第一章
エレオノーラが初めて社交界の床を踏んだのは、十六歳の春だった。
ロランディア王国の王都は華やかな文化の絶頂にあり、デビュタントの夜会は色とりどりの絹のドレスと宝石が煌めく花園のようだった。伯爵令嬢であるエレオノーラは、透き通るような銀糸の髪と、深い海のような青い瞳を持つ類まれな美貌で、一躍注目の的となった。
夜会が終わった数日後、伯爵家の客間には山のような釣書が積まれていた。
「お父様、お母様。私にこれほどのお申し出が来るとは思ってもみませんでした」
「エレオノーラ、お前は我が家の誇りだよ。だがね、私はお前を家のための道具にするつもりはないんだ」
父親は積まれた釣書を片脇へ退け、真剣な眼差しで娘を見つめた。
「政略結婚が当たり前の世の中とはいえ、愛のない家へ嫁ぐのは辛いものだ。お前には、心から安らげる相手を見つけてほしい」
「お父様……」
「そうよ、エレオノーラ。焦る必要は少しもないわ。あなたの瞳が、本当にこの人だと思える殿方が現れるまで、私たちがしっかり守るからね」
母親が優しく手を握り微笑む。エレオノーラは両親の深い愛情に胸を打たれ、静かに頷いた。
翌年、十七歳になったエレオノーラは、有力貴族であるローゼンタール侯爵家が主催する夜会に招かれた。そこで彼女は、後の夫となる次期当主、セオドア・ローゼンタールと出会う。
当時二十歳のセオドアは、華やかな社交の場よりも領地経営に重きを置く、実直で真面目な青年だった。彼は壁際で一人、喧騒から離れて静かにグラスを傾けているエレオノーラに気づき、不器用ながらも声をかけた。
「……夜会は、お退屈ですか?」
「え?」
突然の問いかけに、エレオノーラは驚いて声の主を見上げた。飾り気のない、けれど仕立ての良い夜会服を着た青年が、少し居心地悪そうに立っていた。
「申し訳ありません。貴女があまりにも静かに皆を眺めておられたので。私はセオドア・ローゼンタールと申します」
「ローゼンタール卿……。ご挨拶も遅れまして申し訳ございません。エレオノーラと申します。退屈だなんてとんでもないわ。ただ、こうして華やかな方々を眺めているのが好きなのです」
エレオノーラが穏やかに微笑むと、セオドアは少しほっとしたように表情を緩めた。
「実は、私もこういった場は少し苦手でしてね。領地の畑の土を見ている方が性に合っているのです」
「ふふ、次期当主様がそのようなことを仰ってよろしいのですか?」
「事実ですから。しかし、貴女のように美しい方が壁際にいては、他の令嬢方が霞んでしまいますね」
お世辞など言い慣れないであろう彼が、真顔でぽつりと言ったその言葉に、エレオノーラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
この夜を境に、セオドアからの熱心な、それでいて誠実な求婚が始まった。ローゼンタール侯爵家から申し入れられた婚約の打診に、エレオノーラの両親は彼と直接面会し、その実直な人柄に触れて喜んで娘を託すことを決めた。
貴族社会ではひどく珍しい、互いの幸福だけを純粋に願う婚姻だった。
結婚してからの七年間、セオドアはエレオノーラを心の底から大切にした。彼は不慣れな彼女の手を引き、領地の歩き方や、侯爵夫人としての振る舞いを一つひとつ丁寧に教えてくれた。
「エレオノーラ、上に立つ者は決して領民を見下してはいけない。彼らの汗があるからこそ、我々の生活があるのだから」
「はい、セオドア様。私もしっかりと学びます」
「君のその青い瞳は、真っ直ぐでとても綺麗だ。どんな時も、その誇り高い光を失わず、凛と前を見据えていてほしい」
穏やかに微笑むセオドアと共に過ごす日々は、エレオノーラにとって何にも代えがたい、黄金のような七年間だった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
隣国バルツァー王国との戦争は年を追うごとに泥沼化し、戦況は悪化の一歩を辿っていった。ついには高位貴族の男たちまでが最前線へと駆り出される事態となった。
出征の朝。軍服に身を包んだセオドアは、玄関のホールでエレオノーラを強く抱きしめた。
「すまない、エレオノーラ。君を残して行くことになってしまって」
「謝らないでください、セオドア様。貴方は国のため、領民のために戦いに行かれるのですから」
「必ず帰る。君の待つ、この家へ」
「ええ。お待ちしております。どうか、ご無事で……」
震えそうになる声を必死に抑え、エレオノーラは真っ直ぐに彼を見送った。
夫の不在を守る日々は、そこからさらに三年もの長きにわたって続いた。
戦費に充てるため領地の税は重くなり、物資は深刻なほど不足していった。エレオノーラは自らの装飾品を売り払い、領民の飢えを凌ぐための食料に代えた。
セオドアが出征して二年が過ぎる頃には屋敷を維持する余裕もなくなり、彼女は使用人たちを集めた。
「今まで本当にありがとう。これ以上、あなたたちに払えるお給金がありません。どうか、これを持って家族の元へ帰りなさい」
「奥様! そんな、私たちはお給金などなくても働きます!」
「奥様をお一人にして行けません!」
泣きすがるメイドたちの手を取り、エレオノーラは優しく首を横に振った。
「あなたたちにも守るべき命があるでしょう? 私なら大丈夫よ。セオドア様が帰る場所を、私が守り抜くのだから」
やがて広大な侯爵邸には彼女一人だけが残された。
かつては絹のドレスしか着たことのなかった彼女は、古い綿の服を身に纏い、冷たい水で布巾を洗い、自ら火を起こして食事を作るようになった。
(セオドア様との約束ですもの。どんな時も、凛と前を見据えて……)
その一心で、炊事や洗濯、掃除といった家事全般を一人でこなし、苦しい三年間を耐え抜いた。この過酷な日々が、彼女の中に決して折れない芯の強さを育て上げていた。
そして、十七歳でセオドアと出会ってからちょうど十年。エレオノーラが二十七歳を迎えた年、長年続いた戦争はロランディア王国の敗戦という形で終息を迎えた。
空虚な屋敷に一人残されたエレオノーラの元へ届けられたのは、勝利の報せでも、夫の帰還でもなかった。
「……セオドア、様……?」
小さな木箱に入れられた、死亡通知と、血の滲んだ美しい遺髪。
箱を受け取ったエレオノーラは、泣き叫ぶことも取り乱すこともなかった。ただ静かに膝を折り、冷たくなった夫の欠片を胸に強く抱きしめた。
涙はとうの昔に枯れ果てていた。けれど、彼女の深い海のような青い瞳だけは、彼との約束通り、少しも濁ることなく前を見据えていた。
◆◆◆◆◆
ロランディア王国が華やかな文化を謳歌していた頃、北に位置する隣国バルツァー王国は、常に凍てつくような寒風と飢えの恐怖に晒されていた。痩せた土地では作物が育ちにくく、国が生き残るための手段は強大な軍事力による他国からの搾取のみであった。
バルツァー王国の筆頭貴族であるシュバルツバルト公爵家の唯一の跡継ぎ、ギルベルトが初めて真剣を握らされたのは、まだ剣の重さに腕が震えるほど幼い頃だった。
「立て、ギルベルト! 剣を落とすな!」
厳しい父の怒声が石造りの訓練場に響き渡る。十四歳になったギルベルトは、泥だらけになりながらも這い上がった。
「は、はい……父上」
「お前は公爵家を継ぎ、この国の剣となる男だ。泣き言など許されん。相手を殺す気で踏み込め!」
「……っ、はい!」
どれほど過酷な鍛錬で体が悲鳴を上げようとも、彼に逃げ場はなかった。シュバルツバルトの名は「力」の象徴であり、唯一の跡継ぎである彼には、弱さを見せることすら罪とされた。
生来、実直で真面目な性質を持っていたギルベルトは、ただひたすらに己を鍛え上げた。厚い胸板と引き締まった体躯は、決して天賦の才だけで得たものではない。血を吐くような鍛錬と、公爵家という逃れられない重圧が作り上げた鎧だった。
彼が二十一歳を迎える頃、ロランディア王国との戦争は熾烈を極め、彼もまた前線へとその身を投じることになった。
「団長! 右翼から敵の増援です!」
焦燥に駆られた部下の叫びに、漆黒に銀糸の装飾が施された特注の制服を血に染めたギルベルトは、短く鋭く命じた。
「慌てるな。陣形を崩さず、盾を前に出せ。私が斬り込む」
若くして並外れた剣の腕を持つ彼は、次々と功績を上げ、またたく間に王国騎士団長という異例の地位へと押し上げられていた。戦場は地獄だった。敵国の兵士を斬り伏せるたび、ギルベルトの銀灰色の瞳は温度を失っていった。
(また、命を奪った。……この血みどろの先に、我が国の本当の救いはあるのか)
彼は殺戮を好む狂戦士ではない。ただ、国のため、家門のために剣を振るう実直な軍人にすぎなかった。しかし、周囲は彼に「氷の騎士団長」としての無慈悲な強さを求めた。いつしか彼の秀麗な顔立ちには、感情を押し殺すための険のある表情が張り付いて剥がれなくなっていた。
そして三年後、彼が二十四歳になった年。長きにわたる戦争は、バルツァー王国の勝利で幕を閉じた。しかし、凱旋した王宮の会議室は、歓喜よりも重苦しい焦燥に包まれていた。
「兵の損耗が激しすぎる。麦の収穫も例年の半分以下だぞ」
「勝者でありながら、これほど国庫が空とは……」
疲弊しきった国情を前に、バルツァー国王は玉座から冷酷な命令を下した。
「敗戦国ロランディアから、高位の女たちを連行しろ。あれらは実質的な人質であり、我が国の労働力だ。使い潰しても構わん」
「陛下。……恐れながら申し上げます」
ギルベルトはたまらず前に進み出た。
「国のためとはいえ、誇り高き女たちを家畜のように扱うなど、あまりにも卑劣ではないでしょうか」
「黙れ、シュバルツバルト。これは勝者の権利だ。文句があるなら、貴様が己の血肉でこの国の腹を満たしてみせろ」
国王の冷笑に、ギルベルトはギリッと奥歯を噛み締めて頭を下げるしかなかった。戦場で命を懸けて戦った結果が、女たちを使い潰すような見せかけの勝利であったことに、実直な彼は激しい嫌悪感を抱いていた。
彼にできるのは、騎士団の規律を厳格に保ち、せめて自分の手の届く範囲で無秩序な暴行を禁じることだけだった。
そんな鬱屈とした思いを抱えながら、彼は王宮の回廊を歩いていた。
その時、階下の広間に集められた敗戦国の女たちに向けられた、国王の残酷な宣告が響き渡ったのだ。
「今日から貴様らは、この城の土だ。家畜同然に働き、我が国の再興に尽くせ。……もし、この生活に耐えられぬという者がいるならば、城の裏は崖になっている。自ら身を投じるがいい。死体ならば、場所を取らずに済むからな」
悪意に満ちたその言葉に、広間はさらなる絶望とすすり泣きに支配された。耐えかねたうら若き令嬢が、力なくその場に崩れ落ちる。
回廊の影からその光景を見下ろしていたギルベルトは、無意識のうちに石の欄干が砕けそうなほど強く手を握りしめていた。
(勝者の権利とはいえ、すべてを奪われた弱者に自死を促すなど……これが王の、上に立つ者の言葉か。あまりにも外道が過ぎる)
実直な彼にとって、それは武人の誇りすらも泥で汚すような暴言だった。激しい怒りが胸の奥で渦巻くが、公爵家の跡継ぎとして、その場に飛び降りて王に刃を向けることはできない。彼は己の無力さに、ただ険しい表情をさらに深くするしかなかった。
しかし、そんな絶望のどん底のような広間の中で、一人だけ、静かに真っ直ぐ前を見据えている女がいた。透き通るような銀糸の髪を実用的にまとめ、粗末な灰色の服を着た女だった。
(何故、これほどの状況で絶望していない?)
「かしこまりました。……陛下」
その女が静かに頭を下げた瞬間、洗練された姿勢と隠しきれない気品に、ギルベルトは目を奪われた。泥にまみれたこのバルツァーの王宮で、彼女の存在だけが強烈な光を放っているように見えた。
「おい、あの女だ。一番年嵩だが、見栄えだけはいい。あれを騎士団の雑用係に回せ。あそこの連中は荒っぽい。せいぜい、痛い目を見て根性を叩き直してもらうんだな」
内官の意地悪な指示が聞こえ、ギルベルトの肩が微かに跳ねた。
これまで心を閉ざし、ただ己の義務だけを全うしてきた若き騎士団長の胸の奥で、何かが激しく音を立てた瞬間だった。
◆◆◆◆◆
血と汗、そして鉄の匂いが染み付いたバルツァー王国の王国騎士団宿舎。そこが、エレオノーラに与えられた新たな戦場だった。
「ほら、敗戦国の女! 洗濯物は山ほどあるのよ、手を休めないで!」
朝靄がまだ残る井戸端で、鋭い声が飛ぶ。声の主は、バルツァー王国の下級貴族出身のメイド、マチルダだ。
騎士団宿舎での使用人の仕事は、百人を超える屈強な男たちの食事の用意から、泥と血にまみれた衣服の洗濯、広大な兵舎の掃除と、目が回るほど多い。本来ならば手分けして行うべき仕事だが、エレオノーラの足元には、彼女の背丈ほどもある洗濯物の山が三つも積まれていた。
「マチルダ様、さすがにこれだけの量を彼女一人では……。私たちも手伝います」
「あなたたち平民は黙ってなさい! この女は、陛下から直々に『家畜同然に働け』と命じられたのよ。それに、見なさいよあの顔」
マチルダは忌々しげにエレオノーラを睨みつけた。
騎士団宿舎で働く使用人の多くは、将来有望な騎士や貴族の跡継ぎに近づき、玉の輿を狙う下心の多い下級貴族の令嬢たちだった。そんな彼女たちにとって、粗末な灰色の使用人服を着ていても隠しきれないエレオノーラの美貌と気品は、ただでさえ目障りな存在だ。
「昨日も第三部隊の副隊長様に色目を使っていたじゃない。いいご身分よね。自分が敗戦国の泥棒猫だってこと、忘れてるんじゃないの?」
「……」
「何か言い返しなさいよ!」
金切り声を上げるマチルダに対し、エレオノーラは冷たい水で赤くなった手を休め、静かに立ち上がった。その深い海のような青い瞳が、真っ直ぐにマチルダを見据える。
(色目、ですか。ただ配膳の際に『ご苦労様』と声をかけられただけですが)
心の中でそう呆れながらも、エレオノーラは表情を一つも変えず、優雅に一礼した。
「ご指導ありがとうございます。ですが、ここで口論をしていては洗濯の時間が押してしまい、騎士様方のお着替えに支障が出ます。続きは、すべての仕事が終わった後で拝聴いたします」
「なっ……! あんた、生意気よ!」
「平民の皆様、私一人で十分ですので、皆様は食堂の清掃をお願いしてもよろしいですか?」
エレオノーラはマチルダをふわりと躱し、怯えていた平民の使用人たちに微笑みかけた。そして再び井戸に向き直ると、何事もなかったかのように重い布地を揉み洗いし始めた。
その無駄のない動きと、どれだけ理不尽な扱いを受けても取り乱さない姿勢に、マチルダは毒気を抜かれたように地団駄を踏み、その場を立ち去るしかなかった。
ロランディアでの過酷な三年間、たった一人で広大な侯爵邸を維持していたエレオノーラにとって、ただ目の前の作業をこなすことなど造作もないことだった。むしろ、飢えの心配がない分、体力的には余力すらある。
そして、昼の食堂でもまた、彼女の気高さは際立っていた。
血の気の多い騎士たちにとって、突然宿舎にやってきた美しい敗戦国の女は、格好の標的だった。
「おい、銀髪の姉ちゃん。俺のところにワインを注ぎに来てくれよ」
「そんなボロ布みたいな服、脱いじまったほうがいいんじゃないか? 俺がもっといい服を買ってやるから、今夜どうだ?」
粗野な笑い声を上げる騎士たちが、下卑た視線を向けてくる。マチルダたち下級貴族の令嬢たちがハンカチを噛んで悔しがる中、エレオノーラは静かに彼らのテーブルへと歩み寄った。
「お声がけいただき、光栄に存じます」
エレオノーラは完璧な角度で頭を下げ、ふわりと微笑んだ。
「ですが、私のような敗戦国の女の酌など、皆様の勝利の美酒を濁してしまいます。あちらの、バルツァーの誇り高きお嬢様方にお酌をしていただいた方が、お酒も一層美味しくなるかと存じますわ」
そう言って、離れた場所から自分を睨みつけていたマチルダたちを優雅な手つきで示し、そつなく話を逸らす。
「あ、ああ……まあ、そうだな」
「それと、お召し物の件ですが。この灰色の服は、陛下より賜った大切な証。これを脱ぐことは、陛下への不敬に当たりますので、どうかご容赦くださいませ」
騎士たちは、手を出そうとしていた女から思いがけず理路整然と、しかも洗練された言葉で切り返され、ポカンと口を開けた。エレオノーラは彼らが呆気にとられている隙に、空いた皿を素早く重ね、「では、失礼いたします」と風のようにその場を去っていった。
(セオドア様。……バルツァーの騎士様方は、少々直情的な方が多いようです)
心の中で亡き夫に語りかけながら、彼女は厨房へと消えた。
あとに残された騎士たちは、顔を見合わせた。
「おい……なんだ、あの女」
「ただの使用人じゃないぞ、あの気品。それに、ちっとも俺たちに怯えてねえ」
「すげえな。どんな嫌がらせされても平然としてるし、言い寄っても見事に躱されちまった」
「……なんか、すげえイイ女じゃないか?」
その日から、騎士団の中での話題は、専らエレオノーラのことで持ちきりとなった。
「氷の美貌」
「手が出せない高嶺の花」
敗戦国の戦利品として最も底辺の扱いを受けているはずの彼女は、その強靭な矜持と生活力によって、瞬く間に男たちの視線を釘付けにしていったのである。
そして、その噂は当然、常に部下たちの動向に目を光らせている騎士団長、ギルベルト・フォン・シュバルツバルトの耳にも届くことになるのだった。
◆◆◆◆◆
重厚なマホガニーの机に、羊皮紙の擦れる音だけが響いていた。
王国騎士団長室。壁にはバルツァー王国の紋章が掲げられ、無駄な装飾の一切ない質実剛健なその部屋で、ギルベルト・フォン・シュバルツバルトは眉間の皺を深くしていた。
「……最近、騎士団員らがどうにも浮かれているようだが?」
山積みの書類に目を通しながら、ギルベルトは顔を上げずに問いかけた。その声には、明らかな不機嫌さが滲んでいる。
「ええ。敗戦国から迎えた使用人に、どうも邪な感情を抱いている者が多いようです」
窓際で自らの書類仕事をこなしていた副団長のクラウス・ヴェルナーは、羽ペンの動きを止めることなく淡々と答えた。クラウスはギルベルトより少し年上で、常に冷静沈着な男である。血の気の多い騎士団の中で、彼のような優れた事務処理能力と客観的な視点を持つ者は重宝されていた。
「……使用人に?」
「はい。新たに駐屯地の雑用係として配属された女性です。確かに、とてもお美しい方でしたね。なんでも、ロランディアの元侯爵夫人だとか……」
「下らん」
クラウスの言葉を遮るように、ギルベルトは短く吐き捨てた。
その瞬間、ギルベルトの脳裏に、あの王宮の広間で見た光景が鮮明に蘇った。絶望の淵にあっても決して濁ることのなかった青い瞳。粗末な灰色の服に身を包みながらも、誰よりも気高かったあの銀髪の女。
彼女がこのむさ苦しい騎士団宿舎に配属されたことは知っていた。だが、まさかこれほど早く、部下たちの心を乱す存在になるとは。
「終戦を迎えて、気が抜け過ぎているのではないか? 我々の戦いは終わったわけではない。この疲弊した国を立て直す要となるのが騎士団だというのに、女の尻を追いかけている暇などないはずだ」
ギルベルトは目を通していた業務報告書を、苛立ち紛れに机にバサリと投げ置いた。
「どいつもこいつも、適当な業務報告ばかりだ。巡回の経路は抜けだらけ、武具の点検記録は誤字だらけ。挙句の果てには、食堂の警備に志願する者が急増していると? 腑抜けるのも大概にしろ」
ギルベルトは苛立ちを隠そうともせず言い放った。
銀灰色の瞳が怒りに冷たく細められる。彼自身、実直であるがゆえに、部下たちのたるんだ空気が許せなかった。だが、その苛立ちの奥底には、あの女に言い寄る無数の男たちの存在に対する、彼自身もまだ気づいていない名状しがたい不快感が混じっていた。
「おっしゃる通りです。しかし団長、彼女の対応は見事なものですよ。言い寄る者たちを言葉巧みに躱し、決して隙を見せません。かえってそれが、血気盛んな者たちの狩猟本能を煽っているようですが」
クラウスはそこで一度言葉を区切り、手元の羽ペンを置いた。
「彼女を前にしては、敗戦国の他の令嬢もこの国の令嬢も子供にしか見えませんよ。どんなに薄汚れた格好をしていても、その中にある凛として洗練された真の美しさは隠しようがありません」
そんなクラウスの言葉を聞いたギルベルトは、鋭い視線でクラウスを一瞥した。
「……クラウス。お前もその使用人に腑抜けているのではあるまいな?」
「ふふ、まさか。ああ……でも彼女なら、私も不服はありませんけど」
クラウスはギルベルトに向き直り、不敵な笑顔でそう言った。
その余裕めいた笑みと「不服はない」という言葉に、ギルベルトの胸の奥で正体不明の黒い炎がボッと燃え上がった。普段なら右腕の軽口として聞き流せるはずが、なぜかひどく癇に障る。
(……いや、敗戦国の女がどうなろうと、俺の知ったことではない)
ギルベルトは己の内に渦巻く奇妙な焦燥感と怒りを強引に押さえ込み、再び別の書類を荒々しく手に取った。
「クラウス、本日の午後から全隊の合同訓練を行う。たるんだ性根を叩き直してやる。……徹底的にな」
「承知いたしました。救護班の準備も手厚くしておきましょう」
副団長は恭しく一礼し、執務室を出て行った。
一人残された部屋で、ギルベルトは深く息を吐き出した。手元の書類の文字が、どうにも頭に入ってこない。氷の騎士団長と恐れられる男の鉄の自制心に、見えない亀裂が入り始めていた。
執務室の重い扉を背に閉めると、クラウスは微かに肩を揺らして笑みをこぼした。
彼が廊下を少し進むと、そこで床の拭き掃除をしている一人の女性の姿に気付いた。
粗末な灰色の使用人服。後ろで一つにまとめられた銀糸の髪。冷たい水で赤くなった手で雑巾を絞り、板張りの床を這うように磨いているというのに、彼女の背筋は定規を当てたように凛と伸びている。
(なるほど。これは確かに、誰もが目を奪われるわけだ)
クラウスは足を止め、穏やかな声で話しかけた。
「ご苦労様。君が、噂の彼女だね」
「……」
エレオノーラは手を止め、静かに立ち上がって優雅な一礼をした。
「お見苦しいところをお見せし、申し訳ございません。何かご用命でしょうか」
「いや、謝る必要はないよ。君、執務室にいるギルベルト団長にお茶を持って行ってくれないか? 彼は今、少々気が立っていてね。美味しいお茶が必要なんだ」
そう言って、クラウスは小さくウインクを残し、廊下の奥へと歩みを進めていった。
「かしこまりました」
エレオノーラは彼の背中にもう一度深く一礼し、拭き掃除の道具を素早く片付けると、足早に厨房へと向かった。
(気が立っておいで、ですか……)
厨房の戸棚を開けながら、エレオノーラは思案した。騎士団に配給されているのは、香りも飛んでしまった粗悪な茶葉ばかりだ。普通に淹れただけでは、苛立った心を鎮めることなどできない。
しかし、戦時中の極限の物資不足を切り盛りしてきた彼女にとって、限られたものから最善を尽くすことは造作もないことだった。
(疲労と苛立ちを和らげるには、少しの甘みと香りがよろしいわね)
エレオノーラは自ら宿舎の裏庭で見つけ、干しておいた鎮静作用のある爽やかなハーブを茶葉に混ぜ込んだ。さらに、厨房の隅の瓶底にこびりついていた僅かな蜂蜜を湯で丁寧に溶かし、カップに忍ばせる。相手の体調や心情に合わせて完璧な一杯を用意する、それは彼女が侯爵夫人として培ってきた、客人を労うための矜持でもあった。
クラウスが出て行ってから暫くして、執務室の扉を控えめにノックする音が聞こえた。
ギルベルトは苛立ちに任せて、午後からの過酷な合同訓練のメニューを羊皮紙に書き殴っていた。羽ペンを走らせる手を止めず、不機嫌な声で応じる。
「入れ」
「失礼致します。お茶をお持ち致しました」
静かに扉が開き、車輪の音を極力立てないよう、慎重にワゴンを押したエレオノーラが入室する。
ギルベルトは書類から目を離さなかった。どうせいつもの怯えた平民の使用人か、媚びを売りに来た下級貴族の女だろうと思っていたのだ。
しかし、部屋の中にふわりと漂ってきた香りに、ギルベルトはふと羽ペンを止めた。
泥水のような宿舎の茶とは違う。蜂蜜の柔らかな甘みと、微かに鼻を抜けるハーブの澄んだ香りが、張り詰めていた彼の神経をひんやりと、そして優しく撫でたのだ。
エレオノーラは執務机の横へ音もなく進み出ると、素早く、かつ流れるような手つきでティーポットから紅茶を注いだ。そして、ギルベルトの利き手側、決して執務の邪魔にならない絶妙な位置に、カップとソーサーを陶器の音一つ立てずにそっと置いた。
(……なんだ、この香りは。それに、この洗練された動きは)
苛立ちが嘘のようにすうっと引いていくのを感じながら、ギルベルトの銀灰色の瞳が自然と横へ引き寄せられる。
視界に入ったのは、透けるような白い肌。冷たい水仕事のせいか指先はわずかに赤みを帯びているが、その所作の美しさは、バルツァーの王宮に仕える高位の侍女すら凌駕していた。
ギルベルトがゆっくりと顔を上げると、そこには深い海のような青い瞳が、静かに彼を見下ろしていた。
「蜂蜜と、心を落ち着かせるハーブを少しだけ加えております。どうぞ、お召し上がりくださいませ。ギルベルト騎士団長様」
入室からお茶を出すまでの短い動作。そして、押し付けがましさの欠片もない細やかな気遣い。たったそれだけのことなのに、彼女の隠しきれない気品と色香は、殺風景な執務室の中で圧倒的な存在感を放っていた。
「……お前は」
ギルベルトは低く掠れた声を漏らした。
先ほどまで怒りと焦燥に支配されていたはずの彼の思考が、目の前の銀髪の女の存在と、甘く爽やかなお茶の香りによって、一瞬にして真っ白に塗り潰されていくのを感じていた。
王宮の広間で遠くから見下ろした時とは違う。息遣いが聞こえるほどの至近距離で彼女を前にし、実直な彼の中で、抑えきれない何かが大きく脈打った瞬間だった。
「冷めないうちにどうぞ」
静かで、波一つない湖面のような声だった。
その響きにハッとして、ギルベルトは自身が我を忘れて目の前の女に見入っていたことに気づき、慌ててカップに手を伸ばした。
(俺は、何を腑抜けている……)
自身の緩んだ精神を叱咤しながら、熱い紅茶を一口含む。
その瞬間、爽やかに鼻に抜けるハーブの香りと、甘すぎない絶妙な蜂蜜の風味が口いっぱいに広がり、ギルベルトは思わず小さく息を吐き出した。それは、先ほどまで彼を支配していた刺々しい苛立ちが、嘘のように溶けていく感覚だった。
これまで執務室へ出入りしていた下級貴族の使用人たちは、揃いも揃ってギルベルトに媚びを売ることしか頭になかった。香水の匂いをきつくさせ、胸元を強調し、ただ厨房にある泥水のような茶を適当に淹れて持ってくるだけ。そこに「疲労した相手を労う」という本質的な気遣いなど、欠片も存在しなかった。
だが、目の前のこの女は違う。
ギルベルトがお茶の香りに心を落ち着かせている僅かな時間でさえ、彼女はただ突っ立ってはいなかった。
エレオノーラは執務机の端で無造作に重ねられ、今にも崩れそうになっていた未決書類の束にそっと手を伸ばした。そして、決して書類の文面には目を落とさないという完璧な礼儀を保ちながら、紙の端を美しく一直線に整え直したのだ。
さらに、彼女はエプロンのポケットから真っ白な布巾を取り出すと、机の隅や窓枠の棚など、ギルベルトの目に付きやすい場所に薄く積もっていた埃を、音もなくサッと拭き取っていく。
(……見事だ)
カップを持ったまま、ギルベルトはその流れるような所作を目で追ってしまった。
少しの時間も無駄にしない。出しゃばらず、けれど確実に環境を整えていく。彼女の仕事は、使用人としてあまりにも完璧であった。粗末な灰色の服を着ていようとも、その立ち振る舞いには、かつて広大な領地と屋敷を束ねていた「侯爵夫人」としての確かな矜持が息づいている。
「失礼致しました。では、私はこれで……」
一通りの整頓を終えたエレオノーラが、ワゴンを手にして静かに一礼し、踵を返そうとしたその時だった。
「待て」
ギルベルトの口から、無意識のうちに鋭い声が出ていた。
エレオノーラはピタリと足を止め、静かに振り返る。
彼女がロランディアの元侯爵夫人であり、最近騎士団の男たちを浮かれさせている張本人であることは、先ほどクラウスから報告を受けたばかりだ。彼女の正体など、とうの昔に知っている。
それでも、ギルベルトはどうしても彼女をこのまま部屋から帰したくなかった。
「お前は……見ない顔だが?」
ギルベルトはカップをソーサーに置き、腕を組んで、わざと感情を消した冷ややかな声で尋ねた。
それは、氷の騎士団長と呼ばれる男が、己の心をかき乱す目の前の女の「声」をもう少しだけ聞くために捻り出した、ひどく不器用で遠回しな引き留めであった。
「先日よりこちらの宿舎で雑用を仰せつかりました、エレオノーラと申します。以後、お見知りおきを」
エレオノーラの静かで透き通るような答えに、ギルベルトは無意識にその名を口の中で転がしていた。響きだけで、ひどく甘美な毒を孕んでいるように感じる。
「ただの雑用係が、これほど気の利いた茶を淹れ、機密書類に目を落とすこともなく完璧に整頓していくものか?」
わざと感情を消した、少し意地悪な追及だった。しかし、エレオノーラは穏やかな表情を崩さない。
「以前、少しばかり人の上に立つ身におりましたので。その時の経験が役に立ったまででございます」
「人の上に立つ身、か。敗戦国の元侯爵夫人ともあろう者が、このようなむさ苦しい宿舎で雑用を強いられて、惨めではないのか」
ギルベルトは自身でも驚くほど、棘のある言葉をぶつけていた。彼女のその完璧な仮面を剥がして、絶望や悲哀といった本当の感情を見てみたいという、名状しがたい衝動に駆られていたのだ。
しかし、深い海のような青い瞳は少しも揺らがなかった。
「惨め、ですか。……いいえ。生きるために働くことを、惨めだと思ったことは一度もございません」
エレオノーラは静かに言い切り、真っ直ぐにギルベルトを見つめ返した。
「私は国王陛下より、家畜同然に働けと命じられてここにおります。泥にまみれようと、ただ与えられた仕事をこなすのみ。団長様や騎士様方の邪魔立てをするつもりは毛頭ございませんわ」
ギルベルトは一瞬息を呑んだ。
王宮での「城の裏は崖だ」という王の非道な言葉が脳裏を過る。あれほどの絶望に突き落とされながら、この女は本当に少しの誇りも失っていないというのか。
ふと視線を落とすと、冷たい水仕事で赤く荒れ始めた彼女の指先が目に入った。その痛々しい手と、彼女の決して折れない気高さのアンバランスさが、ギルベルトの胸の奥をチクリと刺した。
「……そうか。だが、血気盛んな部下たちが貴様にうつつを抜かしているのは事実だ。これ以上、無用な騒ぎを起こすなよ」
これ以上言葉を交わせば、己の内に渦巻く正体不明の感情を隠しきれなくなりそうで、ギルベルトは逃げるように冷たい命令を下した。
「はい。心得ております。……では、失礼致します」
エレオノーラはワゴンを引き、優雅に一礼すると、今度こそ静かに執務室を後にした。重い扉が閉まり、部屋には再び静寂が降りた。
残されたギルベルトは、少しぬるくなったハーブの香る紅茶を口に運んだ。
先ほどまでの刺々しい苛立ちは完全に消え失せていた。だがその代わりに、決して思い通りにならないあの銀髪の女に対するどうしようもない渇望が、氷の騎士団長の胸の奥で静かに、けれど確実に根を張り始めていた。
◆◆◆◆◆
石造りの広大な闘技場に、鋼と鋼が激しくぶつかり合う甲高い音が響き渡っていた。
「甘い! そんな腑抜けた剣で、この疲弊した国を護れるつもりか!」
土埃の舞う中、ギルベルトの怒声が轟く。
彼の手にある木剣が空を裂き、大勢の騎士団員を相手に次々と鋭い一撃を叩き込んでいく。一寸の隙もない完璧な体捌きと、いつも以上に容赦のない荒々しい剣撃。打ち込まれた騎士たちは防ぐことすらできず、次々と無様な音を立てて地面に転がっていった。
「ぐあっ……!」
「だ、団長! まいりまし……っ!」
「まだだ! 立て!!」
降参の言葉すら許さず、ギルベルトは銀灰色の瞳をギラつかせて次なる相手へと踏み込む。
先ほどの執務室での出来事――あの銀髪の女が残していった甘いハーブの香りと、彼女の決して折れない気高い青い瞳が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。己の心をかき乱すその正体不明の熱を振り払うかのように、ギルベルトはひたすらに剣を振るい続けた。
「やれやれ。今日の団長は、いつもより随分と荒れていらっしゃる」
一方、闘技場の端では、副団長のクラウスが涼しい顔で呟いていた。
彼はギルベルトの剛剣とは真逆の、静かで流れるような剣捌きを見せていた。相手の力を利用して受け流し、最小限の動きで急所を突く。息一つ乱すことなく、彼もまた同じように次々と団員たちを地面に這いつくばらせていた。
「おい、お前たち。団長のあの荒れようは、君たちの気の緩みが原因だからね。死なない程度に、しっかりしごかれておいで」
クラウスは倒れ伏す騎士たちにそう微笑みかけると、余裕の表情で木剣を構え直した。
二時間にも及ぶ地獄のような合同訓練を終え、夕闇が迫る頃。
汗まみれになった特注の制服の襟元を緩めながら、ギルベルトは一人、執務室へと続く薄暗い廊下を歩いていた。冷たい風が火照った体を冷やしていくが、胸の奥で燻る奇妙な焦燥感だけは、どれだけ汗を流しても消え去ってはくれなかった。
その時、角を曲がろうとしたギルベルトの耳に、水場の方から数人の団員たちの声が聞こえてきた。
「くそっ……今日の団長、荒れすぎだろ」
「本当だよ。俺たちでストレス解消しないで欲しいぜ……あー、身体中いてぇわ」
愚痴をこぼしながら、彼らは井戸の冷たい水で顔を洗っているようだった。ギルベルトは歩みを止め、影に身を潜めた。叱責してやろうと思ったが、続く言葉に足が縫い止められた。
「あーあ、こりゃあ今晩は、敗戦国の使用人で気晴らしするしかねぇなぁ」
「おいおい、お前のお気に入りの女は、先日『崖から飛んだ』だろ?」
「あんなもん、使い捨てだろ。いくらでも代わりはいるさ。……それに、どうせ抱くなら、最近入ってきたあの銀髪の元侯爵夫人とやらがいい」
「違ぇねぇ! どんなにツンケンしてても、力ずくで組み敷いて泣かせてやりゃあ、たまらなくいい声で鳴きそうだぜ!」
下品な笑い声が、廊下に反響する。
その瞬間、ギルベルトは無意識のうちにギリッと奥歯を噛み締め、石の壁に押し当てた拳を血が滲むほど強く握りしめていた。
(使い捨てだと……? 力ずくで組み敷く……?)
敗戦国の女たちを人間とも思わない、その下劣極まりない会話。王の「崖から飛べ」という言葉に毒され、倫理観を失った部下たちへの強い怒り。
だが、ギルベルトの胸を最も激しく焼き焦がしたのは、騎士としての正義感から来る怒りだけではなかった。
あの、泥にまみれても決して誇りを失わないエレオノーラ。
今は隙を見せず、男たちの卑しい手から上手く身を躱している彼女だが、相手は力を持て余した獣の集団だ。やがて彼らの欲望の矛先が完全に彼女へと向き、その細い体が汚らわしい手で蹂躙されるかもしれない。彼女のあの澄んだ青い瞳が、絶望の涙に濡れる日が来るかもしれない。
(……そんなこと、絶対に許さん)
想像しただけで、五臓六腑が煮えくり返るような、ひどく黒くて重い「言いようのない感情」が込み上げてきた。
それは、彼自身まだはっきりと自覚していない『嫉妬』と、彼女を誰の目にも触れさせたくないという強烈な『独占欲』であった。
「……ふざけるな」
暗がりの中で、氷の騎士団長の瞳に、これまで誰も見たことのない狂おしい熱が宿った。




