第9話「和解」
息を切らし、生い茂る草木をがむしゃらにかき分けて、私はあの日決裂した茂みへと飛び込んだ。
「ロバート……!」
声を上げると、岩陰に身を潜めていたロバートが驚いたように碧い瞳を丸くした。
あの日から、丸1週間。私は一度もここへ来なかった。再会した彼の顔は、1週間前よりも少し痩せ細り、じっとりとした冷や汗が額に浮かんでいる。
「陽子……? 本当に、ユーなのか……。私は、もう二度と会えないかと……」
「話はあとです。村の男たちと憲兵さんが、あなたを探しに山狩りを始めます。ここも見つかるのは時間の問題です。動けますか?」
「足は……ユーが最初に巻いてくれた包帯と添え木のおかげで、もうなんとか、少しなら歩ける。腹の傷はもうほとんど大丈夫だ…」
ロバートは痛みに歯を食いしばりながらも、近くの木を杖代わりにし、自分の足で立ち上がった。完全に治ったわけではないけれど、彼の生きようとする強い意志が、今、唯一の希望だった。
「私についてきてください。誰にも見つからない、秘密の場所があります」
私は彼の大きな手を引き、山道の奥の奥、さらに険しい獣道を進んだ。そこは昔、生前の拓也やお父さんたちと、他の大人に内緒の探検で見つけた小さな岩の洞窟だった。入り口が蔦やシダ植物で完全に覆われているため、地元の人間でもまず気づかない場所だ。
這いつくばるようにして二人で洞窟の中に滑り込むと、ひんやりとした静寂が私たちを包み込んだ。
遠くのほうで、「おい、そっちを探せ!」「敵の飛行士を見つけたら容赦するな!」という山狩りの男たちの怒号や、軍用犬の鋭い鳴き声がかすかに響いている。私たちは暗闇の中で息を殺し、その不穏な気配が遠ざかるのをじっと待った。
やがて周囲が静まり返り、遠くの足音が完全に消え去った頃、私は彼のやつれた顔を見つめた。
「ロバート、この1週間……どうして、生きていたんですか? 私、何も持ってこられなかったのに……」
私の問いに、ロバートは少しだけ困ったように、でも優しく微笑んだ。
「この洞窟のすぐ裏手に、小さな川……湧き水があるのを見つけたんだ。足を引きずりながら、毎日そこまで水を飲みに行っていた。食べ物は、ユーが最後に置いていってくれたあの笹巻きのおにぎりを、何日もかけて少しずつ、大切に食べたよ。あとは、山に生えている苦い木の身を齧ったりしてね。……ユーが怒って、もう来ないのは分かっていた。でも、私はここで死ぬわけにはいかなかったんだ。ユーにもう一度、謝らなければいけない、そう思ったから。」
ロバートは膝を抱え、暗い地面を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
洞窟の入り口からわずかに差し込む木漏れ日の光の中に、ひとつの小さな影が見えた。岩の隙間の、わずかな土から健気に茎を伸ばし、ひっそりと咲いている小さな、でも鮮やかな橙色の花。
「あ……マリーゴールド……」
「マリーゴールド……。私の国ではね、聖母マリアの黄金、と呼ばれる花だ」
ロバートがその花をじっと見つめながら、ぽつりと言った。彼の声はひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。
「陽子。1週間前は、本当にごめんなさい。ユーの優しさに甘えて、私はとても残酷なことを言った。……言い訳をさせてほしい。私は、あの言葉をユーに言うことで、自分自身を騙そうていたんだ」
「自分を、騙す……?」
「私はパイロットとして、上空からボタンを一つ押すだけで、何百もの爆弾を落とす任務を課せられていた。雲の下で何が起きているか、肉眼では見えない。でも、分かっていたんだ。自分のしたことが、多くの罪のない人々の日常を、ユーのような優しい少女の家族を、一瞬で焼き尽くしているのだと。……それに気づいてしまったら、夜、恐怖で頭がおかしくなりそうだった」
彼の大きな肩が、小さく、小刻みに震え始める。
「軍の指揮官たちは、毎日私たちにこう言い聞かせた。『これは正しい戦争だ。一刻も早く敵を叩き潰して降伏させることが、結果的に戦争を短くし、多くの命を救うことになる。だからこの爆撃は仕方のない犠牲なんだ』と。……そう思い込まなければ、私は操縦桿を握ることすらできなかった。人を殺す恐怖から逃れるために、私はその都合の良い言葉に縋りついていたんだ。早く勝たなければいけない、そうすれば私も、故郷の妹も、そして爆撃されている日本の人たちだって、この生き地獄から早く解放されるはずだと……。でも、違った。私はただの卑怯者だ。国の大義名分を盾にして、自分の手が血に染まっている現実から目を背けていただけだった」
ロバートの碧い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、地面の土に染み込んでいった。
彼が悪意で言ったのではないこと、彼もまた、戦争という巨大な怪物に心を狂わされ、傷ついていた一人の人間に過ぎないのだということが、痛いほど伝わってきた。
私の胸を満たしていたどす黒い憎しみが、彼の涙と、目の前の小さな橙色の花によって、静かに溶かされていくような気がした。
「ロバート。私はあなたを、まだ完全に許せたわけではありません。あの日失ったお父さんも、お母さんも、拓也の命も、何があっても戻らないから。あなたが私の家族を奪った国の人だという事実は、一生消えない」
私は一度言葉を区切り、マリーゴールドの前にしゃがみ込んで、その小さな花弁にそっと触れた。
「でも……。この花みたいに、どんなに苦しい場所でも、必死に生きようとしている命を、私は踏みにじりたくない。国が違っても、私たちはここでこうして、同じ人間として向き合えたから。だから、あなたをここで死なせたくないんです。生きて、生きて故郷の妹さんのところに帰ってください」
暗い洞窟の中で、私たちは初めて、国家という重い看板を捨てて、一人の人間として本当の心を分かち合うことができた。外から聞こえる夏の蝉時雨が、私を優しく包み込んでいた。
その時だ。何かの不気味な音が聞こえたのは―。
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