プロローグ
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冷たい雨が、容赦なく石畳を叩く音だけが響いていた。
大陸を二分した長きにわたる戦乱は、残酷な結末をもって幕を閉じた。
肥沃な大地と華やかな文化を誇り、繁栄を極めていたロランディア王国。対するは、痩せた冷涼な土地にあって、強靭な軍事力と鉄の規律で台頭したバルツァー王国。資源を巡る些細な国境紛争から始まった戦火は、十数年もの歳月をかけて泥沼化し、両国を極限まで疲弊させた。
結果は、バルツァー王国の勝利。
しかし、勝者となったバルツァーとて、決して無傷ではなかった。長引く戦争は国内の若き命を多く奪い、深刻な人材不足と経済の困窮を招いていたのだ。余裕のない勝者が敗者に強いるのは、情けではなく、どこまでも冷酷な搾取であった。
ロランディアの誇りであった白亜の街並みは遠く、いまエレオノーラ・ローゼンタールの目の前にあるのは、威圧的で無機質な黒岩のバルツァー王宮だった。
かつては絹のドレスに包まれていた肌が、今は粗末な、麻の混じった灰色の使用人服に擦れて微かな熱を帯びている。二十七年という歳月の中で、これほどまでに自身の存在が戦利品、つまり「物」として扱われる日が来るとは、誰が想像しただろうか。
「……前へ出ろ。敗戦国の女たちよ」
王宮の広間に集められたのは、かつてロランディアの社交界で花と謳われた貴婦人や令嬢たちだった。皆、一様に顔を伏せ、すすり泣く声がひんやりとした空気に混じる。
その中で、エレオノーラだけは、静かに、だが真っ直ぐに前を見据えていた。
透き通るような銀糸の髪を実用的に後ろでまとめ、意志の強さを湛えた深い海のような青い瞳は、絶望に濁ることなく澄み渡っている。
(ここで折れてしまえば、戦火に散った夫にも、祖国で泥にまみれて戦った同胞たちにも顔向けができない)
彼女の背筋は、たとえ着ているものが古びた布切れであろうとも、侯爵夫人としての気品を失うことなく凛と伸びていた。
玉座に座るバルツァー国王は、鬱屈した目を彼女たちに向け、残酷な宣告を口にした。
「今日から貴様らは、この城の土だ。家畜同然に働き、我が国の再興に尽くせ。……もし、この生活に耐えられぬという者がいるならば、城の裏は崖になっている。自ら身を投じるがいい。死体ならば、場所を取らずに済むからな」
悪意に満ちた嘲笑が広間に響く。隣にいたうら若き令嬢が、その言葉に耐えかねて膝を突き、崩れ落ちた。
だが、エレオノーラは動じない。
彼女は知っていた。戦時中、物資が底を突き、領民たちが飢えに苦しんでいたあの地獄のような日々を。豪華な食事を捨て、自ら炊き出しの鍋をかき混ぜ、生きるために奔走したあの経験が、今の彼女の確固たる芯となっていた。
「かしこまりました。……陛下」
エレオノーラが静かに頭を下げたとき、その動作のあまりの美しさに、広間の空気が一瞬だけ縫い留められた。
屈辱を受け入れながらも、決して誇りまでは売り渡さない。洗練された姿勢と所作から放たれる、隠しきれない気品と色香。
その光景を、回廊の二階、薄暗い影の中から凝視している男がいた。
バルツァー王国が誇る若き王国騎士団長、ギルベルト・フォン・シュバルツバルトである。
(あの女……。何故、これほどの状況で絶望していない?)
長身で厚い胸板を持つ彼は、漆黒に銀糸の装飾が施された特注の制服の袖口を、無意識のうちに強く握りしめた。
今まで見てきた敗戦国の女たちは、恐怖に怯えるか、あるいは媚びを売って生き延びようとするかのどちらかだった。だが、あの銀髪の女は違う。鋭く冷ややかな銀灰色の瞳を以てしても、彼女の奥底にある感情は読み取れない。
「おい、あの女だ。一番年嵩だが、見栄えだけはいい。あれを騎士団の雑用係に回せ。あそこの連中は荒っぽい。せいぜい、痛い目を見て根性を叩き直してもらうんだな」
内官の無慈悲な指示により、エレオノーラは血の気の多い騎士たちが集う駐屯地への配属が決まった。
それは、凄惨な労働と暴力の渦巻く場所へ投げ込まれることを意味していた。それでも、彼女は表情を変えなかった。
(掃除、洗濯、炊事。……生きるためにやるべきことは、どこへ行っても変わりません)
エレオノーラは、雨に濡れた石畳を踏みしめ、静かに歩き出した。
粗末な灰色の服を纏ったその後ろ姿は、誰よりも気高く、その一歩一歩が敗北への静かなる抵抗であるかのように力強かった。
次回本編です




