第16話諦めない
「待ちなさい。……そこまでに、しておくれ」
怒号が飛び交う台所に、いつもより低く、重い声が響いた。
奥の部屋から姿を現したのは、先生だった。寝間着のままの先生は、酷く疲れ切った顔で、でも真っ直ぐに班長さんとおばさんを見つめている。
「先生! 聞いてたかい、この陽子ちゃんがね――」
「ああ、聞こえていたよ」
先生は静かに歩み寄ると、私の震える肩にそっと手を置いた。その手の温もりに、私の涙がさらに溢れ出す。嬉しいような、悲しいような…よく分からない。ただ、あの人を何としてでも守らないと。
「班長さん。陽子はまだ十六の子供だ。医療に携わる者として、目の前の怪我人を放っておけなかったのだろう。私の教育が悪かった。どうか、憲兵隊に突き出すのだけは、私が免じるから勘弁してくれないか」
「先生、気持ちは分かるが、そうはいかん!」
班長さんが激しく首を振った。
「もしあの男が憲兵に見つかってみろ。敵を匿っていた村として、先生、あんたも、村の人間全員が『売国奴』として連座させられるんだ。みんなの命がかかっているんだよ!」
「……分かっている」
先生は深く、深くため息をついた。そして、私の肩に置いていた手に、じわりと強い力がこめられる。先生の目が、悲しそうに私を見下ろした。私はやめてと必死の表情を作った。でも、それは無残に打ち壊される。
「陽子ちゃん。お前の優しい気持ちはよく分かる。……でもね、もうおやめなさい。お前がしていることは、村のみんなを、そしてお前自身を破滅させる。もう十分だ。これ以上、あの男に関わってはならない」
「先生……? でも、ロバートの足はまだ完全じゃなくて、見つかったら殺されてしまいます!」
「それが、戦争というものなんだよ、陽子ちゃん、仕方がない…、」
先生の声は、酷く冷たく、絶望的に響いた。なんで?どうして?
「もうすぐ憲兵隊が来る。お前はここに残るんだ。……いいかい、これはみんなのため、そして、何より陽子ちゃん、お前自身のためなんだよ」
「そうだとも! あんたがこれ以上泥を被ることはないんだ、これはあんたのためを思って言ってるんだよ!」
おばさんもここぞとばかりに捲し立てる。
『あなたのため』
大人たちが異口同音に口にするその言葉が、まるで重い鎖のように、私の身体をその場に縛り付けようとする。私のために、敵兵を見殺しにしろと言う。私のために、大切な家族を亡くしたあの日と同じように、また命が消えていくのを黙って見ていろと言う。
(……そんなの、絶対に嫌だ!)
ここで大人の言う通りに頷いたら、私は一生、自分の手を汚れたものとして呪い続けることになる。ロバートが言った『未来への光』を、自分の手で消すことなんて、絶対にできない。
「ごめんなさい……!」
私は叫ぶと同時に、先生の手を激しく振り払い、勝手口の戸を力任せに開け放った。
「陽子ちゃん!」「待ちない、陽子!」
背後から響く大人たちの制止の声を完全に無視して、私は夏の眩しい日差しの中へと飛び出した。
心臓が破裂しそうなほど激しく波打つ。喉の奥が、焼けるように熱い。それでも私は、一歩も、一瞬も止まらなかった。目から落ちてくる水滴がとまらない。
すぐに憲兵たちがこの山に押し寄せてくる。猶予はもう、数分もない。
私は遮ふり構わず草木をかき分け、険しい夏の山道を、ただロバートの元へとがむしゃらに駆け上がっていった。
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