第参話 堕 - 届かぬ声、消える光
自分の体が震えているのが、自転車のタイヤ越しに伝わる。横を通る車が、皆ゆっくりと通り過ぎている。その横を走る自分もまた、ゆっくりと進んでいた。視界の端で、自分の影がふらふらと揺れている。
真弥はどこに行ってっしまったのか。無事なのだろうか。いや、無事に決まっている。そう信じるしかない。
自転車のハンドルを握り締め、ふらふらが収まった頃、神社の鳥居の前に着いた。苔の生えた鳥居の横に自転車を停める。湿った木が鬱蒼と茂る境内から、何かが腐ったような臭いが鼻を抜ける。自分の汗が、石段の色を濃くする。
昼間の境内は、昨夜の底知れない暗闇とは打って変わって、白茶けた太陽の光に晒されていた。だが、明るいからといって安心できるわけではない。拝殿の脇、昨夜は気が付かなかった木々の隙間に、それはいた。
――案山子だ。
一体、二体……。
杭に横棒を渡し、古びた作業着や赤色のシャツを着せられただけの無骨な人形。それが境内に散りばめられている。
「……十六」
一つずつ指で数えて、喉の奥がヒリついた。ちょうど、この街から消えた人間と同じ数。
「どうかしましたか?」
いつの間にか、背後には八重さんの姿が。
「いや、昨日来た時に、こんな案山子あったけなあと。」
「暗かったからわからなかっただけじゃないですかね?真弥さんのこともあって焦っていたのでしょう。」
確かにそうかもしれない。きっとそうだろう。そう自分に言い聞かせた。
「そんなことより、こちら、例のキーホルダーです。」
それは、間違いなく真弥のものだった。声が出ない。手が震える。
「……まあ、まだ真弥さんに何かあったと決まったわけじゃ」
「何もないわけないだろ!」
八重さんの声を遮って大声をあげる。
「ご、ごめん……。」
八重さんが小さく首を振る。
「……八重さんも、連続失踪事件のことは知っているでしょう。だから、それに真弥が巻き込まれたんじゃないかと思うと……。」
「……大丈夫ですよ、きっと。真弥さんは無事です……。」
「今、なんて?」
八重さんが何か、つぶやいた気がした。
「あ、いえ、なんでも。そうだ、キーホルダーを見つけた場所に案内しますね。」
気の所為だったのだろうか。八重さんが「まだ」とつぶやいたように聞こえたのは。案山子の着ている服が、真弥のものと同じように見えたのは。
拝殿の裏は、表とは違い、一層と木が茂り、ジメジメとしていた。誰かの足跡が浅く残っている。何往復かしような足跡だ。そんな地面に僕の足跡が上書きされる。
「ここです。この植え込みのそばに。」
そこはなんの変哲もない、土臭い地面だった。変わったことといえば、近くに井戸らしきものがあるだけだった。
「これって、井戸ですか?」
「え?ええっと、そ、そうです。」
なぜか驚いた様子で八重さんは答える。なんだか嫌な予感がした。まるで井戸の中から痩せ細った手が僕を引き摺り込もうとしているかのような。そんな邪悪な気配が、その井戸から溢れていた。行ってはいけないというのはわかっていても、なぜか体が吸い寄せられてしまう。
綺麗に積み上げられた井戸の石に手をつく。八重さんは何も言わない。もう、戻れない。ゆっくりと、頭を前に伸ばす。
井戸の中、邪悪な気配の根源を覗くと……、
それはただの井戸であった。
期待外れもクソもないが、なんというか、うん。ただの井戸であった。
「ねえ、八重s……!」
振り向こうとしたその時、彼女は僕を押さえつけた。その目は、薄暗い場所にいるはずなのに、嫌に光っていた。
「ちょっ!何をするんですか!」
八重さんは僕の問いかけに答えることはなく、ただ不吉な笑みを浮かべるだけであった。
「……これは神聖な儀式なのです。邪魔をするなら、そんなに妹さんと一緒になりたいというのなら、貴方も身を捧げ、その一部となりなさい!」
背中に触れた彼女の手は、驚くほど細く、冷たかった。なのに、巨大な鉄の塊に押されたかのような、抗いようのない力で僕は宙に浮いた。湿ったカビの匂いと、暗い冷気が足元から一気にせり上がってくる。
やばい、これはやばいやつだ。そう悟った。邪悪な気配の中、ひたすら僕の目には石垣が映っていた。黒く、硬そうな石垣が。
ごめん、真弥。頭の中を真弥との思い出が駆け抜ける。
「大丈夫、なんとかなるって。」
真弥の口癖が、最後にどこからか聞こえた――。




