番外編:筆頭側近 クラウス・ヴェルナー編
バルツァー王国の歴史が大きく動いたあの日、王宮を包囲したのはギルベルトの後を継ぎ、新たに「騎士団長」に就任したクラウス・ヴェルナーであった。
狂気に取り憑かれた先王を流れる水のような剣技で無力化し、最小限の流血で新王アルベルトによる平和な時代を切り開いたクラウスは「静かなる英雄」と呼ばれていた。
クーデターの事後処理も新体制の構築も完璧に完遂し、誰もが彼が新王の右腕として更なる出世を遂げるだろうと信じて疑わなかった。しかし、国政が落ち着きを見せ始めた初秋、彼はあっさりと騎士団を辞してしまった。
理由はただ一つ。かつての主君であり、無二の戦友であるギルベルトとの約束を果たすためだ。
『情勢が落ち着いたら私も騎士団を辞めますからね。そうしたら、次期公爵である貴方の家で、側近として高給で雇ってくださいよ』
「私はやはり、貴方の背中を支えている方が性に合っているのですよ」と食えない笑みを浮かべて公爵邸に押しかけてきたクラウスを、ギルベルトは呆れながらも心底嬉しそうに迎え入れた。
現在は筆頭側近として、その明晰な頭脳を公爵家の運営に振るっているが、新王からのたっての願いで、月に一度だけは特別師範として王宮騎士団の指導に当たっていた。
「テオドール様、本日は私と共に王宮騎士団へ参りましょうか」
クラウスが優しく声をかけると、テオドールは海のように深い青い瞳を輝かせた。
前公爵夫妻と現公爵夫妻が揃って縁戚の葬儀へ参列するため、数日間の留守を任されたクラウスは、五歳になるテオドールの面倒を見ていた。最近、父であるギルベルトから木剣の手ほどきを受け始めた少年は、騎士団という響きに強い憧れを抱いている。
「ちちうえも、きしだんにいたのでしょう?」
「ええ。お父上はかつて、誰よりも強く勇敢な騎士団長でしたよ」
「クラウスよりも、つよかった?」
「ええ、私よりもずっと。……お父上の剣は、守るべき者のために迷いなく振るわれる、真に気高い力を持っていましたから」
馬車の中で、クラウスは穏やかな微笑みを浮かべながら語った。彼がギルベルトに代わって一時的に騎士団長を引き受け、そして今こうして再び側近として仕えているのは、その主君の「力」の危うさと尊さを誰よりも理解し、敬愛しているからに他ならない。
訓練場に到着すると、軽装の訓練着に着替えたクラウスは、テオドールを見学用の椅子に案内した。
「テオドール様、危ないですから、あちらで見ていてくださいね」
少年の頭を優しく撫で、目線を合わせて微笑む。その姿は慈愛に満ちた叔父のようであったが、訓練場の中心に立った瞬間、クラウスの纏う気配は一変した。
声高に叫ぶわけではない。だが、彼の静かな一歩が訓練場の石床を鳴らすだけで、猛者揃いの騎士たちが一斉に背筋を伸ばし、沈黙する。それは、かつて自らの手で王宮を制圧し、国の歴史を変えた「団長」だけが持つ、底知れぬ威厳であった。
「足元が疎かになっています。どれほど鋭い一撃も、大地に根が張っていなければ、ただの虚勢に過ぎません」
クラウスの声は澄み渡り、訓練場の隅々まで届く。
テオドールは、初めて見るクラウスの剣技に釘付けになった。
父ギルベルトの剣は、圧倒的な膂力と踏み込みで空間そのものを断ち切るような、破壊的な力強さがある。それに対し、クラウスの剣は、まるで目に見えない風を操っているかのようだった。
寄せてくる攻撃を、流れる水のごとき動きで受け流し、その勢いをそのまま相手に返す。
無駄な力みが一切ない、舞うような美しさ。
(ちちうえとは、ぜんぜん違う……)
また、その指導も非常に理論的だった。
「そこだ!」と感覚的な言葉で教える父に比べ、クラウスは「肘の角度をあとわずかに内側へ入れれば、剣筋はさらに安定しますよ」と、五歳の子供が聞いても理解できるほど、丁寧で、そして優しい。
団員たちも、伝説の英雄への畏怖を超えた敬意を持って、その言葉を一言一句聞き漏らすまいと熱い視線を送っていた。
訓練が終わり、公爵邸への帰り道。
馬車の中で、テオドールは興奮した様子でクラウスの袖をきゅっと掴んだ。
「クラウス、すごかった! お水みたいに、ひらひらしてた!」
「ふふ、お恥ずかしい。私はお父上のように正面からねじ伏せる強さがない分、ああして効率を求めるしかないのですよ」
クラウスは控えめに笑ったが、その瞳には、自分の選んだ道に一片の悔いもないという、静かな自負が宿っていた。
テオドールは真剣な眼差しで、クラウスを見上げた。
「ぼく、クラウスみたいに綺麗に剣を振りたい。……ねぇ、クラウス。こんど、ぼくに剣を教えて?」
一瞬、クラウスの深い緑色の瞳に驚きが走り、すぐにいつもの柔らかな慈しみへと変わった。
「……光栄なお誘いですね。ですが、お父上が良いと仰ったら、にしましょうか」
彼は少年の小さな手をそっと包み込み、約束の代わりとした。
数日後、帰宅したギルベルトとエレオノーラを玄関で出迎えた際、テオドールは真っ先に父親に駆け寄り、元気よく宣言した。
「おとうさま、おかあさま、おかえりなさい! あのね、ぼく、これからはクラウスに剣をならう!」
その場に、凍りついたような沈黙が流れる。
ギルベルトは目を見開いたまま固まり、その銀灰色の瞳が激しく揺れ動いた。
「……テオドール。俺の指導では不満だと言うのか?」
「ううん、おとうさまのも好きだけど、クラウスのは教えかたは分かりやすくて、やさしいんだよ!」
無邪気な追撃が、かつての勇猛な騎士団長の胸を射抜く。
ギルベルトはがっくりと肩を落とし、背後に控えるクラウスを、泣きそうな、あるいは恨みがましいような複雑な表情で睨みつけた。
「……クラウス。貴様、留守の間に息子に何を吹き込んだ」
「滅相もございません。私はただ、テオドール様のご質問に、一人の騎士として誠実にお答えしていただけですよ」
殺気すら感じる主君の視線を、クラウスは涼やかな微笑みで受け流す。
その表情には、不器用な主君の動揺を少しだけ楽しんでいるような、彼らしい大人の余裕と、深い愛情が滲んでいた。
「お父様としての威厳を心配なさらずとも。私はあくまで、ギルベルト様が教えきれない細部を補うだけです。お二人が望むなら、私は喜んで、若君の盾となり、導き手となりましょう」
声を荒らげるギルベルトの横で、エレオノーラがくすくすと上品に笑い、夫の腕にそっと手を添えた。
「まあ、ギルベルト様。テオドールがこれほどやる気になっているのですから、クラウス様にもお力添えをいただければ、この子はより素晴らしい騎士になれますわ。……ね?」
「エレオノーラ……君まで言うのか……」
愛する妻と、自分を真っ直ぐに見上げる息子。そして、どんな時も変わらず背中を預けられる、無二の戦友であり側近である男。
賑やかで温かなやり取りの中に、かつての冷え切った公爵邸の面影はどこにもない。
クラウスは一歩下がり、深く一礼しながら、主君一家を包む幸福な光景を、誰よりも穏やかな眼差しで見つめていた。
それは、彼が自ら「騎士団長」として立ち上がり、己のすべてを懸けて守り抜いた、何物にも代えがたい平和の象徴であった。




