第8話「決断」
もう二度と、あの山には行かない。
そう心に誓ってから、丸1週間が経っていた。診療所で包帯を洗う私の手は、あの日ロバートに向けて叫んだ怒りの感触を覚えたまま、頑なに強張っていた。もう、彼のことは忘れよう。私には関係のないことだもの。そう決意した。
しかし、私の決意をあざ笑うかのように、診療所に飛び込んできた村の男たちの声が、部屋の空気を一変させた。
「先生! 大変だ、数日前この村の上空を飛んで撃墜された敵の飛行士が、どうやらこの裏山に潜んでるらしい!」
「憲兵隊がもうすぐそこまで来てる。午後から村の若い男を総動員して、山狩りを始めるそうだ」
「それはほんとかい?大変なことになったものだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がどくん、と大きく跳ね上がった。バケツの水に浸けていた手が、がたがたと震えだす。
「……山狩り、ですか」
私は極力声を平坦に保ちながら、男たちの前に出ていった。
「でも、あの山は険しいですし、数日前の雨で足場も悪くなっています。怪我をした兵隊さんがそんなところに何日も潜めるでしょうか。もうとっくに、他の街へ逃げているのでは……」
関係ないはずだった。もう忘れようと決意した。それなのに。私はあの人を守るような口をきいてしまう。
「いや、目撃情報があるんだ。東の婆さんの家の近くで、不審な物音がしたってな。陽子ちゃん、お使いの時に何か見なかったか?」
鋭い視線が私に集まる。嘘をついているのがバレたら、私は非国民として捕まるかもしれない。それでも、私は必死に平静を装って首を振った。
「いいえ。私は何も……見ていません。ただの、山の獣じゃないでしょうか」
「まあ、それならいいんだが。とにかく見つけ次第、八つ裂きにしてやるって憲兵さんも息巻いてたよ。じゃあな、先生!」
「ああ。」
男たちが嵐のように去った後、診療所は静まり返った。
見つけ次第、八つ裂き。その言葉が頭の中で何度も繰り返される。ロバートの折れた足では、逃げることなんて絶対にできない。見つかれば、彼の命はない。
(関係ない。あの人は敵だ。私たちの街を燃やした国の人だ)
(見つかって捕まるのは、因果応報じゃないか)
頭の中で、冷酷な自分がそう囁く。けれど、目を閉じれば浮かんでくるのは、私の持ってきた芋を美味しそうに食べる姿や、日本の横浜を愛していたおじいさんの思い出を語る、あの寂しげな碧い瞳だった。
「陽子ちゃん、顔色が悪いよ。少し休みなさい」
先生が心配そうに声をかけてくれたが、今の私に休んでいる暇なんてなかった。
このまま彼が殺されるのを見過ごせば、私は一生、自分を呪うことになる。
それに、あんな決裂のままで終わらせていいはずがない。私たちはまだ、お互いの本当の心を何も話し合えていないのだ。国の大義名分ではなく、一人の人間として、彼が何を思い、私が何に傷ついたのか、もう一度向き合わなければいけない。
「先生、ちょっとお腹の調子が悪いので、奥で横になります」
私は小さな嘘をつくと、診療所の勝手口から外へ飛び出した。
太陽が照りつける生ぬるい空気の中、私は遮ふり構わず裏山へと走り出した。
憲兵たちが山に入る前に、ロバートを見つけ出さなければならない。今度は医療箱ではなく、彼ともう一度言葉を交わすための、強い覚悟だけを胸に抱いて、私は一歩一歩、険しい斜面を駆け上がっていった。
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