第二章
第二章
重厚なマホガニーの執務机に積み上げられた書類の山を前にしても、ギルベルト・フォン・シュバルツバルトの頭の中は、全く別の思考に支配されていた。
羽根ペンを握る手はとうに止まり、銀灰色の鋭い瞳は虚空を見つめている。
(なぜ、あんなにも目を奪われる……)
脳裏に焼き付いて離れないのは、透き通るような銀糸の髪と、深い海を思わせる青い瞳だ。
エレオノーラ・ローゼンタール。ロランディア王国の元・侯爵夫人であり、今は敗戦国の戦利品として、このバルツァー王国の騎士団宿舎で雑用係という底辺の仕事を与えられている女。
粗末な灰色の使用人服は彼女の細い体を無骨に覆い隠しているはずなのに、ふとした瞬間に見せる洗練された所作や、背筋を伸ばして歩く凛とした姿勢からは、隠しきれない気品が溢れ出ていた。
この国に連行されてきた敗戦国の貴族女性たちは、過酷な環境と絶望に耐えきれず、涙に暮れるか、あるいは自ら命を絶つ者が後を絶たない。国王陛下でさえ、彼女たちに暗に死を唆しているのだから無理もないことだ。
だが、エレオノーラは違った。
どれほど汚れた仕事を押し付けられようとも、周囲の血の気の多い騎士たちから無遠慮な視線を向けられようとも、彼女は決して泣き言を漏らさず、ただ淡々と己の仕事だけを完璧にこなしていく。その瞳には絶望の色はなく、ただ静かに燃え続ける誇りだけが宿っていた。
先日、彼女が淹れた茶の香りと、その時の静謐な横顔を思い出し、ギルベルトは小さく息を吐いた。
自分はバルツァー王国騎士団長であり、誇り高き公爵家の唯一の跡継ぎだ。敵国の、それも未亡人である使用人に心を乱されるなど、あってはならないことである。己の立場も、実直であろうとする信念も、全てが彼女を遠ざけろと警告している。
それなのに、視界の端に彼女の姿を捉えるたび、胸の奥底で名状しがたい熱が燻り始めるのだ。あの気高い矜持を守りたいと願うと同時に、その深く澄んだ青い瞳に、自分だけを映させたいという昏い欲望が顔を覗かせる。
(俺は、疲れているのか)
頭を振って雑念を振り払おうとした時、執務室の扉がノックされ、副団長であるクラウス・ヴェルナーが入室してきた。
栗色の長い髪を後ろで一つに結び、深い緑色の瞳を持つ彼は、細身で中性的な顔立ちをしているが、その剣の腕はギルベルトに次ぐ実力を持つ。冷静沈着で頭脳明晰なクラウスは、ギルベルトが最も信頼を置く右腕であった。
報告事項を淡々と読み上げるクラウスの声を聞きながら、ギルベルトは書類に目を通していく。やがて一通りの報告が終わると、クラウスは書類の束を揃えながら、穏やかな口調で付け加えた。
「そういえば、上官宿舎の清掃係の一人が体調を崩し、しばらく休むことになりました。団長や私の私室、並びに専用の執務室の管理を任せられる、新手の者を補充しなければなりません」
上官宿舎は各騎士団の団長と副団長のみが立ち入りを許される区画であり、機密書類なども置かれているため、粗雑な者を入れるわけにはいかない。
ギルベルトは少しの間沈黙し、手元の書類を見つめたまま、努めて平坦な声で言った。
「……ロランディアから連行された者の中に、エレオノーラ・ローゼンタールという女がいたな。彼女の仕事ぶりは丁寧で、余計な口も利かないと聞いている。彼女を上官宿舎の配置に回せ」
あくまで騎士団長としての冷静な判断を装って下した指示だった。しかし、長年彼を支えてきたクラウスの深い緑色の瞳は、ギルベルトの微細な心の揺れを正確に見抜いていた。
クラウスは表情を崩すことなく、ほんの少しだけ口角を上げた。
「承知いたしました。彼女は元侯爵夫人ですし、礼儀作法や清掃の質も申し分ないでしょう。上官宿舎の管理には適任かと思われます」
ギルベルトは短く頷き、再び羽根ペンを走らせ始めた。
実直な己の信念を曲げてまで、あからさまに彼女を自分のためだけに縛り付けるような真似はできない。だが、上官宿舎への配置換えであれば、一般の騎士たちの粗野な視線から彼女を遠ざけることができる。そして何より、自分の目の届く、静かな場所に彼女を置くことができるのだ。
公的な理由という名目で己の欲望を正当化していることに、ギルベルトは微かな罪悪感を覚えながらも、胸の奥で燻っていた重い澱みが少しだけ晴れていくのを感じていた。
騎士団の上官宿舎における清掃係の補充。その名簿にエレオノーラ・ローゼンタールの名が記されたという事実は、瞬く間に王宮の裏側で働く使用人たちの間に広まった。
「なぜ、あの敗戦国の女が上官宿舎に上がるのです」
「我々はずっとこの国に尽くしてきたというのに。よりによって、あの忌々しいロランディアの元貴族を重用するなど……」
バルツァー王国の下級貴族出身である使用人たちの間に、どす黒い嫉妬と不満が渦巻いた。彼女たちは長年、日の当たらない裏方仕事に従事してきた。それにも関わらず、敵国の戦利品として引きずり込まれた女が、騎士団長や副団長という雲の上の存在が出入りする特別な領域へ足を踏み入れることが許せなかったのだ。
没落したとはいえ、エレオノーラから滲み出る隠しきれない気品と美貌も、彼女たちの劣等感を激しく煽っていた。
その日を境に、エレオノーラに対する陰湿な嫌がらせはさらに苛烈さを増した。
洗ったばかりのシーツをわざと泥水に落とされる、歩く足元に足を掛けられる、彼女の分の粗末な食事すら故意に破棄される。だが、エレオノーラは決して声を荒げることも、涙を見せることもなかった。泥に汚れたシーツは黙って洗い直し、転ばされれば静かに立ち上がって衣服の埃を払う。
(こんなことで心を乱してはならない。私は、ロランディアの侯爵夫人なのだから)
亡き夫への誇りと、自身の内にある気高さだけが、今の彼女を支える唯一の盾だった。その屈しない態度は、加害者である使用人たちの神経をさらに逆撫でした。
直接的な嫌がらせでは彼女の心を折れないと悟った使用人たちは、より悪辣な手段に出た。血気盛んで素行の悪い若手の騎士たちに擦り寄り、あることないことを吹き込んだのだ。
「あのロランディアの女、上官殿の目に留まったとひどくお高く止まっているのです」
「ええ、戦利品の分際で。騎士様から少し痛い目を見せて、身の程を教えてやってはいただけませんか?」
その狡猾な囁きに唆された若い騎士の一人が、ある夕刻、薄暗い裏廊下で作業をしていたエレオノーラを壁際に追い詰めた。
「おい、元侯爵夫人殿。いくら上官宿舎の担当になったからといって、いい気になるなよ」
酒の匂いを漂わせた騎士が、下卑た笑みを浮かべて彼女の華奢な肩を乱暴に掴む。
「お前のような負け犬の女は、俺たちに慰み者として扱われるのが相応しいんだ。ほら、その澄ました顔を泣き顔に変えてみせろ」
逃げ場のない状況下でも、エレオノーラの深い海のような青い瞳は一切の怯えを見せなかった。掴まれた肩の痛みに僅かに眉をひそめながらも、射抜くような冷たい視線で真っ直ぐに男を見据える。
「……離してください。私は与えられた仕事に戻らねばなりません」
「生意気な口を叩くな!」
騎士が苛立ちと共に彼女の腕を引き寄せようとしたその瞬間、凍りつくような冷たい声が廊下に響き渡った。
「その手を離せ」
声の主は、視察の帰りに通りかかったギルベルトだった。その半歩後ろには、副団長のクラウスが静かに控えている。
ギルベルトの銀灰色の瞳は極寒の吹雪のように冷え切り、長身から発せられる圧倒的な威圧感が、廊下の空気を一瞬にして縛り上げた。
「だ、団長......! これは、その、この女が目に余る態度を……」
「俺は、離せと言った」
若手騎士は弾かれたようにエレオノーラから手を離し、顔面を蒼白にして後ずさった。
ギルベルトは足音を立てずに二人の間へと進み出ると、鋭い視線で騎士を射抜いた。実直で規律を重んじる彼の気配には、ただの軍律違反に対する怒りだけではない、もっと底知れぬ昏い怒りが孕んでいた。
「我が騎士団の人間が、非武装の者に力で寄りかかるなど恥を知れ」
地を這うようなギルベルトの叱責に若手騎士が恐怖で身をすくませたところへ、背後に控えていたクラウスが静かに歩み出た。
彼はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていたが、深い緑色の瞳には一切の温度がない。中性的な整った顔立ちから、氷のように滑らかな声が紡がれた。
「君は確か……三番隊の騎士だね?」
「ひっ……は、はい……!」
「軍律違反は、隊長と副隊長も連帯責任を問われること……知らないはずが無いよね。君の軽率な行動が、上官たちの首を絞めることになるのだが」
淡々と事実を突きつけるクラウスの言葉に、若手騎士はついに膝を震わせ、絶望的な表情を浮かべた。自らの破滅だけでなく、隊全体を巻き込む大罪を犯してしまったことを、ここに至ってようやく理解したのだ。
「後で三番隊の隊長と共に執務室へ来い。厳しい沙汰を下す。……今は失せろ」
ギルベルトが冷酷に言い放つと、騎士は何度も頭を下げながら、逃げるように薄暗い廊下の奥へと走り去っていった。
静まり返った廊下に取り残されたエレオノーラは、乱れた襟元をそっと正し、深く一礼した。
「助けていただき、感謝いたします。騎士団長様、副団長様」
そこに安堵の涙も、媚びるような色もない。ただ淡々と事実に対して礼を述べるその姿に、ギルベルトは無意識に拳を強く握りしめた。
そんな張り詰めた空気の中、クラウスが僅かに歩み寄り、穏やかだが真剣な響きを含んだ声で彼女に問いかけた。
「君、大丈夫? 怪我は無い?」
その問いに、エレオノーラは一瞬だけ驚いたように瞬きをしたが、すぐにまた静かな表情に戻って答えた。
「お気遣い痛み入ります。幸い、どこも痛めてはおりません」
気丈に振る舞う彼女の姿は、見る者によっては健気に映るだろう。だが、ギルベルトにとっては、その誰の助けも必要としていないかのような超然とした態度こそが、彼の独占欲をより一層激しく突き動かす要因となっていた。
彼女が日々、裏でどのような扱いを受けているか。クラウスからの報告でギルベルトもある程度は把握していたが、実際に理不尽な暴力に晒されている光景を目の当たりにした今、彼の内側で何かが決定的に弾ける音がした。
(この女を、これ以上他人の目に触れる場所に置いておくわけにはいかない。……誰にも触れさせたくない)
激しい独占欲と、彼女の矜持を自分の手で守り、そして自分だけのもので満たしてみたいという狂気じみた熱情。
隣で主君の拳が白くなるほど握りしめられているのを見やり、クラウスは彼が纏う空気が明確に変わったことを確信した。彼は伏し目がちに小さく息をつき、静かに主君の後に続いた。
騎士団長室の重厚な扉が閉められ、室内には張り詰めた沈黙が下りていた。
ギルベルトの執務机の前に直立しているのは、三番隊の隊長と、先刻薄暗い廊下でエレオノーラに狼藉を働こうとした件の若手騎士である。若き騎士の顔面は蒼白を通り越して土気色になり、屈強な三番隊隊長の額にも冷たい汗が幾重にも滲んでいた。
「どうやら、ロランディアの使用人は辱めて、何をしても良いといった風潮が騎士団の中にもあるようですが……」
クラウスはふう、と小さく息を吐きながら静かに言った。中性的な顔立ちにいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、その深い緑色の瞳は酷薄なまでに冷え切っている。
「彼女らも人であり、この戦争の被害者とも言えます。国が違えば人として扱わなくても良いと、三番隊ではその様に教えているのでしょうか?」
続くクラウスの声には、静かだが確かな怒気が含まれていた。理詰めで逃げ場を塞いでいく副団長の冷徹な追及に、三番隊隊長は顔を激しく強張らせ、深く頭を下げる。
「滅相もございません......! 私の監督行き届かず、このような恥知らずな真似を……直ちに厳罰に処し、隊の規律を正す所存です」
ギルベルトは革張りの椅子に深く腰掛けたまま、そんなクラウスと目の前の二人を静かに見ていた。銀灰色の鋭い瞳は微塵も揺らがず、ただ氷のように冷たく事態を俯瞰している。
(いつの時代も女は男の慰み者として扱う風潮は変わらない……)
長きにわたる戦争が終結した後、ギルベルトも至る所で辱めを受け、ボロ雑巾の様に扱われる敗戦国の女性たちの姿を目にしてきた。勝者の権利とばかりに略奪や暴行を正当化する者たちは後を絶たず、特に血の気の多い騎士団や兵士たちの中では、そうした蛮行が多く見られる。
実直で己の信念を重んじるギルベルトにとって、非武装の弱者を力で蹂躙する行為は、騎士道精神に反する唾棄すべきものであった。だからこそ、若くして騎士団長に就任して以来、軍律を厳しく引き締め、そうした不祥事を徹底的に排除してきたはずだった。
にもかかわらず、自分の足元である上官宿舎のすぐ近くで、あのような醜悪な出来事が起きた。それも、他ならぬエレオノーラに対して。
彼女の華奢な肩を乱暴に掴んだあの男の汚らわしい手が、脳裏にフラッシュバックする。その瞬間、ギルベルトの胸の奥底で、どす黒い殺意にも似た激情が大きく渦を巻いた。
それは単なる軍律違反に対する怒りではない。己の不可侵の領域に泥足で踏み込まれたかのような、強烈な不快感と狂気じみた独占欲だった。
あの気高い銀糸の髪も、深海のような青い瞳も、誰の目にも触れさせたくない。ましてや、あのような下劣な輩の手垢がつくなど、万に一つも許されることではないのだ。
「……三番隊隊長」
重い沈黙を破り、ギルベルトが地を這うような低い声で名指しした。
「は、はいっ!」
「この者の処分は隊長であるお前に一任するが、生温い対応は許さん。軍律に照らし合わせ、最も重い罰を与えろ。二度と騎士団の敷居を跨げぬようにな」
「はっ...! 承知いたしました!」
「そして、全隊に再度通達しろ。身分や出自に関わらず、王宮内で働く者に私的な暴力や不純な干渉を行う者は、容赦なく切り捨てるとな。……下がれ」
有無を言わさぬ絶対的な命令に、三番隊隊長と若手騎士は逃げるようにして執務室から退室していった。
扉が閉まると同時に、室内の張り詰めた空気はわずかに緩んだが、ギルベルトが纏う昏い気配は晴れることはなかった。机の上で組まれた彼の手は、白骨化するほどに強く握りしめられている。
クラウスはその様子を静かに見つめながら、己の主君が最早「正義」や「規律」といった建前だけでは抑えきれないほどの、危険な執着をあの元侯爵夫人に抱き始めていることを確信していた。
三番隊の隊長たちが退室し、静寂を取り戻した執務室。
クラウスは手元に用意していた数枚の羊皮紙を束ね、机の上にそっと置いた。それは、王宮内における使用人たちの動向を密かに探らせた調査書だった。
「騎士団内の事は我々でどうにでもできますが……使用人に関しては王宮の管轄にも関わることなので、どうにもし難いですね」
調査書に視線を落としながら、クラウスは冷静な声で事実を述べる。
ロランディアの人間を良く思わず、陰湿な嫌がらせをしているのは、血の気の多い騎士たちだけではない。むしろ、バルツァー王国の下級貴族出身である使用人や、王宮に出入りする一部の貴族たちの中にこそ、敗戦国の元貴族を蔑み、憂さ晴らしの標的にする者は多いのだ。
上官宿舎という閉ざされた空間に配置換えをしたところで、水面下で蠢く悪意から彼女を完全に守り切ることは不可能に近い。
「いつの時代も変わらないな……」
ギルベルトは深い溜息とともに、忌々しげに吐き捨てた。
戦勝という熱狂の裏で露わになる、人間の底知れぬ醜悪さ。自身がどれほど軍律を正そうとも、人の心に巣食う優越感や嫉妬までは統制しきれないという現実に、重苦しい苛立ちが募る。
そして何より、あの気高いエレオノーラが、これからも見えない悪意に晒され続けるのかと思うと、胸の奥で燻る黒い炎が再び激しく燃え上がりそうになるのだ。
革張りの椅子に深く沈み込み、眉間を指で揉みほぐす主君を見つめながら、クラウスは不意に口を開いた。
「………いっそ彼女を、団長の専属にしては?」
それは、あまりにも突拍子もない提案だった。
驚きに目を細めたギルベルトが視線を上げると、そこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべるクラウスの姿があった。しかし、その深い緑色の瞳の奥には、ギルベルトの押し隠した執着や欲望のすべてを見透かしているかのような、底知れぬ光が宿っている。ギルベルトに笑顔を向けるクラウスの表情には、どこか食えないものがあった。
「そんなことが出来るわけ無いだろう」
ギルベルトは即座に否定した。
公爵家の唯一の跡継ぎであり、厳格な騎士団長である自分が、敗戦国の、しかも未亡人の元侯爵夫人を己の身の回りの世話をする「専属」に引き上げるなど、正気の沙汰ではない。私情を挟んだ贔屓と誹りを免れないばかりか、彼女の立場をさらに危うくする可能性すらある。
しかし、クラウスはふふふ、とその食えない笑顔を崩さないまま、滑らかな口調で言葉を継いだ。
「案外、そうでも無いかも知れませんよ? 我々も戦後処理やら何やらで、何だかんだ忙しいですから。それをサポートする意味でも、優秀な専属の使用人が居てもおかしくないと思いますよ」
「……こじつけにも程がある」
「私も忙しいですから、団長のお守りばかり出来ませんし」
クラウスは冗談めかして肩をすくめると、少しだけ声のトーンを落とした。
「それに……ほら、陛下も最近ではロランディアの戦利品には興味が失せて、次の事を企てているようですし。他国との水面下の交渉や、新たな政策の準備……情報収集も大変なんですよ。陛下の関心が他へ向いている今ならば、騎士団長の一存で有能な使用人を一人囲い込んだところで、上層部もいちいち目くじらを立てないでしょう」
理路整然と並べられたその言葉は、ギルベルトが彼女を己の傍に置くための、完璧な大義名分だった。
クラウスは、ギルベルトが実直さゆえに踏み出せずにいる一線を、背後から静かに押してくれているのだ。「多忙な騎士団長を支えるための、実務能力に長けた専属使用人」という名目さえあれば、周囲の目を欺き、彼女を完全に己の庇護下に――そして、誰にも触れられない閉ざされた鳥籠の中に――閉じ込めることができる。
(俺は……)
ギルベルトは無意識に、机の上で組んだ手に力を込めた。
理性では馬鹿げていると分かっている。だが、あの透き通るような銀糸の髪と、静かに燃える青い瞳を、完全に自分のものだけにできるという甘美な毒が、じわじわと彼の思考を侵食し始めていた。
沈黙を保つギルベルトを見つめながら、クラウスはそれ以上追及することはせず、ただ静かに次の指示を待っていた。
クラウスのそのあまりにも甘美で、悪魔的な提案を即座に呑むことを、ギルベルトの実直な理性が許すはずもなかった。
一先ず結論は保留という形にして数日が経過したある日の午後。ギルベルトに、己の甘さと現状の残酷さを嫌というほど思い知らされる決定的な出来事が起こる。
その日、エレオノーラは上官宿舎から少し離れた、人通りの少ない裏回廊で清掃の仕事を与えられていた。
バケツを傍らに置き、膝をついて床を磨き上げていた彼女の背後に、一人の男が忍び寄る。バルツァー王国の伯爵家当主であり、戦時中からエレオノーラの美貌に歪んだ執着を抱いていた男だった。
「やはり、近くで見るとさらに素晴らしい。その銀糸の髪、透けるような肌……戦利品として放置しておくには、あまりにも惜しい」
ねっとりとした声に、エレオノーラは背筋に冷たいものが走るのを感じて振り返った。そこには、獲物を追い詰めた獣のような目を剥いた男が立っていた。
「……伯爵様。ここは騎士団の管理区域です。部外者の立ち入りは禁じられているはずですが」
「ふん、敗戦国の女が私に意見するのか? かつては高嶺の花だった君も、今はただの掃除女だ。私がどう扱おうと、誰にも文句は言わせん」
男は以前から、他国での夜会などで見かけたエレオノーラの気高い美しさに目を付けていた。だが、当時は他国の高位貴族の妻で、手出しなど到底叶わぬ存在だった。しかし、今は違う。守るべき国も夫も失った彼女は、今や力なき弱者に過ぎない。
「……失礼いたします」
危機を察したエレオノーラがその場を立ち去ろうとした、その時だった。
男は強引に彼女の腕を掴むと、力任せに壁へと押しやった。さらに、逃げようとする彼女の肩を突き飛ばし、石造りの冷たい床に押し倒した。
「くっ……!」
「無駄だ、誰も来やしない。その澄ました顔が屈辱に歪むところを、ずっと見たかったのだよ」
床に組み伏せられ、荒い呼吸を吐きかける男の重みに、エレオノーラの青い瞳が微かに揺れる。だが、それでも彼女は叫び声を上げることも、無様に命乞いすることもしなかった。ただ、憎悪と軽蔑を込めた眼差しで真っ直ぐに男を射抜く。その屈しない矜持が、男の加虐心をさらに煽り、その手が彼女の衣服の襟元にかけられた ――。
「貴様、そこで何をしている」
回廊の空気を一瞬にして凍りつかせる、地獄の底から響くような低い声。
男が驚愕して顔を上げると、そこには抜身の剣のような鋭い殺気を纏ったギルベルトが立っていた。銀灰色の瞳は極寒の吹雪のように荒れ狂い、その身から放たれる威圧感は、周囲の石壁さえも震わせるかのようだった。
「き、騎士団長......! いや、これは、その……!」
男が慌ててエレオノーラから離れようとしたが、ギルベルトはそれよりも早く歩み寄り、男の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた。
「我が騎士団の敷地内で、許可なく女性を害そうとした罪……。貴様がどこの誰であろうと、生かして帰す理由は一つもない」
「ま、待ってくれ! 冗談だ、少しからかっただけで……!」
ギルベルトの拳が白くなるほどに握りしめられ、今にも男の顔面を砕かんとしたその時、背後に控えていたクラウスが静かに声をかけた。
「団長、そこまでに。……伯爵様、貴殿の身柄は軍法会議へ引き渡します。王宮内での不祥事となれば、お家にとっても取り返しのつかない汚点となるでしょうね」
クラウスの冷徹な一言に、男は腰を抜かし、這うようにして連行されていった。
静寂が戻った回廊で、エレオノーラは床に手をつき、ゆっくりと身を起こした。乱れた銀髪と、衣服に付いた埃。そして何より、男に押し倒された際に床に強く打ちつけたのか、彼女の白い頬が赤く腫れているのをギルベルトは見逃さなかった。
(……俺が、甘かった)
ギルベルトは激しい後悔と、どす黒い怒りに身を焼かれる思いだった。
実直であろうとし、彼女の立場を慮って配置換えに留めていた己の判断が、結果として彼女をこのような窮地に追い込んだのだ。
王宮という伏魔殿に彼女を置いておく限り、虎視眈々と彼女を狙う輩は絶えない。次に誰かが彼女の誇りを泥に塗る前に、この手で完全に囲い込まなければならない。
「……大丈夫か」
ギルベルトは跪き、震える手を伸ばして、彼女の頬に触れようとした。だが、エレオノーラは微かに目を伏せ、いつものように静かに深く頭を下げる。
「お見苦しいところを……。助けていただき、感謝いたします。騎士団長様」
その他人行儀な態度が、今のギルベルトには酷く切なく、そして堪らなく愛おしく感じられた。
彼女を誰の目にも触れさせたくない。この気高い矜持を、自分以外の誰にも汚させたくない。
(クラウスの言う通りだ。……もう、迷いはない)
ギルベルトは静かに立ち上がり、己の心に宿った狂おしいほどの独占欲を、今この瞬間に完全に受け入れた。
静寂が戻った回廊に、水滴の落ちる微かな音が響いていた。
先ほどの揉み合いで、エレオノーラが使っていた木桶が横倒しになり、冷たい水が石造りの床に大きく広がっている。その水は彼女の粗末な灰色のスカートを濡らし、ただでさえ細い体をさらに心細げに見せていた。
「団長、彼女の手当てを。着替えもさせてあげないと……」
クラウスが静かに声を落として言った。その視線は、赤く腫れたエレオノーラの頬と、冷水に濡れた痛々しい衣服へと向けられている。
しかし、エレオノーラは床に散らばった清掃道具へと手を伸ばし、静かに首を振った。
「ここを片付けた後で……自分でします」
あくまで平坦に保たれた気丈な声だった。
だが、濡れた布を拾い上げようとするその白い指先が、隠しきれない恐怖と緊張で微かに震えているのを、ギルベルトとクラウスの二人は見逃さなかった。
さらに、立ち上がろうと足に力を込めた瞬間、彼女の秀麗な眉が微かに苦痛に歪む。先ほど男に突き飛ばされ、床に強く倒れ込んだ際に足首を捻ったのだろう。痛みを庇うように不自然に体重を逃がすその仕草は、彼女が限界に近い状態であることを雄弁に物語っていた。
(……どこまでも、己を曲げない女だ)
誰の目にも明らかなほど傷つき、怯えているはずなのに、決して他人に弱みを見せず助けを乞おうとしない。その頑ななまでの矜持が、ギルベルトの胸を締め付け、同時にどうしようもない庇護欲と独占欲を掻き立てる。
これ以上、彼女を一人で立たせるわけにはいかない。
ギルベルトが一歩踏み出そうとしたその時、クラウスがスッと彼女の傍に歩み寄り、その手から清掃道具を優しく取り上げた。
「大丈夫。片付けは私がしておきますから、ね?」
子供をあやすような、有無を言わさぬ穏やかな笑み。クラウスはそう言いながら横倒しになった木桶を拾い上げると、ギルベルトの方へと視線を向けた。
それは、人の良い笑顔の奥に隠された、「あとは手筈通りに」とでも言うような、有能な副官からの無言の合図だった。
その意図を正確に受け取ったギルベルトは、短く息を吐き、躊躇うことなくエレオノーラの目の前へと進み出た。もはや、理性を言い訳にして踏みとどまるつもりは毛頭なかった。
冷たい石の床に膝をついたまま、微かに肩を強張らせている彼女の前に立つと、ギルベルトは何も言わずに身を屈めた。そして、片腕を彼女の膝の裏に、もう片腕を背中に回し、有無を言わさずその体を軽々と抱き上げた。
「……っ!? 騎士団長様、何を……!」
突然視界が高くなり、長身の逞しい腕の中に収められたことに驚愕し、エレオノーラは思わず声を上げた。常に冷静で感情を見せない彼女の、初めて見せる明確な動揺だった。
「暴れるな。そのまま落とされたいか」
「ですが、私は自分の足で歩けます。それに、このような……私のような戦利品が、身分ある方のお手を煩わせるなど、あってはならないことです。どうか、降ろしてください」
彼女の言う通り、公爵家嫡男であり騎士団長である男が、灰色の使用人服を着た敗戦国の女を抱き抱えて歩くなど、前代未聞の異常事態である。すれ違う者が見れば、どのような噂を立てられるか分からない。
しかし、ギルベルトの銀灰色の瞳は、冷酷なまでに揺らがなかった。
「足首を痛めているだろう。それに、今の濡れた姿で一人歩きさせれば、また先程のような輩に目をつけられるだけだ。……黙って俺に運ばれろ」
低い、しかし絶対的な命令を下す声。その腕の中に収まる彼女の体は、彼が想像していた以上に酷く細く、そして軽かった。この過酷な労働と劣悪な環境が、彼女の身をどれほど削り取っていたのかを直に感じ、ギルベルトの胸の奥で苛立ちと愛おしさが綯い交ぜになって燃え上がる。
彼女の濡れた衣服から冷たい水が染み出し、漆黒に銀糸の装飾が施された特注の制服を汚していくが、今の彼にはそんなことは全く気にならなかった。
「クラウス、後の処理は任せる」
「ええ、抜かりなく。手当てが終わりましたら、またご報告を」
クラウスの穏やかな声に見送られ、ギルベルトはエレオノーラを胸に抱いたまま、迷いのない足取りで回廊を歩き出した。
目的地は、上官宿舎の奥にある、限られた者しか入れない医務室だ。
「騎士団長様……」
逃げ場のない腕の中で、エレオノーラは戸惑うように深い海のような青い瞳を伏せた。彼女の銀糸の髪から漂う微かな香りと、密着した体温が、ギルベルトの理性をさらに甘く麻痺させていく。
(もう、誰にもお前を傷つけさせない。……誰にも、触れさせはしない)
医務室へと向かう静寂の廊下で、ギルベルトは彼女を完全に己の庇護下である「専属」という名の鳥籠に閉じ込める決意を、岩のように固めていた。
限られた上官しか立ち入ることのない宿舎の奥は、重苦しいほどの静寂に包まれていた。
ギルベルトは腕の中にエレオノーラを抱いたまま、医務室の重厚な扉を蹴るようにして押し開けた。薬品の匂いが微かに漂う室内には人影はない。
彼はそのまま部屋の中央へと進み、清潔なシーツが敷かれたベッド脇の丸椅子に、エレオノーラをゆっくりと下ろした。彼女の華奢な体は、冷たい水と恐怖の名残で微かに震えている。
ギルベルトは無言で踵を返すと、壁際の戸棚を漁り、畳まれた白い布の束を取り出した。
「ここにはこんなものしかないが、濡れたままよりは幾分マシだろう」
ギルベルトは振り返り、エレオノーラの膝の上に置いたのは、傷病者が着るための簡素な検査着だった。軍で使われている男物であり、彼女の細い体には到底合わない代物だが、冷水を含んだ重いスカートを穿き続けているよりは遥かに良い。
「着替えたら声を掛けてくれ」
有無を言わさぬ口調でそう告げると、ギルベルトはベッド周りのカーテンを乱暴に引き、彼女の姿を厚い布の向こう側へと隠した。布が擦れる微かな衣擦れの音が、静まり返った医務室に響き始める。
その音を背中で聞きながら、ギルベルトは別の戸棚から手当のための消毒液と清潔な包帯、そして軟膏を取り出していった。
長きにわたった戦争は、勝利したバルツァー王国にも甚大な被害と深刻な人材不足をもたらしていた。特に前線で激化した戦闘により、優秀な医務官や治癒士の多くが命を落とし、あるいは今も国境付近の野戦病院に駆り出されている。そのため、騎士団の中枢であるこの上官宿舎でさえ常駐の医務官はおらず、日々の鍛錬で負った傷の手当ては、騎士たち自身で行うのが常態化していた。
(あのまま放置しておけば、傷口から熱を出す可能性もあった)
実直な己にそう言い聞かせ、乱れた思考を鎮めようと努める。だが、カーテンの向こうから聞こえる衣擦れの音と、時折漏れる微かな吐息が、ギルベルトの神経を否応なしに逆撫でしていく。彼女が今、濡れた衣服を脱ぎ、無防備な肌を晒しているのだという事実が、頭から離れない。
「あの……着替え終わりました」
やがて、カーテンの向こうからエレオノーラの控えめで静かな声が響いた。
ギルベルトは短く息を吐き出し、覚悟を決めたようにカーテンの布地を掴んで横へと引いた。
「……っ」
開かれた視界の先に座る彼女の姿を目にした瞬間、ギルベルトは言葉を失い、無意識に息を呑んだ。
男物の薄い検査着は、エレオノーラの華奢な体にはあまりにも大きすぎた。大きく開いた首元からは、透けるような白い肌と細く美しい鎖骨が露わになり、水に濡れて束になった銀糸の髪が、蠱惑的に首筋に張り付いている。
薄い布地は彼女の体の線を無慈悲なほどに拾い上げ、ランプの光を浴びて、その滑らかな肢体が今にも透けて見えそうだった。
ただでさえ隠しきれない気品と匂い立つような色香を持つ彼女が、無防備な姿で薄暗い室内に佇んでいる。それは、強靭な理性を持つギルベルトでさえ、一瞬で正気を失いかけるほどの凄絶な美しさだった。
エレオノーラ自身は己の姿が男にどのような影響を与えるかなど微塵も気にしていない様子で、ただ静かに深い海のような青い瞳を伏せている。
ギルベルトは強く奥歯を噛み締め、己の内に暴れ狂いそうになる衝動を必死で押さえ込んだ。
彼は無言のまま、漆黒に銀糸の装飾が施された特注の騎士団長制服の上着を乱暴に脱ぎ去ると、それをエレオノーラの華奢な肩に深く、隙間なく掛けた。
突然の行動に、エレオノーラが驚いて顔を上げる。彼の体温と微かな香りが残る重厚な上着に包み込まれ、彼女の青い瞳が戸惑いに揺れた。
(目の毒だ……)
彼女の肌を隠すことでどうにか理性を繋ぎ止めながら、ギルベルトは心の中で深く、重い溜息を吐き出した。
ギルベルトは、己の内に荒れ狂う情動を強靭な精神力でどうにか檻に押し込もうと、無言で手当の準備を始めた。
ランプの灯りの下、まずは彼女の顔へ視線を向ける。白磁のように滑らかな頬には、先ほどの男に突き飛ばされた際の痛々しい赤みが残っていた。幸いにも皮膚は裂けておらず、暫くすれば腫れも引いて痕は残らないだろう。だが、彼女の完璧な美しさに暴力の痕跡が刻まれているという事実だけで、ギルベルトの胸には再び昏い怒りが湧き上がりそうになる。
怒りと、それ以上の熱情を無理やり鎮めながら、ギルベルトはエレオノーラの足元にゆっくりと片膝をついた。
男物の大きな上着の裾から覗く、透き通るように白く細い足。男に押し倒された際に捻ったというその足首は、痛々しく熱を持ち、周囲の肌と比べて微かに赤く腫れ上がっていた。
過酷な鍛錬を重ねたギルベルトの分厚く無骨な手が、硝子細工を扱うかのように、その壊れ物のような足首にそっと触れる。
「失礼……」
低く掠れた声で短く断りを入れると、ギルベルトは指先に取った鎮痛の軟膏を、熱を持った患部へと滑らせた。
「あっ……」
薬のヒヤリとした冷たい感覚と、直接触れた彼の手のひらから伝わる熱。その温度差に驚いたのか、エレオノーラの細い足がぴくりと震え、彼女の桜色の唇から、思いがけず甘く艶めいた声が無防備に漏れ出た。
それは、常に己を律し、どんな屈辱を前にしても決して隙を見せなかった彼女から発せられたとは到底思えない、ひどく無防備で生々しい音だった。
静まり返った医務室に落ちたその艶やかな響きは、ギルベルトの耳の奥を痺れさせ、全身の血を沸騰させる。
(……この女は、俺をどう狂わせれば気が済むのだ)
彼女には一切の他意がないことなど分かっている。だが、だからこそ堪らない。この高貴で気高い女が、己の指先の動き一つで感じ入り、声を漏らす。その事実が、ギルベルトの内に潜む男としての征服欲を激しく刺激するのだ。
ギルベルトは腫れた足首に軟膏を優しく、しかしどこか執拗な手つきで塗り込みながら、彼女から視線を外すことができずにいた。
薄い検査着と大きな上着に包まれたエレオノーラは、己が漏らした声に羞恥を覚えたのか、僅かに身を強張らせて深い海のような青い瞳を逸らしている。その微かな戸惑いの表情すらも、今のギルベルトの目には、理性の糸を容赦なく焼き切る決定的な引き金として映っていた。
ギルベルトは腫れた足首に軟膏を塗り終えると、清潔な包帯を手に取った。これ以上あの滑らかな素肌に直接触れ続けていれば、己の中に飼い慣らしている獣が完全に檻を破ってしまうという強烈な危機感があった。
包帯を巻くために視線を少しだけずらし、己の内に渦巻く熱を誤魔化すように、ギルベルトは静かに口を開いた。
「あなたは、いつもああやって誰かの悪意に晒されているのか?」
先ほどの回廊での出来事だけではない。上官宿舎へ配置換えになる前から、彼女が周囲からどのような扱いを受けていたのか。その一端を目の当たりにしたからこその、重苦しい問いだった。
その声に、エレオノーラは少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた後、ふるふると静かに首を振った。
「……大したことでは、ございません」
「大したことがないはずがないだろう。先ほどの男は、明確にあなたを害そうとしていた」
「仕方の無い事です。私も彼らの気持ちが分からなくはありません……」
エレオノーラの声には、悲憤も、自己を憐れむような響きも一切なかった。ただ、凪いだ海のように静かで、どこまでも透き通っている。
(自分の身が危うかったというのに、加害者の気持ちが分かるだと?)
ギルベルトは包帯を巻く手を止め、鋭い銀灰色の瞳で彼女を見上げた。
彼の上着に包まれた彼女は、伏し目がちに深く静かな息を吐き、言葉を続ける。
「ロランディアは敗れ、バルツァーは勝ちました。しかし、勝ったこちらの国もまた、長きにわたる戦争で多くの血を流し、大切な家族や友を失ったはずです。その悲しみや行き場のない怒りが、敵国の元貴族である私に向かうのは、人として自然な感情の流れに過ぎません。……私は、ロランディアの侯爵夫人であった者として、その憎悪を受け止める覚悟はできております」
彼女の深く澄んだ青い瞳の奥には、確固たる信念と、戦火で散っていった両国の者たちへの深い哀悼が宿っていた。
それは、ただ無抵抗に暴力を受け入れている弱者の姿ではない。敗戦という現実から目を背けず、敵国の人間の苦しみすらも理解しようとする、本物の貴族としての気高い精神だった。
ギルベルトは息を呑んだ。
自国の使用人や貴族たちが、己の鬱憤を晴らすためだけに、何の罪もない非武装の女性を嬲り、蔑んでいる。その醜悪な悪意の只中に置かれながら、彼女は誰を恨むこともなく、ただ一人で全てを背負い込もうとしているのだ。
(なんという女だ……)
この泥に塗れた王宮の底辺で、彼女の魂だけが誰よりも高く、清らかに輝いている。その圧倒的な矜持を前にして、ギルベルトは己の器の小ささを突きつけられたような、深い敗北感にも似た感情を抱かずにはいられなかった。
同時に、彼女のその自己犠牲的な危うさが、ギルベルトの庇護欲と独占欲を決定的なものにする。
全てを受け入れてしまうこの女を、このまま王宮の悪意の中に放置しておけば、いずれ彼女は本当に壊されてしまうだろう。誰の恨みも、嫉妬も、暴力も届かない場所へ。俺の目の届く、俺だけの閉ざされた場所へ。
ギルベルトは無言のまま、彼女の細い足首に包帯を巻き終え、ゆっくりと立ち上がった。その双眸には、もはや実直な騎士団長としての迷いや葛藤は一切なく、ただ獲物を逃さない熱く暗い炎だけが静かに燃え盛っていた。
ギルベルトは、静かな覚悟を秘めたエレオノーラの深い青い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたがその責任を負う必要はない……」
低く、しかし断固たる響きを持った声が医務室に落ちる。
「戦争の業火を煽り、その結果に責任を持つのは国であり、上に立つ者たちだ。夫を失い、祖国を奪われ、すべてを失ったあなたが、これ以上見知らぬ者たちの憎悪や八つ当たりを一身に引き受けるいわれなど、どこにもない」
(これ以上、この女をあんな場所に置いておけば……この気高い魂ごと、理不尽な暴力にすり潰されてしまう)
ギルベルトはゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬にかかる銀糸の髪を、熱を帯びた指先でそっと耳に掛けた。本来であれば、戦勝国の騎士団長が敗戦国の使用人に対して行うには、あまりにも親密で、強烈な独占欲に満ちた触れ方だった。
突然の甘やかな接触と、すぐ近くで交わる銀灰色の瞳のただならぬ熱に、エレオノーラは微かに肩を震わせた。
「騎士団長、様……?」
「俺は、バルツァーの騎士団長だ。この国における軍の最高責任者の一人として、敷地内での不当な暴力や不祥事をこれ以上看過することはできない。……だから、あなたをこれ以上、他人の目に触れる場所に置いておくわけにはいかない」
それは、実直な騎士としての正義を借りた、ただの男としての狂おしい執着の吐露だった。
ギルベルトは彼女の顔のすぐ近くまで身を屈め、その逃げ場を塞ぐように低く、絶対的な声で告げた。
「明日から、あなたは俺の専属とする」
「……え?」
エレオノーラの端正な顔に、はっきりとした戸惑いが浮かんだ。戦利品である自分が、公爵家の跡継ぎであり騎士団長である男の身の回りを世話する「専属」に引き上げられるなど、周囲の反感を買うだけの到底あり得ない人事だからだ。
「お待ちください。そのようなことをなされば、ご自身の立場に傷がつきます。私は今のままで――」
「お断りします、とは言わせない。これは騎士団長としての絶対の命令だ」
彼女の冷静な反論を封じ込めるように、ギルベルトの声が一段と低くなる。
「俺の執務室と私室の管理だけを行え。それ以外の場所へは一切出歩くことを禁ずる。……誰の指一本、あなたに触れさせはしない」
それは彼にとっての不器用な守護であり、同時に、彼女を自分だけの閉ざされた鳥籠の中に閉じ込めるという、決定的な縛めの宣告であった。
◆◆◆◆◆
翌日から、王宮内は静かな、しかし確かな衝撃に包まれた。
敗戦国の元侯爵夫人エレオノーラが、王国騎士団長ギルベルトの「専属」として引き抜かれたという人事は、誰もが耳を疑う異例中の異例であった。
バルツァー自国の使用人たちは、嫉妬と憤りに煮えくり返る思いだったが、先日の一件――三番隊の騎士の追放と、一介の伯爵が軍法会議にかけられるという異常事態を目の当たりにし、誰もが沈黙を強いられていた。ギルベルトが纏う殺気にも似た威圧感は、もはや「正義」や「規律」といった言葉で説明のつくものではなく、誰一人としてその聖域に踏み込むことはできなかった。
一方、ギルベルトの執務室に隣接する私室を与えられたエレオノーラは、戸惑いを抱えながらも、与えられた「仕事」を淡々とこなしていた。
彼の身の回りの世話、執務室の整理、そして夜のお茶の用意。
かつて侯爵夫人として家政を切り盛りしていた彼女にとって、それらは造作もないことだったが、以前と決定的に違うのは、常にギルベルトの銀灰色の視線が自分を追い続けていることだった。
「……何か、不手際がございましたでしょうか」
ある晩、暖炉に火を焚べていたエレオノーラが、背後に立つギルベルトの気配に振り返り、静かに問いかけた。
彼は上着を脱ぎ、シャツの襟元を緩めた無防備な姿で、ただじっと彼女の背中を見つめていたのだ。
「……いや、何でもない」
ギルベルトは掠れた声で答え、視線を逸らした。
だが、その瞳に宿る熱は隠しようもなかった。
誰にも触れさせず、誰の目にも触れさせない場所へ彼女を置くことができた。その満足感とは裏腹に、傍に置けば置くほど、触れたい、壊したい、そして己のものだと刻みつけたいという昏い欲望が、彼の心臓を激しく打ち鳴らしていた。
(俺は、彼女の誇りを守るためにここに置いたはずだ。それなのに……)
己の内に潜む獣が、気高い彼女を組み伏せたいと鳴いている。実直な騎士としての自尊心が、その欲望を必死に抑え込もうとしていたが、それも限界に達しようとしていた。
その夜、執務を終え私室に戻ったギルベルトを待っていたのは、湯気の立つハーブティーを用意したエレオノーラだった。
窓の外では激しい雨が石造りの壁を叩いている。閉ざされた二人きりの空間。ランプの灯りに照らされた彼女の銀糸の髪が、あまりにも美しく、儚げに輝いていた。
「お疲れ様でございました。ギルベルト様」
いつものように静かに深く頭を下げる彼女。その気品に満ちた仕草が、今のギルベルトには自分を拒絶する高い壁のように感じられた。
どんなに傍に置いても、彼女の心は、その矜持は、自分に触れさせることを許さない。その事実が、彼の独占欲を狂気へと変えた。
ギルベルトは差し出された茶碗を受け取ることなく、彼女の手首を掴み、そのまま背後のベッドへと押し倒した。
「……っ! ギルベルト様……?」
驚愕に目を見開くエレオノーラ。だが、彼女は叫ばなかった。
ギルベルトは彼女の上に覆いかぶさり、その細い手首を頭上に押さえつけた。銀灰色の瞳には、もはや理性などは欠片も残っていない。
「言ったはずだ。あなたは俺の専属だと」
「それは、身の回りの世話をせよということでは……」
「すべてだ。あなたの体も、その誇り高い心も、俺に差し出せ」
それはあまりにも理不尽で、野蛮な要求だった。
騎士団長としての地位を笠に着た、ただの略奪。ギルベルト自身、己の卑劣さに吐き気がしながらも、止まることはできなかった。
彼は彼女の首筋に顔を埋め、その透き通るような肌に深く、熱い接吻を刻みつけた。
(拒絶してくれ。罵ってくれ。そうすれば、俺は正気に戻れるかもしれない)
ギルベルトのその縋るような想いとは裏腹に、エレオノーラは激しく抵抗することも、涙を流して命乞いすることもなかった。
彼女は深く澄んだ青い瞳で、自分を蹂躙しようとする男を真っ直ぐに見据えていた。
「……承知いたしました。私は戦利品、あなたの所有物です。お望みのままに」
その静かな承諾は、ギルベルトの心を激しく抉った。
彼女は屈したのではない。侯爵夫人としての矜持を持って、この理不尽な運命を受け入れたのだ。
ギルベルトは言葉にならない呻きを漏らし、彼女の唇を乱暴に塞いだ。
激しい雨音にかき消されるように、理不尽な始まりの夜が更けていった。
◆◆◆◆◆
それからというもの、夜の静寂は二人の密やかな、そして歪な繋がりの時間となった。
ギルベルトは夜ごと、彼女の体を己の腕の中に閉じ込めた。
時に激しく、時に縋るように彼女を求め、その肌に自分だけの印を刻み込もうとする。彼は、己の欲望が彼女の誇りを汚していることを自覚しながらも、彼女から離れることができなかった。
対するエレオノーラは、常に静かだった。
彼に抱かれている間も、彼女は決して声を荒げることなく、ただ淡々と、波に身を任せるように彼を受け入れ続けた。
しかし、幾晩も体を重ね、彼の孤独や葛藤、そして自分に対する狂おしいほどの情熱に触れるうちに、彼女の内にあった氷のような頑なさが、少しずつ溶け始めていた。
(このお方は、私を壊そうとしているのではない。……ただ、これほどまでに私を求めておられるのだ)
戦利品としてではなく、一人の女として、これほどまでに激しく、真摯に求められたことがあっただろうか。亡き夫との生活は穏やかで幸福だったが、そこにはこのような焼き尽くすような熱情はなかった。
情事の果てに眠りについたギルベルトの寝顔を見つめながら、エレオノーラはそっと彼の手の甲に触れた。剣を握り続け、多くの命を奪い、そして自分を守るために汚れを被った、無骨な手。
その温もりに触れた瞬間、彼女の胸の奥で、小さな、しかし消えることのない火が灯ったのを感じた。
「……不器用なお方」
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。
それは、彼女の閉ざされていた心が、初めて彼へと傾いた瞬間だった。




