番外編:テオドール・フォン・シュバルツバルト編
公爵邸の訓練場には、朝から何とも言えない気まずい沈黙が流れていた。
王国最強と謳われた元騎士団長ギルベルトが、木剣を手に、我が子である五歳のテオドールを前にして立ち尽くしている。
「……テオドール。もう一度だけだ。足の裏から力を汲み上げ、腕に一気に――」
「いやです。おとうさまの教えかたは分かりません」
テオドールは小さな胸を張り、唇を尖らせて頑なに言い放った。父譲りの漆黒の髪を揺らし、その瞳には明確な拒絶の色がある。
「な……。昨日まで、あんなに熱心に励んでいたではないか」
「クラウスはちゃんと分かりやすく教えてくれて、やさしいです。ぼく、クラウスに教わりたいです」
二言目には側近の名を出す息子に、ギルベルトは目に見えてショックを受けた。戦場では一国の軍隊を相手にしても揺るがなかった背中が、わずかに震えている。
そんなやり取りを、訓練場の入り口でいつものように穏やかな笑みを浮かべて見守っていたクラウスは、主君からの「何とかしろ」という無言の助けを求める視線を受け取り、静かに出歩み出た。
「お困りのようですね、ギルベルト様」
「……クラウス。テオドールがこう言っている。不本意だが、今日の指導は貴様に任せる」
ギルベルトは絞り出すような声でそう告げると、悔しそうに木剣をクラウスへ手渡した。
「承知いたしました。では、テオドール様。本日は私と一緒に、基本をもう一度おさらいしましょうか」
「はいっ!」
先程までの頑固さが嘘のように、テオドールは元気よく返事をして構えを取った。
クラウスはテオドールの隣に立ち、その小さな背筋や足の角度を優しく、けれど的確に修正していく。
「テオドール様、お父様が仰っていた『力を流し込む』というのは、ここの重心を少しだけ落とすということですよ」
「重心……?」
「ええ。そう、そのまま膝を柔らかく。……そのまま真っ直ぐ振り下ろしてください」
クラウスの論理的で穏やかな指導に従い、テオドールが木剣を振るう。
すると、ギルベルトがいくら「ドカンとやれ」と教えても修正できなかった姿勢の歪みが、見る間に正されていった。父が教えたかった圧倒的な力強さの「土台」が、クラウスの教えによってようやくテオドールの体の中に形作られていく。
一通りの稽古を終え、休憩に入った時のことだ。
クラウスは冷たい水を用意し、隣で息を弾ませる小さな騎士に問いかけた。
「テオドール様、なぜそんなに強くなりたいのですか? お勉強の方も、家庭教師が感心するほど熱心だと聞いておりますが」
テオドールはタオルで顔を拭うと、青い瞳を真っ直ぐに輝かせて宣言した。
「あのね、ぼくもおとうさまみたいに、おかあさまを守れるように強くなりたいの」
迷いのない、純粋な決意。
かつてその「強さ」を復讐や家門の維持のためにしか使えなかった大人たちとは違う、愛する者を守るという騎士の本質。
「……ふふ。テオドール様は、立派にギルベルト様の意志を継いでおられますね」
クラウスは目を細め、慈しむように少年の頭を撫でた。しかし、すぐに少しだけ真剣な表情を付け加える。
「ですが、強くなるだけではだめですよ。お勉強も頑張って、大人になったら、このシュバルツバルト公爵家を立派に継がなくてはなりません」
「わかってるよ! ぼく、立派な当主さまになるんだ」
テオドールは無邪気に笑い、クラウスの手をぎゅっと握りしめた。
「その時は、クラウスも手伝ってね。ぼく、クラウスがいなきゃ困っちゃうから」
屈託のないその言葉に、クラウスは一瞬だけ呆然とし、それから降参したように微笑を浮かべた。
(これは……老後も引退出来そうにありませんね)
今の主君に一生を捧げるつもりでいたが、どうやらその次の世代まで、自分はこき使われる運命にあるらしい。けれど、その未来は決して暗いものではなかった。
そんな二人のやり取りを、訓練場から少し離れた回廊の影で、ギルベルトとエレオノーラは静かに眺めていた。
「……俺の息子ながら、あんなにクラウスに懐くとは。少しばかり複雑だな」
腕を組み、眉間に皺を寄せながら呟くギルベルト。しかし、その視線はテオドールの成長を誰よりも誇らしく思っていることを隠しきれていない。
エレオノーラは夫の腕にそっと手を添え、海のような深い青い瞳を和ませた。
「いいではありませんか。あの子は貴方の強さと、クラウス様の賢さを、同時に学ぼうとしているのですわ。……とても頼もしい当主様になりそうです」
「ああ、そうだな。……あいつに追い越されないよう、俺も精進せねばならん」
ギルベルトは不器用な笑みを浮かべ、愛する妻をそっと抱き寄せた。
かつては冷徹な義務感だけで繋がっていたこの公爵邸に、今、新しい世代の誇りが育とうとしている。
小さな騎士の志は、これからもこの温かな庭で、流れる水のように、そして大地を揺るがす力のように、着実に磨かれていくのだろう。




