番外編:春の風
バルツァー王国を包んでいた厳しい冬が終わりを告げようとしていた。
窓の外では、雪解けのしずくが陽光を浴びて宝石のように輝き、庭園の隅では早咲きの小さな花が顔を覗かせている。
公務をひと段落させたエレオノーラは、自室の奥にある私的な引き出しから、一つの小さな木箱を取り出した。
指先でなぞる木肌は、年月を経て深い色艶を帯びている。
そっと蓋を開けると、中には薄い布に包まれた、一房の金髪が収められていた。
亡き夫、セオドア・ローゼンタールの遺髪。
ロランディア王国が敗北し、すべてを失ったあの日から、エレオノーラはこの小さな箱だけを心の拠り所として、灰色の使用人服の懐に忍ばせ続けてきた。
(……セオドア様。あなたを忘れたことはありません)
だが、今の自分はシュバルツバルト公爵夫人であり、ギルベルトという、すべてを賭して自分を愛してくれた男の妻だ。
このまま秘密を抱えるように遺髪を持ち続けることは、過去に囚われているようで、現在の幸せに対して不誠実なのではないか。春の訪れと共に、エレオノーラの心にはそんな懸念が芽生え始めていた。
何より、ギルベルトはこの遺髪の存在を知らない。
かつての彼であれば、たとえ亡くなった相手であっても、エレオノーラの心に自分以外の男の影があることを決して許さなかっただろう。
(ギルベルト様にお話しすべきだろうか。それとも、このまま……)
エレオノーラは数日間悩み抜いた。
初めて愛した人。領地を豊かにし、穏やかな日々を与えてくれた人。彼をぞんざいに扱うつもりは決してない。けれど、彼がこの世に生きた証を、いつまでも暗い引き出しの中に閉じ込めておくのは忍びなかった。せめて、日当たりの良い場所に小さな墓標を立て、土に返してやりたい。
意を決した彼女は、夕食後の静かな時間、執務室で一人書類に目を通していたギルベルトの元を訪れた。
「……ギルベルト様、少しお時間をよろしいでしょうか」
扉を開けたエレオノーラの表情がいつになく硬いことに気づき、ギルベルトはすぐにペンを置いた。
「どうした、エレオノーラ。顔色が優れないようだが」
ギルベルトは立ち上がり、彼女をソファへと促した。
エレオノーラは膝の上で、木箱を包んだ手を小さく震わせている。
「実は、貴方にずっとお話ししていなかったことがあります。……いえ、勇気がなくて、隠していたと言った方が正しいかもしれません」
エレオノーラは震える指先で木箱をテーブルに置いた。
ギルベルトの鋭い銀灰色の瞳が、その箱を見つめる。
「それは……」
「亡き夫、セオドア様の遺髪です。ロランディアから連行された時、これだけを隠し持ってまいりました。今の今まで、手放せずにいたのです」
部屋の中に、重苦しい沈黙が降りた。
エレオノーラは、ギルベルトが怒りに震えるか、あるいは冷たく視線を逸らすのではないかと、奥歯を噛み締めて待った。
(きっと、良い気はなさらないでしょう。今の私は、貴方だけの妻なのですから)
しかし、返ってきたのは静かな溜息だった。
ギルベルトはゆっくりと手を伸ばし、エレオノーラの震える手を大きな掌で包み込んだ。
「……エレオノーラ。俺をそんなに器の小さい男だと思っていたのか?」
「え……?」
顔を上げたエレオノーラの目に、ギルベルトの穏やかな、けれどどこか寂しげな微笑みが映った。
「貴女がかつて、その男を愛していたことは知っている。……今の貴女の気高さは、その過去も含めて形作られたものだ。俺が愛しているのは、そのすべてを背負って生き抜いてきたエレオノーラ、君なのだから」
「ギルベルト様……」
「だが、そうだな。……いつまでも箱の中に閉じ込めておくのは、その男にとっても本意ではないだろう。領主として民のために戦地に赴き、君を愛し抜いた男なら、広い空の下で眠りたいはずだ」
ギルベルトの言葉には、かつての狂気じみた独占欲は微塵もなかった。
彼は、エレオノーラの過去を「奪うべき敵」としてではなく、「彼女を支えてきた歴史」として受け入れようとしていた。
「埋葬したい場所はあるか?」
「いえ……。バルツァーの土に返して良いものか、迷っておりました。彼はロランディアの領主でした。国が人手不足に陥った時、民を守るためにと自ら剣を取り、不慣れな戦場へ召集されていったのです。そんな彼を、敵国であったこの地に葬って良いものかと」
「ならば、公爵邸の北側、見晴らしの良い丘にしよう。そこからはかつてのロランディアの地も僅かに望めるはずだ。俺が公爵として、正式に場所を用意しよう。墓標には、ローゼンタール領主の名を刻む」
エレオノーラは目を見開いた。
敗戦国の貴族の名を、バルツァーの公爵家の敷地に刻むなど、異例中の異例だ。
「そんな、そこまでしていただかなくても……」
「いや、俺がそうしたいのだ。君を今日まで守り、生かしてくれた恩人だからな。彼が君を守り抜いてくれなければ、俺は君に出会うこともできなかった。……これは、俺から彼への、最大の敬意だ」
ギルベルトはそう言うと、エレオノーラを優しく抱き寄せた。
彼の厚い胸板から伝わる確かな鼓動と体温が、エレオノーラの不安を溶かしていく。
数日後。
柔らかな風が吹き抜ける丘の上に、小さな石造りの墓標が立てられた。
仰々しくはないが、気品あるその佇まいは、生前のセオドアの人柄を映しているようだった。
墓標を見つめるエレオノーラの横で、五歳のテオドールが不思議そうに見上げて問う。
「おかあさま、この人はだれですか?」
エレオノーラはテオドールの漆黒の髪を優しく撫で、穏やかに微笑んだ。
「お母様の大切な人よ。今の私があるのは、この方が守ってくださったおかげなの」
テオドールはこくりと頷き、小さな体を折って丁寧に礼をした。
その姿を見守っていたギルベルトは、そっと息子の肩を抱いた。
「テオドール、少しあちらへ行ってお母様を一人にしてあげよう」
ギルベルトは、妻にセオドアとの最後の別れの時間を与えるため、息子を連れて少し離れた場所へと歩き出した。
一人、丘に残されたエレオノーラは、墓標の前に跪いた。
遠く広がるバルツァーの地平線の向こう、かつての故郷を思い描きながら、彼女は静かに唇を開く。
「セオドア様……。私は今、かつての敵国の騎士であった彼と、そして授かった子供と、幸せに暮らしています」
込み上げる感情を抑えるように、エレオノーラは胸元をきゅっと握り締めた。
「貴方は……そんな私を、許せないかもしれません。ですが、どうか……貴方を思いながら、彼らと幸せになる私を見守ってください。貴方が与えてくれたこの命を、私は最期まで誇り高く生きてみせます」
その時だった。
しんと静まり返った丘に、不意に一陣の風が吹き抜けた。
それは春の寒さを残したものではなく、エレオノーラを纏うように、ふわりと温かい。
(ああ……)
まるで、あの穏やかだった日々、セオドアが彼女の肩を抱き寄せた時の体温のようだった。
「それでいいんだよ」と、彼が優しく許してくれたような気がした。
風に揺れる銀糸の髪をそっと押さえ、エレオノーラは空を見上げた。
涙に濡れた青い瞳は、今はもう迷いのない光を湛えている。
少し離れた場所で、夫と息子が自分を待っているのが見えた。
エレオノーラは静かに立ち上がり、愛する家族の元へと歩き出す。
丘の上に吹く春の風は、いつまでも温かく、彼女の新しい一歩を祝福するように吹き抜けていた。
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