番外編:クラリス・ベルーナル伯爵夫妻編
王都の一等地、豪奢な装飾が施されたベルーナル伯爵邸の一室。
ベルーナル商会の女主人の顔も持つクラリス・ベルーナル伯爵夫人は、目の前で平然と紅茶を啜っている弟、クラウスを鋭い眼差しで射抜いていた。
「――で? あんた、いつの間に騎士団を辞めたのよ」
「いつ、と言われましても。新体制の事後処理が終わった後、正式に受理していただきましたよ」
クラウスが事もなげに答えると、クラリスは扇を机に置き、身を乗り出した。
「国王陛下があんなに引き留めていたっていうのに! それで? 今は何をして食いつないでいるの? 伯爵家の三男坊がのたれ死んだなんてことになったら、私の商会の名に傷がつくわ」
「ご心配なく、姉上。私は現在、シュバルツバルト公爵邸で筆頭側近として雇っていただいておりますよ。主君は気前が良く、高給で私を重用してくださっています」
その言葉に、クラリスは目を見開いた。
「シュバルツバルト公爵家……あのギルベルト閣下の下にいるっていうの? ……そう。あんな無茶苦茶な男を、よくあんたが側近として選んだわね」
クラリスは呆れたように息を吐き、すぐに真剣な表情を浮かべた。
「そうだわ。ねぇ、彼女と子供に会わせて欲しいわ」
「おや、姉上。主君のプライベートに踏み込むのは……」
「そんなこといいから聞きなさいな! あの逃亡劇、私の商会の荷馬車を融通して、どれだけ私がハラハラしながら彼女を案じていたと思っているの? 国境付近で別れてから、身重の体で無事にしているか、ずっと気掛かりだったんだから。無事に出産して、あの閣下を立派に更生させたっていう彼女に、正式にお祝いを言わせなさい」
弟を圧倒する姉の勢いに、クラウスは(やれやれ)と苦笑しながらも、どこか誇らしげに目を細めた。
後日、クラウスを通じてこの話を聞いたエレオノーラは、深い海のような青い瞳を潤ませて二つ返事で承諾した。
「クラリス様には、ずっと直接お礼を申し上げたかったのです。あの方の助けがなければ、私は今ここにいられなかったでしょう。……是非、こちらから伺わせていただきたいとお伝えして」
公爵邸では、同行を強く希望するギルベルトを「女性同士の再会ですから。テオドールとお二方にお会いしてくるだけですよ」とエレオノーラが優しく、けれど断固として嗜めた。
かつて自分を叱咤して目を覚まさせてくれたクラリスに対し、ギルベルトは深い敬意と感謝を抱いている。だからこそ「俺も礼を言いに行くべきだ」と食い下がったのだが、最後には息子テオドールから「おとうさま、おるすばん、がんばってね!」とトドメを刺され、肩を落として二人を見送るしかなかった。
そして当日、ベルーナル伯爵邸。
サロンの扉が開くと、そこにはベルーナル伯爵夫妻が正装で静かに控えていた。
エレオノーラはテオドールの手を引き、まずはシュバルツバルト公爵夫人としての完璧な所作でカーテシーを捧げた。
「お招きいただき、心より感謝申し上げます。ベルーナル伯爵、そして夫人。お二人にお会いできる日を、どれほど待ち望んでいたことか」
「よくおいでくださいました、公爵夫人。今日という日を迎えられたこと、これ以上の喜びはありません」
ベルーナル伯爵が穏やかで品位ある声で応じ、クラリスもまた、かつての逃亡中の親しさを一旦胸に仕舞い、深々と頭を下げた。
「エレオノーラ様。貴女のその凛としたお姿を拝見できて、感無量でございますわ」
張り詰めたような、けれど温かな沈黙が流れる。
その空気を打ち破ったのは、エレオノーラの隣で目を丸くして固まっていたテオドールだった。
テオドールは、母親の背後に控えるクラウスと、目の前に立つクラリスを、何度も何度も交互に見返した。
「……おかあさま。クラウスが、ふたりいる」
少年の素直すぎる驚きの声に、一同の肩の力がふっと抜けた。
「ふふっ。テオドール様、こちらは私の姉のクラリスですよ。私とそっくりでしょう?」
クラウスが優しく説明すると、テオドールは信じられないといった様子でクラリスを見上げた。
「ほんとうに、そっくり……。クラウスがドレスを着てるみたい!」
「まあ、なんて可愛らしい騎士様かしら! 閣下よりもずっと正直で賢そうだわ」
クラリスが堪えきれずに笑い声を上げると、ようやく場の空気はかつての道中のような、気心の知れたものへと溶けていった。
お茶の香りが漂う中、エレオノーラは決意を込めた表情で、自身の鞄からシルクの布に包まれた「それ」を取り出した。
銀色に輝く、重厚な懐中時計。
表面にはベルーナル家の家紋が、今も変わらず精緻に刻まれている。
「伯爵。今日伺ったのは、積もるお話もさることながら……どうしても、これをお返ししたかったのです」
エレオノーラは、その時計を両手で包むようにして、伯爵の前に差し出した。
「あの朝霧の中、これを私の手に握らせてくださった時……私は、絶望の淵にいても一人ではないのだと、この子を何としても守り抜くのだと、強く立ち上がることができました。この時計が刻んでくれた時間は、私の希望そのものでした。……心から、ありがとうございました」
伯爵は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから恭しく、大きな手で静かに時計を受け取った。
「公爵夫人。これを肌身離さず持っていてくださったこと、そしてこうして元気なお姿で見せに来てくださったこと、心より感謝申し上げます。貴女様のその気高き歩みに寄り添えたことは、この時計にとっても、我がベルーナル家にとっても、終生の誇りでございます」
伯爵の誠実な言葉に、クラリスもエレオノーラの肩にそっと手を添えた。
「本当よ。あの時、『元気な赤ちゃんを産んでね』って言った約束、ちゃんと守ってくれたのね。……こうして公爵夫人として戻ってきてくださって、私は本当に嬉しいわ」
懐中時計は、本来の持ち主の元へ戻った。
けれど、あの日交わされた銀色の輝きは、今もエレオノーラとベルーナル夫妻の心の中に、消えることのない深い絆として刻まれ続けている。
テオドールは、クラリスが差し出した特製のクッキーを頬張りながら、「おばさま、また遊びに来てもいい?」と無邪気に笑っている。
「ええ、もちろんよ。次はもっと美味しいお菓子をたくさん用意しておくわね」
クラリスは愛らしい少年を優しく撫でながら、隣に立つ夫と視線を交わした。
かつて命懸けで守り抜いた小さな命が、今こうして平和な光景の中で輝いている。伯爵の大きな手の中にある銀の懐中時計は、静かに、しかし確かな時を刻み続けていた。
(本当に……立派な公爵夫人になられたものだわ。あの傲慢な閣下をここまで変えてしまうほどに)
王都の経済を牽引する強気な商人として、これまで数々の人間を見てきたクラリス。
彼女の深い緑色の瞳には、困難に屈せず誇りを貫いた友への尽きせぬ敬意と、これから共に歩む新しい時代への希望が、ただ力強く輝いていた。




