の腕を振り払うようにして、近くの桶へ駆け込んだ。
胃の腑を絞り出すような嘔吐感。だが、まともな食事を摂れていない彼女の口から出るのは、苦い胆汁と震える吐息だけだった。
「エレオノーラ!」
ギルベルトの声には、怒りよりも困惑と、そして彼自身も気づいていないような焦燥が混じっていた。
彼は蹲る彼女の細い肩を掴み、強引に自分の方へ向けさせる。
「どうしたというのだ。毒でも盛られたか?」
「いえ……、ただの、風邪かと。……少し、胃の調子が悪いだけですので……」
エレオノーラは乱れた髪を整えようとするが、指先がひどく震えて力が入らない。
この不甲斐ない姿を彼に見られていることが、彼女の矜持を深く傷つけていた。
ギルベルトは彼女の青白い顔を凝視し、その頬を荒っぽく撫でた。彼の掌は熱く、対照的にエレオノーラの肌は雪のように冷え切っている。
「……朝食などどうでもいい。部屋へ戻れ」
「ですが、お仕事が……」
「黙れと言っている。お前の管理を怠ったのは俺だ。これ以上、俺の所有物を無様に損なわせるな」
吐き捨てられた言葉は冷酷だったが、彼はエレオノーラの腰を抱き上げ、軽々と横抱きにした。
騎士団長としての強靭な腕の中で、エレオノーラは抵抗する気力も失い、ただじっと目を閉じた。
(こんな風に、誰かに寄りかかってしまうなんて……)
◆◆◆◆◆
石造りの壁から伝わる冷気が、エレオノーラの肌を刺した。
わずかばかりの陽光が小さな高窓から差し込み、部屋の隅に追いやられた埃を白く照らし出している。
前夜、ギルベルトに半ば強引に連れ戻された自室で、彼女は浅い眠りを繰り返していた。
(本当に、風邪をひいてしまったみたいだわ……)
上体を起こそうとするだけで、鉛を詰め込まれたかのような重みが全身にのしかかる。額にはじっとりと熱い汗が滲み、呼吸をするたびに肺の奥が焼けるように熱い。
かつてロランディアの侯爵夫人として過ごしていた頃、風邪をひけば絹の寝具に包まれ、熟練の侍女たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。だが今は、戦勝国の端くれに置かれた使用人に過ぎない。
(私が休めば、あの方の執務に支障が出る。……行かなければ)
エレオノーラは震える指先で、枕元に置かれた灰色の使用人服を引き寄せた。
ギルベルトは騎士団長という重責を担う身だ。彼の専属である自分が倒れれば、代わりの者が入ることになる。それは彼を余計に苛立たせ、余計な騒ぎを起こすことになりかねない。
何より、彼の「所有物」として、無様な姿を見せ続けることは彼女の矜持が許さなかった。
壁に手を突き、慎重に立ち上がる。足元がふわふわと頼りなく、視界がチカチカと明滅した。
冷たい水で顔を洗い、無理やりにでも意識を覚醒させようと、彼女は数歩踏み出した。
だが、その瞬間だった。
脳内を激しい火花が散ったかのような衝撃が走り、平衡感覚が完全に消失する。
(あ――)
悲鳴を上げる余裕もなかった。
エレオノーラの細い身体は、なす術もなく石床へと倒れ込んだ。
そばにあった陶器の水差しが床に叩きつけられ、甲高い破砕音と共に、周囲に水が飛び散る。鈍い衝撃が彼女の肩を打ち、そのまま深い闇へと引き摺り込まれそうになった。
その直後。
古びた木製の扉が、外側から蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
「エレオノーラ!」
部屋に飛び込んできたのは、焦燥を剥き出しにしたギルベルトだった。彼の銀灰色の瞳が、冷たい水浸しの床に横たわる彼女を捉え、恐ろしいほどに揺れる。
彼に続いて部屋へと入ってきた副団長のクラウス・ヴェルナーが、いつもの穏やかな表情を消しエレオノーラの傍へ寄ると額に手を置く。
「……ひどい熱だ。団長、彼女を床から離さないと」
クラウスの冷静な、しかしどこか険を含んだ声が狭い部屋に響く。
ギルベルトは返事もせず、弾かれたように膝をつくと、濡れるのも構わずエレオノーラを抱き上げた。その腕の震えが、気を失いかけた彼女の肌にも伝わってくる。
「おい、しっかりしろ! エレオノーラ!」
叫ぶような彼の声。
エレオノーラは薄らと目を開けたが、視界にある彼の顔はひどく歪んで見えた。漆黒の髪が乱れ、常に厳格だった彼の表情が、まるで大切な宝物を壊してしまった子供のように絶望に染まっている。
(……申し訳、ございません……)
謝罪の言葉は声にならず、彼女の意識は再び深い混濁の中へと沈んでいった。
抱きしめる腕の力が、壊れ物を慈しむかのように、いっそ痛いほどに強まったことだけを、微かな記憶に刻んでいた。
冷たいベッドにエレオノーラを静かに横たわらせると、ギルベルトは血の気が引いた彼女の顔を見つめたまま、背後に立つ副団長へ低く命じた。
「クラウス、すぐに医官を呼べ」
「団長、王宮の医官は敗戦国の使用人を診ることを渋る可能性があります。手遅れになってはいけません」
騎士団に属する彼らは、剣による傷や打撲の処置には長けている。しかし、目に見えぬ病魔は勝手が違った。強靭な肉体を持つ自分たちとは違い、彼女は細く脆い女性なのだ。ただの風邪だと素人判断を下せば、取り返しのつかない事態を招きかねない。
その事実が、ギルベルトの背筋を冷たい汗となって伝う。
クラウスは主の焦燥を的確に読み取り、冷静な声で続けた。
「では、私の実家であるヴェルナー伯爵家の主治医を手配しましょう。彼なら口も堅く、腕も確かです」
「……頼む」
「すぐ戻ります」
クラウスが足早に部屋を立ち去ると、室内にはエレオノーラの浅く熱を帯びた呼吸音だけが残された。
ギルベルトはベッドの傍らに膝をつき、自身の清潔な布を取り出すと、彼女の額に滲む汗を慎重に拭った。透けるように白い肌は、今は痛ましいほどに青ざめている。
ふと顔を上げたギルベルトは、改めて彼女に与えられた部屋の様子を見渡した。
そして、己の胸の奥が冷たく硬い手で鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。
――何もない。
殺風景な四角い空間には、粗末なベッドと小さな木箱が一つあるだけだった。女性らしい私物はおろか、生活感の欠片すら見当たらない。もし今、ベッドに横たわる彼女の姿がなければ、誰も使っていない空き部屋だと見間違えるほどに、そこには「エレオノーラという人間の痕跡」が存在していなかった。
彼女は、ロランディアの侯爵夫人という華やかな過去をすべて奪われ、この凍えるような部屋で、ただ独り息を潜めるように生きてきたのだ。
(俺は、こいつを自分の専属だと言いながら……)
ギルベルトは、ふと疑問に思い至る。
彼女はいつ、何を食べているのだろうか。
日中は自分の執務室の清掃や身の回りの世話を完璧にこなし、夜は己の激しい情欲の捌け口として夜明け近くまで付き合わされている。その過酷な日々のどこに、彼女自身が休息を取り、自身の身体を養う時間があったというのか。
一切の不満を口にせず、何も求めてこない彼女の静かな矜持に甘え、ただ己の欲望を満たすことしか考えていなかった自分自身の浅ましさに、ギルベルトはギリッと奥歯を噛み締めた。
一時間ほどが経った頃、廊下に慌ただしい足音が響き、クラウスが年配の医師を伴って戻ってきた。
「遅くなりました。我が家の主治医です」
息を切らせたクラウスの言葉に、医師は深く頭を下げつつも、すぐに鋭い観察眼をベッドの上のエレオノーラに向けた。
「……ひどい熱ですね。すぐに診察をいたします」
医師は鞄を置きながら、ベッドの傍らから動こうとしない騎士団長を見上げた。
「恐れ入りますが、ギルベルト様、クラウス様。女性の身一つを診察いたしますので、お二人は部屋の外へご退室願えますか」
ギルベルトは一瞬、険のある表情で明確な拒絶を示しかけたが、クラウスが静かにその腕を引いた。
「団長。今は医師に任せましょう」
クラウスの冷静な声に促され、ギルベルトは後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。意識のない彼女を振り返りながら、彼は重い足取りで閉ざされる扉の向こうへと追いやられた。
閉ざされた古びた木扉の前で、ギルベルトは壁に背を預け、深く頭を垂れていた。
常に隙なく整えられている漆黒の髪は乱れ、鋭い銀灰色の瞳には、これまでに見たことのないような暗い自嘲の色が浮かんでいる。
「……俺は、彼女を囲い込みながら、何一つ与えていなかった」
ぽつりとこぼれ落ちた主の独白を、隣に立つクラウスは静かに聞いていた。
「まともな食事も、十分な休息すらも。俺はただ自分の欲望を押し付け、彼女の静かな気高さに甘えきっていただけだ。あの殺風景な部屋が、あいつのすべてだというのに……」
ギリッと、ギルベルトの奥歯が鳴る。彼の手は固く握りしめられ、微かに震えていた。
敗戦国の女として過酷な労働を強いられながらも、決して折れることのなかった彼女の矜持。それを最も近くで見つめ、心惹かれていたはずの自分が、結果的に誰よりも彼女をすり減らし、追い詰めていたのだ。
クラウスは深い緑色の瞳を伏せ、淡々と、しかし確かな重みを持って応えた。
「……団長は、彼女をご自身の『所有物』として扱うことで、心の距離を測り損ねていたのでしょう。ですが、彼女も生身の人間です。この王宮で敗戦国の人間がどのような扱いを受けているか、団長もご存知のはずです」
痛いところを突かれ、ギルベルトは返す言葉を持たなかった。ただ、扉の向こうで苦しむ彼女の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
一方、静寂に包まれた部屋の中。
微かな薬品の匂いが漂う中、エレオノーラはゆっくりと重い瞼を開けた。
ぼやけていた視界が次第に鮮明になり、ベッドの傍らでカルテに何かを書き込んでいる年配の医師の姿を捉える。
「……気が付かれましたか」
穏やかで、思慮深い声だった。エレオノーラはゆっくりと上体を起こそうとしたが、医師が手でそれを制した。
「まだ起きてはいけません。酷い熱と貧血を起こしています。……それに」
医師は一度言葉を切り、扉の方をちらりと確認してから、声を一段と落とした。
「新しい命が、宿っておいでです」
その言葉は、静かな部屋に波紋のように広がった。
エレオノーラは青い瞳をわずかに見開き、そっと自らの平らな腹部へ手を当てた。
戦火で亡くした夫、セオドアとの間には授かることのなかった命。それが今、この過酷な異国の地で、敵国の騎士団長である男との間に芽生えている。
絶望、悲哀、そして僅かばかりの愛おしさ。さまざまな感情が胸の奥で渦巻いたが、ロランディアの侯爵夫人としての気品は、彼女をただ泣き崩れるような真似はさせなかった。
エレオノーラは深く深呼吸をし、医師を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、すでに揺るぎない決意が宿っている。
「……先生。お願いがございます」
「なんでしょうか」
「このことは、外にいるお二方には伏せておいていただけないでしょうか。あの方には……時期を見て、私から自分の口で伝えます」
医師は少しだけ驚いたように眉を動かしたが、彼女の静かで芯のある表情を見て、短く息を吐いた。
ヴェルナー伯爵家の主治医として、貴族社会の裏側や複雑な事情は嫌というほど見てきている。バルツァー公爵家の唯一の跡継ぎと、敗戦国の使用人。二人の間に子供ができたとなれば、どのような波紋を呼ぶか、火を見るよりも明らかだった。
「……承知いたしました。では一先ず外のお二方には、疲労の蓄積と極度の栄養失調による体調不良とお伝えしておきます」
「ありがとうございます」
「ですが」
医師は鞄を手に取ると、真摯な眼差しでエレオノーラを見下ろした。
「どうなさるかは……あなた次第ですが、今はお一人の身体ではありませんから、くれぐれも気をつけて過ごされますように」
その言葉に、エレオノーラは静かに頷いた。
医師が部屋を去るために扉へと歩き出す。開かれる扉の向こうには、己の罪悪感に苛まれ、今にも壊れそうな顔をした不器用な男が待っているはずだ。
(私は、あの方の足枷にはなれない。あの方の輝かしい未来を、奪うわけにはいかないわ)
腹部を撫でる彼女の手には、母としての慈愛と、愛する男との別れを受け入れる冷たい覚悟が満ちていた。
重々しい木扉が静かに開き、年配の医師が姿を現した。
壁に背を預けていたギルベルトとクラウスが、弾かれたように顔を上げる。医師は二人の鋭い視線を受け止めながら、ゆっくりと口を開いた。
「……命に別状はございません。ですが、極度の栄養失調と、長きにわたる疲労の蓄積により、お身体は限界を迎えておられます」
「栄養失調、だと……」
ギルベルトの声が、微かに震えていた。医師はエレオノーラとの約束を違えることなく、手元の鞄を握り直して言葉を続ける。
「しばらくは、消化が良く栄養のあるものを召し上がっていただくように。冷えも大敵です。……何かあれば、またお呼びください」
「……あぁ、感謝する」
クラウスが手短に礼を述べると、医師は静かに一礼し、足早にその場を後にした。
廊下に残された二人の間には、重苦しい沈黙が降りていた。ギルベルトは固く目を閉じ、一度だけ深く息を吐き出すと、決意を固めたようにエレオノーラの部屋へと足を踏み入れた。クラウスも静かにその後へ続く。
室内は水を打ったように静まり返っていた。
ベッドに横たわるエレオノーラは、薄暗い石造りの天井を静かに見つめている。微かに開かれた青い瞳には、どこか遠い世界を見透かしているかのような、透明な諦念が漂っていた。
ギルベルトの足音に気付き、彼女がゆっくりと視線を巡らせる。
彼が近づいてきたため、エレオノーラは無意識のうちに身体を起こそうと毛布に手をついた。しかし、ギルベルトはそれを手で制することなく、ただベッドの傍らで立ち止まると、思いがけない行動に出た。
――誇り高きバルツァーの王国騎士団長が、敗戦国の使用人に向かって、深く頭を下げたのだ。
「……すまなかった」
絞り出すような、低く掠れた声だった。
公爵家の唯一の跡継ぎとして、常に他者を見下ろす位置に立ってきた男の、不器用すぎる謝罪。
「俺は、お前を己の傍に置きながら、お前がどれほど削られているかを見ようともしなかった。お前をここまで追い詰めたのは、俺だ」
その後ろで、常に冷静沈着な副団長のクラウスもまた、主の姿に続くように静かに頭を垂れた。
「私からも、深く謝罪いたします、エレオノーラ。騎士団の内部を管理する立場にありながら、貴女の置かれた過酷な生活環境を見落としておりました。私の監督不行き届きです。本当に申し訳ありませんでした」
バルツァーの要とも言える二人の男からの、真摯な謝罪。
エレオノーラは目を瞬かせ、彼らの頭頂部をただ静かに見つめた。
彼女がかつてロランディアの侯爵夫人であった頃でさえ、敵国の最高位の騎士たちがこれほど無防備に頭を下げる姿など、想像すらできなかっただろう。彼らは本気で彼女の命を案じ、己の非を深く恥じているのだ。
(……違うのです。私が倒れたのは、決してそれだけの理由ではないわ)
胸の奥で、小さく声が響く。
自身の内に芽生えた新たな命の存在。それこそが、彼女の身体から急速に活力を奪っている本当の理由だった。
だが、その真実を口にすることはできない。今この場で真実を告げれば、頭を下げる不器用な男の未来を確実に破滅へと導いてしまう。
「……どうか、お顔を上げてくださいませ」
エレオノーラは静かに、しかし凛とした声で紡いだ。
彼女の青い瞳には、一切の憎しみも、同情を引こうとする卑屈さもない。ただ、愛する男の未来を守るために彼から離れるという、鋼のような決意だけが静かに燃え続けていた。
「……私こそ、体調管理が出来ておらず、お二人には多大なご迷惑をお掛け致しました」
エレオノーラは未だ蒼白い顔のまま、静かにそう告げた。
恨み言の一つも口にせず、己の非を詫びるその声に、ギルベルトは顔を歪ませて深く息を呑んだ。責められるよりもずっと深く、彼女の誇り高い言葉が彼の胸を抉る。
その日から、エレオノーラには一切の労働が禁じられ、絶対の休養が言い渡された。
そして彼女の元には、一日三度、決まってギルベルトかクラウスのどちらかが食事を運んでくるようになった。それは硬い黒パンと具のない薄いスープという使用人の賄いとは全く違う、柔らかく煮込まれた肉や温かいスープ、新鮮な果物といった、栄養価の高い滋味に富んだものだった。
王国騎士団のトップである二人が、自ら一介の使用人の給仕をしているのには理由があった。
エレオノーラが倒れた直後、クラウスが独自に騎士団内の内情を調査したのだ。その結果、判明した事実はギルベルトを激怒させた。
バルツァーの使用人たちは、敗戦国から連行されてきた上に、かつて高位貴族であったエレオノーラを酷く妬み、憎んでいた。彼女がこの王宮へ連行されてきたあの日から、彼らは徒党を組み、エレオノーラからまともな食事を奪い続けていたのだ。
『団長。自国の使用人たちは信用できません。これ以上、彼女の命を彼らの悪意に晒すわけにはいかない』
『……あぁ。俺かお前以外、何人たりともあの部屋に入れるな』
そう決断した二人は、多忙な執務の合間を縫って、自らの手でエレオノーラを守り始めた。
数日が過ぎる頃には、手厚い看護と十分な栄養のおかげで、エレオノーラの頬にもわずかながら赤みが戻りつつあった。
ある日の夕刻、部屋を訪れたのはギルベルトだった。彼は不器用な手つきで、湯気を立てるシチューの入った銀のトレイを小さな木箱の上に置く。
「……具合はどうだ」
「おかげさまで、随分と良くなりました。いつもお心遣い、感謝いたします」
「気にするな。……冷めないうちに食え」
ベッドの傍らに立ち、彼が静かに目を伏せる。
以前の彼であれば、ただ己の欲望を満たすためだけにこの部屋を訪れていた。しかし今のギルベルトは、まるで壊れ物に触れるかのように彼女を扱い、その瞳には痛切なまでの慈しみが宿っていた。
その優しさに触れるたび、エレオノーラの胸は引き裂かれそうになった。
(こんなにも不器用で、真っ直ぐな方……。だからこそ、私は)
彼が自分に向ける熱情が、ただの支配欲ではなく、彼なりの深い愛情なのだと、今の彼女には痛いほどに理解できていた。そして彼女自身もまた、この孤独で誇り高い騎士団長を愛してしまっている。
だからこそ、己の内に宿る命の存在を隠し続けることはできなかった。
彼女のお腹の中で育つ命は、やがて隠しきれないほどに膨らむだろう。バルツァー公爵家の唯一の跡継ぎである彼に、敗戦国の女が身籠ったという事実が知れ渡れば、彼の輝かしい未来は確実に閉ざされる。
(一日でも早く、お伝えしなければ。そして、私はここを去るのだわ)
食事が終わり、トレイを片付けようとギルベルトが手を伸ばした時だった。
エレオノーラは静かにベッドの上で居住まいを正し、彼を真っ直ぐに見上げた。深い海のような青い瞳が、揺るぎない決意を湛えて彼を捉える。
「……ギルベルト様」
「なんだ」
「折り入って、お話がございます」
普段とは違う、静まり返った彼女の声の響きに、ギルベルトの手が止まった。
窓の外では、冷たい夜風が吹き始めている。二人の運命を決定づける夜が、幕を開けようとしていた。
部屋の空気は、ピンと張り詰めた糸のように冷たい緊張を帯びていた。
ギルベルトはベッドの傍らに立ったまま、微かに眉をひそめ、彼女の次の言葉を待っている。
エレオノーラは、自らの平らな腹部にそっと両手を添えると、真っ直ぐに彼の銀灰色の瞳を見つめ返した。
「……私の内に、新しい命が宿っております」
静寂の中、その声はひどく透き通って響いた。
ギルベルトの表情が、一瞬だけ完全に空白になる。彼の中で、先日の彼女の卒倒や、口を濁した医師の態度、そして今目の前で腹部に手を当てる彼女の姿が、ひとつの決定的な事実として結びついた。
「……命、だと」
低く掠れた声が漏れる。大きく見開かれた彼の瞳には、驚愕と、そして彼自身も予期していなかったであろう、微かな歓喜の火が揺らいだ。だが、エレオノーラはその火を自らの手で消さなければならない。
「はい。ですから……」
「ならば、すぐに環境を整えさせよう。こんな狭く冷たい部屋ではなく、もっと日当たりの良い、安全な場所へ移す。専属の侍女もつけ、食事も――」
早口にまくし立て、彼女の肩を抱き寄せようと手を伸ばしたギルベルトを、エレオノーラは静かに、しかし明確な意思を持って拒絶した。伸ばされた彼の厚い手を、冷たい指先でそっと押し返す。
「ギルベルト様。そうではありません」
「……どういう意味だ」
拒絶された手を行き場のないまま宙に浮かせ、ギルベルトは顔を険しく歪めた。焦燥感が、彼の冷静さを徐々に奪い始めている。
「あなたはバルツァー公爵家の唯一の跡継ぎであり、この国の未来を担う王国騎士団長です。敗戦国の、しかも使用人の身分である女があなたの子を身籠ったと知れれば、あなたの輝かしい名誉と経歴に致命的な傷がつきます。公爵家そのものを揺るがす事態になりかねません」
「そんなもの、俺は気にも留めん! 誰が何と言おうと、お前と腹の子は俺が守る。だから、黙って俺の傍にいろ!」
それは、彼なりの不器用で必死な愛の告白だったのかもしれない。
だが、エレオノーラの決意は、そんな情熱で揺らぐほど脆くはなかった。彼女が愛した男の未来を、彼女自身の手で泥に沈めることなど、ロランディアの侯爵夫人としての矜持が断じて許さないのだ。
「私がそれを許せません」
凛とした声が、彼の必死の説得を冷酷なまでに断ち切った。
「お腹が目立つ様になる前に、私はここを去ります。ギルベルト様にご迷惑は決してお掛け致しません。この子を産むことだけお許し下さい」
(たとえ平民として、名もなき女として一人で生きていくことになろうとも。あの方と繋がるこの命だけは、何としても守り抜くわ)
深く頭を下げるエレオノーラの銀糸の髪が、微かに揺れる。
ギルベルトは絶句した。彼がどれほど力を尽くし、どれほど強い言葉で繋ぎ止めようとしても、彼女の心はすでに彼の手の届かない場所で、ひとつの強固な決断を下してしまっている。
彼女が、自分のもとから去る。
その事実が突きつけられた瞬間、ギルベルトの胸の奥底で、何かが決定的に壊れる音がした。
石造りの部屋に、重く冷たい沈黙が降り積もっていく。
王国騎士団長として数多の死線を潜り抜け、いかなる窮地にあっても瞬時に活路を見出してきたギルベルトの明晰な頭脳は、今この瞬間、完全に機能を停止していた。
自分の子を身籠った女が、自分を守るためにすべてを捨てて去っていく。
突きつけられたその絶対的な拒絶と決別の宣言に、ギルベルトは理解が追いつかず、ただ目の前で静かに頭を下げるエレオノーラを見据えることしかできなかった。
何か言葉を発しようと微かに唇を動かすが、声にならない。
無理矢理にでも力で押さえつけ、己の腕の中に閉じ込めてしまえばいい。そう本能が叫ぶ一方で、彼女が纏うロランディアの侯爵夫人としての気高きオーラが、彼を不可視の壁となって弾き返していた。これ以上強引に触れれば、彼女の誇りを完全にへし折り、二度と取り返しのつかないほど心を引き裂いてしまうと、彼自身が誰よりも理解してしまっているのだ。
「……勝手をお許し下さい」
エレオノーラは、伏せていた深い海のような青い瞳を上げ、静かにそう紡いだ。
その声音には、哀願も、揺らぎもない。ただ一つの真実だけがそこにあった。
ギルベルトはギリッと強く奥歯を噛み締め、やり場のない感情に耐えるように固く拳を握り込んだ。銀灰色の瞳には、怒りとも悲哀ともつかない、ひどく複雑で痛ましい色が渦巻いている。
「……少し、頭を冷やしたい」
血を吐くような低い声だった。
ギルベルトはそれ以上彼女の顔を見ることができず、弾かれたように踵を返した。漆黒の軍服の裾が乱暴に翻り、逃げるように部屋を出て行く。
重厚な木扉が鈍い音を立てて閉ざされると、室内には再び、息が詰まるほどの静寂だけが残された。
一人残されたエレオノーラは、扉を見つめたまま、小さく息を吐き出した。
ベッドのシーツを握る彼女の手は、微かに震えていた。愛する男にあのような傷ついた顔をさせてしまった罪悪感が、彼女の胸を鋭く締め付けている。
(あの方は、ひどく動揺しておいでだった。……けれど、いずれ必ず気を取り直して戻っていらっしゃる)
エレオノーラは、ギルベルトの苛烈な性格と、自分に対する常軌を逸した執着を痛いほど知っている。
今は混乱し部屋を出て行ったが、彼が頭を冷やし、現状を整理した時、必ず力を行使してでも彼女をこの王宮に、己の傍に縛り付けようとするだろう。部屋の外から鍵をかけられ、一切の自由を奪われる可能性すらある。
そうなってからでは、もう決して彼から離れることはできなくなる。
(迷っている暇はないわ。ここを発つなら、早い方がいい……)
エレオノーラは静かにベッドから降り、冷たい石床の上に立った。
幸いなことに、先ほどまで彼が無理にでも食べさせてくれていた栄養のある食事のおかげで、足元はしっかりと地を捉えることができている。
お腹の小さな命を守り、そして何より、愛する男の輝かしい未来を守るために。彼女は誰にも気づかれぬよう、早急にこの王宮から抜け出す算段を頭の中で組み始めた。
ギルベルトの足音が廊下の奥へと完全に消え去るのを見計らい、エレオノーラは行動を開始した。
(出て行くなら、あの方が戻られる前の、今夜のうちしかないわ)
元より、この殺風景な部屋に私物と呼べるものはない。寝巻き代わりにもしている灰色の使用人服の埃を払い、乱れた銀糸の髪をきつく結び直すだけで、彼女の身支度は完了した。
王宮の構造や、騎士団の夜間警備の巡回経路は、日々の過酷な雑用をこなす中で頭に叩き込んである。裏門を抜けて街へ下り、そこから身分を隠して他国へと向かう行商人の荷馬車に紛れ込む。手持ちの金など一銭もないが、侯爵夫人としての威厳と交渉術があれば、何とか乗り切れるはずだった。
お腹の膨らみが目立たない今のうちであれば、誰にも疑われることなく遠くへ逃げ延びることができる。
エレオノーラは冷たいノブに手をかけ、音を立てないようにゆっくりと重い木扉を開いた。
冬の夜風が吹き込む薄暗い石造りの廊下へ、一歩足を踏み出そうとした、その時だった。
「……出て行くなら、手を貸すよ? 一人では大変でしょう。……あなたは、目立つからね」
闇の中から不意にかけられた静かな声に、エレオノーラの肩がびくりと跳ねた。
声の主は、廊下の壁に背を預け、腕を組んでこちらを見つめていた。廊下の燭台から漏れる微かな灯りが、束ねられた栗色の長い髪と、深い緑色の瞳を照らし出す。
王国騎士団副団長、クラウス・ヴェルナー。
エレオノーラは咄嗟に身構え、鋭い警戒の光を宿した青い瞳を彼に向けた。
彼はギルベルトの右腕であり、この騎士団の事実上の頭脳だ。ここで彼に見つかったということは、すでに逃亡の計画が露見し、ギルベルトの命令で彼女を捕らえに来たのではないか。
じりりと後ずさりをしたエレオノーラに対し、クラウスは敵意がないことを示すように、ゆっくりと両手を軽く上げて見せた。その中性的な顔立ちには、すべてを見透かしたような、どこか食えない笑みが浮かんでいる。
「そんなに警戒しないでほしいな。団長の命令じゃない。これは私の独断だ」
「……なぜ、副団長様が私に手を貸すのですか。私は、敗戦国の戦利品に過ぎないというのに」
張り詰めた声で問う彼女に、クラウスは静かに歩み寄った。
「大丈夫。団長の性格は、私が嫌という程知っているからね」
クラウスは短く息を吐き、主の姿を思い浮かべるように目を細めた。
「あの人は不器用で、実直すぎる。そして、一度手に入れた絶対的な執着を手放す術を知らない。……あのまま頭を冷やしたところで、彼が出す結論は火を見るより明らかだ。彼は自分の立場も公爵家の名誉もすべて放り出し、力ずくであなたをこの王宮に幽閉するだろう」
クラウスの言葉は、先ほどエレオノーラ自身が辿り着いた最悪の予測と完全に一致していた。
「彼が破滅へと向かうのを、副団長として黙って見過ごすわけにはいかないからね。それに、あなたのその気高き決断には、個人的にも敬意を表したい」
クラウスはそう言うと、持っていた黒い外套を彼女の肩にふわりと掛けた。それは、彼女の銀糸の髪と透けるような白い肌を闇に溶け込ませるための、彼なりの配慮だった。
「裏門の警備は、私の権限で少しの間だけ手薄にしてある。街へ下る手筈も整えよう。……行くなら、急いだ方がいい」
そう言うと、クラウスは自身の懐から小さな革袋と、布に包まれた持ち運びのしやすい軽食を取り出し、彼女の手にそっと握らせた。ずしりとした重みから、中には十分な金貨が入っていることがわかる。
「これは今までの給金と思って。あなたは一人の身じゃないんだ」
彼の深い緑色の瞳には、嘘や罠の気配は微塵もなかった。
エレオノーラは彼がただの傍観者ではなく、極めて冷静に状況を判断し、主君の未来と彼女の身を案じて共犯者となる道を選んだのだと悟った。
「……ご恩は、一生忘れません」
エレオノーラは侯爵夫人としての美しい所作で深く一礼すると、クラウスが差し示した暗い廊下の奥へと、迷いのない足取りで進み始めた。
月雲に隠された薄暗い夜道を抜け、王宮の裏門をくぐり抜けた先。
冷たい風が吹きすさぶ中、少し離れた木立の影に、一台の質素な商人の荷馬車がひっそりと待機していた。
エレオノーラが外套のフードを深く被り、周囲を警戒しながら足早に近づいていくと、馬車の御者台に座っていた大柄な男が微かに動き、小さなランプを掲げた。男は顔を深く隠していたが、その隙のない身のこなしには、ただの御者とは思えぬ威厳が漂っている。
「……あなたが、エレオノーラ?」
馬車の中から身を乗り出した女性が、声を潜めて問いかけた。
オレンジ色の灯りに照らし出されたその顔立ちは、理知的な光を宿した深い緑色の瞳を持ち、副団長クラウスに驚くほどよく似ていた。
「はい。あの、あなたは……」
「クラウスから、話は少し聞いているわ」
女性はエレオノーラの問いを遮るように、しなやかな動きで手を伸ばすと、彼女の腕を引いて荷馬車の幌の中へと招き入れた。自らも素早くその空間に滑り込むと、前方の御者台に向かって短く合図を送る。
「話し込んでいる時間はないわ。出して、あなた」
御者の男が手綱を鋭く弾くと、馬のいななきと共に車輪が石畳を蹴り始めた。ガタガタと揺れる荷馬車は、巨大で無機質な黒岩のバルツァー王宮を背にし、王都の闇に紛れるようにして走り出していく。
幌の中には、仄かに香辛料や茶葉、そして上質な紙の香りが漂っていた。
エレオノーラは揺れる車内で体勢を整え、お腹を庇うように両手を重ねて小さく息を吐いた。向かいに座る女性は、落ち着いた色合いながらも最高級のシルクをあしらった旅装に身を包み、優雅な微笑を浮かべている。
「あの……。助けていただき、本当にありがとうございます。あなたは、一体……」
問いかけるエレオノーラに対し、女性は誇らしげに目を細めた。
「私はクラリス・ベルーナル。クラウスの姉よ。……外で馬を走らせているのは私の夫。ベルーナル伯爵家の当主自ら御者を務めるなんて、後にも先にも今回限りでしょうね」
エレオノーラは思わず息を呑んだ。
ベルーナル伯爵家といえば、バルツァー王国でも指折りの巨大商会を束ねる家門であり、この国の流通の心臓部を担っていると聞き及んでいた。その当主夫妻が、直々に自分の逃亡を手伝っているという事実に、クラウスの用意周到さと、彼らがどれほどの覚悟でこの共犯関係に加わっているのかを思い知らされる。
「弟からあなたの事を聞いたわ。バルツァーを抜けるまで、全力で手助けして欲しいってね。あんなに必死なクラウスの頼みを聞かないわけにはいかないでしょう?」
クラリスはそう言うと、座席の横に用意されていた厚手の毛布をエレオノーラの膝にかけ、温かいハーブティーの入った水筒を差し出した。
「国境まではベルーナル商会の秘密の流通路を使うわ。身重の身体で、しかもこれほどの美貌の持ち主が一人で逃げ切れるほど、この国は甘くない。……安心しなさい。私たちに任せれば、ネズミ一匹通さずにあなたを安全な場所へ運んであげる」
その言葉に含まれた確かな自信と優しさに、エレオノーラは微かに目を潤ませ、深く頭を下げた。
(……ごめんなさい、ギルベルト様)
ガタガタと揺れる馬車の窓から、遠ざかっていく王宮の影が見える。あの中には、今もなお自分のために葛藤し、愛を叫ぼうとしている男がいる。
(私は、あの方を裏切る。けれど、これでいいの。あの方の輝かしい未来に、私という泥を塗るわけにはいかないから……)
エレオノーラは静かに目を閉じ、自分の中に宿る小さな命の鼓動と、馬車の揺れに身を任せた。夜の闇が、彼女の決意を包み込むように深まっていった。
◆◆◆◆◆
白々と夜が明け、冬の冷たい朝光が王宮の石壁を青白く照らし始めた頃。
一晩中執務室に籠り、荒れ狂う感情を押し殺し続けていたギルベルトは、重い足取りでエレオノーラの部屋へと向かった。
扉を開ければ、そこにはいつものように、静かに、だが凛とした佇まいで自分を待つ銀髪の夫人がいるはずだった。彼女の瞳を見れば、昨夜の混乱した自分を恥じ、改めて彼女と、そして宿った命を守るための言葉が見つかるはずだと信じていた。
だが、扉を押し開けたギルベルトの視界に飛び込んできたのは、無機質な静寂だった。
「……エレオノーラ?」
低く呼ぶ声に答える者はいない。
ベッドのシーツは整えられ、わずかばかりの彼女の痕跡すらも、冷たい朝の空気に浚われてしまったかのように消えていた。殺風景な部屋は、彼女が現れる以前の「空き部屋」へと完全に戻っていた。
ギルベルトの脳裏に、昨夜の彼女の決然とした表情が蘇る。
――お腹が目立つ様になる前に、私はここを去ります。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。彼は弾かれたように部屋を飛び出し、廊下を大股で歩き出した。向かう先は、ただ一人。この短時間で、これほど完璧に彼女を連れ出せる男など、この国に一人しかいない。
「クラウス!!」
副団長室の扉が、凄まじい音を立てて開かれた。
机に向かい、何事もなかったかのように書類にペンを走らせていたクラウスは、鬼気迫る表情のギルベルトを一瞥し、静かにペンを置いた。
「朝から騒々しいですね、団長。……いえ、こうなることは分かっていましたが」
「エレオノーラをどこへやった。貴様の仕業だな!」
ギルベルトがクラウスの襟首を掴み上げ、壁に叩きつける。鋭い銀灰色の瞳が、かつてないほどの殺意と焦燥で濁っていた。
しかし、クラウスは抗うこともなく、深い緑色の瞳で真っ直ぐに主君を見つめ返した。
「ええ、認めましょう。彼女を逃がしたのは私です。今頃はベルーナル商会の網の中。貴方がどれほど騎馬を走らせても、もう追いつくことはできません」
「貴様......! なぜだ! なぜ俺を裏切った!」
「裏切ったのは貴方の方だ、ギルベルト」
クラウスの冷徹な声が、ギルベルトの激情を真っ向から切り裂いた。
「貴方は彼女を愛していると言いながら、その実、自らの立場に甘え、彼女を『敗戦国の女』という檻に閉じ込め続けていた。彼女が身籠ったと知った時、貴方はどうするつもりでしたか? 隠し部屋に囲い、公爵家の汚点としてひっそりと産ませるつもりでしたか? それが、彼女の誇りをどれほど踏みにじる行為か、考えもしなかったのですか」
ギルベルトの腕の力が、僅かに緩む。クラウスの言葉は、鋭い剣よりも深く彼の急所を突いていた。
「彼女は貴方を愛しているからこそ、貴方の未来を汚したくないと願った。そして、自分の子に『日陰者の私生児』という呪いをかけたくなかった。だから彼女は、一人で茨の道を選んだのです。貴方は、自分を犠牲にしてまで貴方を守ろうとした彼女の決意を、ただの独占欲で踏みにじるつもりですか」
(俺は……彼女を、そこまで追い詰めていたのか)
クラウスに突き付けられたのは、抗いようのない冷酷な現実だった。
王国騎士団長という地位も、公爵家の跡継ぎという身分も、今のままでは彼女を救うための盾ではなく、彼女を切り裂く刃でしかなかった。今の自分に、彼女を堂々と妻として迎え、その子を嫡男として抱く権利など微塵もない。
ギルベルトは力なくクラウスを放し、よろめくように壁に手をついた。
拳を血が滲むほど固く握り締め、彼は深く、長く、嗚咽にも似た息を吐き出す。
「……クラウス。貴様の言う通りだ」
しばらくの沈黙の後、ギルベルトが顔を上げた。その瞳からは、先ほどまでの盲目的な激情が消え、代わりに底知れぬほど深く、狂気じみた決意の光が宿っていた。
「俺は、今のままの自分ですべてを手にしようとしていた。……だが、それでは足りないのだな」
ギルベルトは乱れた制服を無言で整えると、そのまま副団長室を後にした。
彼が向かったのは、王宮の出口ではなく、王都の最高位貴族街に構える、自身の生家――シュバルツバルト公爵邸だった。
家督を継ぐための道具としての自分を捨て、彼女を「公爵夫人」として迎えるための地獄へ、彼は自ら足を踏み入れた。その背中には、愛する女を取り戻すためなら、地位も名誉も、そして家門そのものさえも灰にするという、凄絶な覚悟が漂っていた。
◆◆◆◆◆
馬車の車輪が弾く石畳の音が、いつしか土と砂利のくぐもった音へと変わっていた。
夜明けの白々とした光が空を染め始める頃、エレオノーラを乗せたベルーナル商会の荷馬車は、バルツァー王国の国境へと差し掛かっていた。厚い幌越しにも、外の空気が一段と冷たさを増しているのがわかる。
向かいの席に座るクラリスが、揺れる車内で静かに口を開いた。
「……国境を超えたら、私たちの役目は終わりよ。そこからは一人で生きていくことになるけれど、大丈夫?」
心配そうに緑色の瞳を細める彼女に、エレオノーラは真っ直ぐに視線を返し、静かに頷いた。
(これ以上、ベルーナル伯爵夫妻に甘え、迷惑をかけるわけにはいかないわ)
副団長であるクラウスや、巨大商会を束ねる伯爵家の力は確かに強大だ。しかし、ギルベルトの生家であるシュバルツバルト公爵家は、建国から王家を支え続けてきたバルツァーの最高位貴族である。もしギルベルトが我を忘れ、公爵家の絶大な権力と武力を行使してエレオノーラを捜索し始めれば、伯爵家など一溜まりもなく吹き飛ばされてしまうだろう。
自分のために、これ以上誰かの未来を壊したくはなかった。
国境の検問は、御者台に座るベルーナル伯爵の堂々たる振る舞いと商会の通行証により、拍子抜けするほどあっさりと通過することができた。
バルツァー王国の領地を完全に抜け、人けのない異国の街道の分岐点で荷馬車は静かに停まった。エレオノーラは幌から降り立ち、肺の奥まで冷たく澄んだ空気を吸い込んだ。
「……エレオノーラさん」
御者台から降りてきた大柄なベルーナル伯爵が、彼女の前に進み出た。彼は分厚い外套の懐から、銀色に輝く重厚な懐中時計を取り出し、エレオノーラの細い手にそっと握らせた。
その表面には、ベルーナル伯爵家の家紋が精緻に刻み込まれている。
「これは……」
「困った事があれば、各地の商会でそれを見せれば助けになってくれます」
伯爵は穏やかな、しかし確かな重みを持った声でそう告げた。
傍らに立つクラリスも、エレオノーラの肩を優しく撫でる。
「ふふ、私たちはいつでもあなたの味方よ。……元気な赤ちゃんを産んでね」
「……っ、ありがとうございます。お二人のご恩は、生涯忘れません」
エレオノーラは溢れそうになる涙を必死に堪え、侯爵夫人としての最も美しく、深い礼を伯爵夫妻に捧げた。
朝霧の向こうへと去っていく荷馬車を見送りながら、彼女は冷たい懐中時計を胸に抱く。お腹に宿る小さな命を守り抜くため、彼女は名もなき平民としての第一歩を力強く踏み出した。
◆◆◆◆◆
その頃。
バルツァー王都の中心部、王宮に隣接する広大な敷地を誇るシュバルツバルト公爵邸。
何百年もの歴史を刻む美術品や重厚な調度品に囲まれた豪奢な応接室には、肌を刺すような凍てついた空気が満ちていた。
上座の豪奢な長椅子に腰を下ろしているのは、バルツァー王国の重鎮である公爵家当主と、その妻。
そして二人の目の前には、漆黒の騎士団長制服を纏い、髪を乱したギルベルトが、抜身の刃のような鋭い殺気を隠すこともなく対峙していた。
最愛の女を取り戻し、彼女を己の妻として、公爵夫人として迎え入れるため。彼は己のすべてを懸け、絶対的な権力を持つ両親へと牙を剥こうとしていた。
先ほどまでギルベルトの口から語られた真実――敗戦国ロランディアの元侯爵夫人を愛し、彼女が自分の子を身籠ったこと。そして、彼女を正妻として迎えるために、公爵家の跡継ぎという座を捨てる覚悟があること。
その信じ難い告白は、数百年もの歴史を誇る公爵邸の応接室に、氷のように冷たく重い沈黙をもたらしていた。
「ギルベルト、あなた今何と言ったの?」
張り詰めた空気を引き裂いたのは、上座で顔面を蒼白にさせた母の震える声だった。
信じられないものを見るような母の視線を正面から受け止めたまま、ギルベルトは瞬き一つせず、ただ静かに立ち尽くしている。
「……何度でも申し上げます、母上。私は、エレオノーラを妻に迎え、彼女のお腹にいる私の子を育てます。それが許されないのであれば、私はこのシュバルツバルトの名も、騎士団長の地位も、すべて捨て去る覚悟です」
「いい加減にしろ!!」
直後、鼓膜を打つような怒声と共に、分厚い黒檀のテーブルが激しく叩きつけられた。
公爵家当主である父親が、額に青筋を立てて立ち上がっていた。その眼光は怒りに燃え上がり、手元にあった高価なティーカップが床に転がり落ちて、甲高い音を立てて砕け散る。
「貴様、己の立場を何と心得る! 敗戦国の、しかも戦利品として連行されてきた卑しき使用人を公爵家に引き入れるだと!? 挙句の果てには、その女が孕んだ血の素性も知れぬ私生児を我が家の跡継ぎにするなど、到底許されるはずがない!」
「ですから、私は家を出ると申し上げているのです。公爵家の体面は、別の養子でも迎えて保てばよろしいでしょう」
迷いのないギルベルトの返答に、父親は鼻で冷たく笑い飛ばした。
「家を捨てるだと? 甘えるな。貴様はこのシュバルツバルト公爵家の『唯一の跡継ぎ』だ。代々王家を支えてきた我が家の血脈を、貴様の代で絶やすことなど死んでも許さん。貴様には、この家を継ぐ義務があるのだ!」
王国の重鎮として、一切の反論を許さない絶対的な圧力。
代々バルツァー王家を支え、純血と名誉を何よりも重んじてきたシュバルツバルト公爵家にとって、唯一の跡継ぎの離脱は一族の崩壊を意味する。
「お言葉ですが、父上。私を縛り付けることは誰にもできません」
「ならば、こう言えば分かるか」
父親は低い、地を這うような声でギルベルトを睨み据えた。
「貴様がこの家を捨て、騎士団長の地位を捨ててただの平民になったとして、あの女を守り切れると思っているのか? 私が公爵家の権力と私兵を動かせば、地の果てまで追い詰め、その女を腹の子ごと消し去ることなど造作もないことだぞ」
その言葉が響いた瞬間、応接室の空気が完全に凍りついた。
ただ家を捨てて逃げれば済む話ではない。公爵家を敵に回せば、平民となった彼にエレオノーラを守る術はない。
愛する女と我が子を安全に生かすためには、逃げるのではなく、この圧倒的な権力を持つ両親を力ずくで「屈服」させるしか道はないのだ。
ギルベルトは静かに目を伏せ、そして再び顔を上げた。
その銀灰色の瞳からは一切の感情が抜け落ち、代わりに、自身の家門そのものを破壊してでも己の愛を貫き通すという、底知れぬ狂気が静かに燃え上がっていた。
「……消し去る、と仰いましたか」
ギルベルトの口から零れ落ちたのは、絶対零度の声だった。
彼は腰に佩いた王国騎士団長の長剣にゆっくりと手をかけ、実の父親を、まるで戦場の敵を睨むかのような冷酷な眼差しで射抜いた。
「私の剣が、敵国の首魁を落とすためだけに鍛えられたとお思いか。……試してみるがいいでしょう、父上。エレオノーラと我が子に指一本でも触れようとするならば、たとえ血の繋がった一族であろうと、私がこの手でシュバルツバルトの全てを滅ぼします」
公爵夫妻が、息を呑んで絶句する。
圧倒的な覇気と殺気を纏い、ギルベルトは踵を返した。重厚な扉を開け放ち、彼が歩み出していく先は、ただの逃避行ではない。
愛する女を公爵夫人として迎え入れるための、玉座を奪うような血みどろの闘争の始まりであった。
一人の女の気高き決断と、一人の男の狂気じみた愛執。
バルツァー王国最高位の貴族をも巻き込んだ運命の歯車が、後戻りできないほどの激しい音を立てて回り始めていた。




