第10話「危機」
洞窟の中に満ちていた温かい沈黙を切り裂くように、再び、不気味な遠吠えが響き渡った。
「……軍用犬の声だ」
私は震える声で喋る。ロバートがハッとして顔を上げ、碧い瞳に緊張を走らせる。
耳を澄ますと、ザッ、ザッ、と何人もの容赦のない足音が、この斜面を登ってくるのが分かった。草木を踏む無機質な足音が、さっきよりも明らかに近くなっている。
「陽子、彼らはここへ向かっている。もうすぐに見つかるに違いない、」
「大丈夫です、通り過ぎるのを待てば…この洞窟は入り口が塞がれていますから、」
「いや、犬の鼻は誤魔化せない。……陽子、ユーは今すぐここを出て、診療所へ戻るんだ。ここに残れば、ユーまで非国民として捕まってしまう」
ロバートは私を洞窟の奥へと押し込もうとした。しかし、私は彼の大きな腕を、今度は力強く掴み返した。
「嫌です! 私はあなたを置いていきません。ここで見捨てたら、何のためにここまで走ってきたのか分かりません!」
「陽子、でも――」
「静かに……! 来ます」
草木の隙間から外を覗き見ると、木々の向こうに深い緑色の軍服を着た憲兵と、銃を手にした村の男たちの姿が見え隠れしていた。犬が激しく吠え立て、まさにこの洞窟の数メートル手前で足を止めている。
「おい、この辺りが怪しいぞ」
「よし、そこの茂みを突っつけ!」
男たちの声がすぐ耳元で聞こえるようだった。心臓が激しく脈打つ。呼吸をすることさえ忘れて、隣にいるロバートの手を強く握り締めた。ロバートもまた、私の小さな手を優しく、でも力強く握り返してくれた。
ガサリ、と洞窟を覆う蔦に、誰かの手が触れた。
もう駄目かもしれない。そう思った瞬間、遠くから別の大きな声が響いた。
「おい! 東の尾根の方で人影を見たぞ! 全員そっちへ回れ!」
「なんだって!? 本当か?よし、行くぞ!」
「了解しましたー!」
緊迫していた足音が、一斉に向きを変えて遠ざかっていく。犬の鳴き声も徐々に小さくなり、やがて聞こえてくるのは、蝉時雨だけになった。
「……助かった、みたいですね」
「よかったぁ〜」
深く息を吐き出すと、ロバートもまた、安堵の混じった長い一息をついた。繋がれていた手のひらは、お互いの冷や汗ですごく濡れていた。
太陽は、いつの間にか少しずつ西へと沈み始めている。これ以上遅くなれば、診療所の先生に怪しまれてしまう。
「ロバート、山狩りの人たちはあっちへ行きましたけど、まだ油断はできません。今日はもう、ここから動かないでくださいね」
「ああ、分かっているよ。……陽子、本当にありがとう。ユーが来てくれなければ、私は今頃……」
「お礼はいいです。……まだ、完全に許したわけじゃないですから。それを忘れないでください。」
少しだけ照れくささを隠すように、そっけない口調で言った。手にはまだ握られた感触がのこっている。でも、胸の奥にあるわだかまりは、さっきよりもずっと軽くなっていた。
「また明日、お昼の休憩時間にここへ来ます。何か食べられるものを持ってきますから、待っていてください」
「ああ。気をつけて帰るんだよ、また明日ね。」
ロバートの優しい碧い瞳に見送られながら、私は洞窟の蔦の隙間から外へと這い出た。
夕方の生ぬるい風が、髪を揺らす。私は足早に山道を駆け降り、何食わぬ顔で診療所の勝手口へと戻っていった。
戦争とい怒涛の時代の中で、私とロバートの、誰にも言えない秘密の時間が、始まろうとしている。
(きっと大丈夫。戦争が、終わればみんな許してくれるだろうし。)
そんな希望を抱いて、今日も診療所の手伝いをする。
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