第25話僕の願う意味
意識の底へ、ゆっくりと沈んでいくような感覚があった。
全身の感覚が麻痺し、あれほど激しかった右足の激痛さえも、遠い世界の出来事のようにぼやけていく。
もう、十分に抗った。骨折した足で、憲兵たちの山狩りから一週間も逃げ回り、泥水をすすって生き延びたんだ。異国の冷たい土の上で孤独に死んでいくのは恐ろしかったけれど、私の肉体はとうに限界を迎えていた。
(エミリー、ごめんね……。お兄ちゃんは、ここまでだ……)
静かに死を受け入れ、冷たい暗闇に身を委ねようとした、その時だった。
「あの……大丈夫、ですか……?」
鼓膜を揺らしたのは、驚くほどに若く、そして酷く震えている少女の声だった。
幻聴だろうか。私は薄氷を踏むようにして、かろうじて残っていた意識を表面へと引き上げた。重い微かな呼吸を繰り返しながら、どうにか閉じていた睫毛を震わせ、薄く目をあける。
夕闇の迫る草むらの中に、一人の少女が立っていた。
その衣服は、まぎれもないこの国の――私たちが毎日空から爆弾を落とし、激しく憎み合っているはずの「日本人」の少女だった。
(あぁ、ついに見つかってしまった。彼女が叫んで、すぐに憲兵を呼ぶのだろう)
そう覚悟した。だが、彼女は叫び声をあげる代わりに、ガタガタと両手を震わせながら、胸に抱えていた重そうな風呂敷の包みを解き始めた。中から現れたのは、笹の葉に包まれた、真っ白で、まだ微かに温かい「おにぎり」だった。
少女は泣きそうな顔で、誰かに宛てたかも分からない謝罪を小さく呟くと、そのおにぎりを私の顔のすぐ近くにそっと置き、怯えたように山道を走り去っていった。
静まり返った山林に、私と、一つの温かいおにぎりだけが取り残される。
信じられなかった。激しい困惑が、麻痺しかけていた私の脳を強烈に叩き起こす。なぜ、敵である私を憲兵に突き出さなかった? なぜ、自分たちの国をめちゃくちゃに破壊したアメリカの兵隊に、こんなに貴重な食べ物を置いていったんだ?
喉の奥が、猛烈に鳴った。
私は泥まみれの手を震わせながら、這うようにしておにぎりに手を伸ばした。笹の葉を剥くと、立ち上る白い湯気とともに、穀物の豊かな、優しい匂いが鼻腔をくすぐる。
掴んだおにぎりを、私は夢中で口へと押し込んだ。
「う……、あ……っ」
口いっぱいに広がる米の甘みと、確かな温かさ。
一週間のあいだ、苦い木の実と泥水だけで飢えを凌いできた私の身体に、その温もりが、まるで乾いた大地に染み込む雨のようにじわりと広がっていく。
その瞬間、目から熱い涙が止めどなく溢れ出て、泥だらけの頬を濡らした。
(美味い……。温かい……っ)
おにぎりを噛み締め、 涙を流しながら、私の胸の奥で、消えかけていた熾火のような感情が猛烈な勢いで燃え上がった。
死にたくない。生きたい。
あの大空の上で、国家の大義名分や戦争の正義なんて小難しい理屈に縋りついていた自分が、どれほど愚かだったか。一人の日本の少女がくれた、この小さなおにぎり一つの温もりの前には、そんなものは何の意味も持たなかった。
私は、あの少女に救われたのだ。敵であるはずの、私を最も憎んでいるはずの、名も知らない少女の優しさに。
私は泥まみれの顔を上げ、彼女が去っていった薄暗い山道の先をじっと見つめた。
彼女がくれたこの命を、絶対に無駄にしてはいけない。何としてでも生き延びて、もう一度彼女に会うんだ。そして、このお礼を伝えるんだ。
手の中に残った笹の葉をきつく握り締めながら、私は生まれて初めて、自分の心からの本能で、「生きたい」と強く、強く願っていた。
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