chapter③ 6話
リモン、ヴィンセント、イザベルの三人で再び二階へと上がる。まるで凱旋でもしているような気持ちになるが、生憎ここは権威ある大病院などではなく、酷く所帯じみたフラットだ。その上相手は悪魔という病巣。改めて、何とも異質な状況だ。
リモンが扉の取っ手に手を掛ける。イザベルはそれを、厳しい顔つきで見つめている。彼はそれを横目に、無言で扉を開けた。
さあ、いよいよ「手術」が始まる――。
一瞬、息が止まったのかと錯覚した。
扉を開けた先には、エレナが立っていた。
イザベルが声にならない悲鳴を上げる。
先頭に立っていたリモンはエレナを蹴り飛ばし、襟元を掴んで身体ごと引きずる。その一連の動作には迷いがなく、エレナは再びベッドへ押し戻された。彼女はどこにそんな力があったというのか、激しく抵抗している。
「ヴィンセント、その女ふん縛れ」
「!わかった!」
状況が状況なので自然と身体が動いてしまったが、何故悪魔に指図されているのだろう。
しかし、肝心の処置は彼が行うのだ。ヴィンセントは言われた通りに、エレナの手足にロープを巻き付けた。
「流石だな。手際が良い」
彼も人を素直に褒められるのかと一瞬感心したが、人を縛る才能を褒められても嬉しくない。あと、恐らく多少の嫌味が入っている。
「胎にいるヤツが無理矢理母体を動かしたな。雑魚の癖に無駄な足搔きしやがる」
リモンはエレナの上に跨るようにして、ベッド上に立っている。外敵を通すまいと城門に立ちふさがる衛兵のようだ。
「お前は外にいろ。誰も入れるな」
こんな場面に立ち入ろうとする者は誰もいないと思うのだが、その突っ込みは今は抑えて指示に従う。
二人に背を向けて廊下へと駆ける。背後でベッドが軋む音と、刃物が擦れる音が聞こえた。
「今回は特殊ケースだからな。手っ取り早い方法でやる。多少手荒だが、楽にさせてやるんだ。我慢しろよ」
扉を閉める瞬間、白い死神は手術台の上で不敵に笑い、いよいよその鎌を振るった。
◇
命を削る音がする。
身体が切り刻まれているにもかかわらず、身の竦むような断末魔は聞こえない。
皮膚を切り裂き、血が噴き出す音だけが、この狭い部屋に響いていた。
ベッドから窓、床に至るまでが鮮血に染まる。
昔、エレナと一緒に見たホラー映画を思い出した。何てことない、ありふれたB級モノだ。若者が怪しい場所に足を踏み入れ、そこを縄張りとする殺人鬼に次々と殺され、大量に血が流れる、そんな映画。
そんな平凡な内容でも、耳をつんざくような悲鳴や凄惨なシーンには、思わず恐怖してしまう。劇中で溢れ出す血に慄いていると、エレナがこんなことを教えてくれた。
「こういう映画で使う血糊ってね、コーンシロップで出来てるんだって。映画の中じゃ、鉄臭いだけの血が甘いなんて、面白いよね」
やがて裂いた胎から、小さな胎児が顔を出した。
剝き出しの内臓はどれもこれもが赤黒く、胎児も血に塗れてしまって、他の肉塊と区別がつかない。
「なに、これ」
返答はない。分かり切った答えしかないのだから、当然だ。ここには、現実という真実しか存在しない。例え、どんなに非現実な出来事であっても。
胎から肉の塊が引きずり出される。
妊娠・出産は生命の神秘だと言われている。
だが、目の前のこれはどうだ。
怪物の腹から産まれ落ちた、異形の化け物にしか見えない。神秘的な要素など、どこにもない。
泣きそうだった。
こんなもののために、彼女が命を落とさなければならなかっただなんて。
目の前が真っ暗になりそうだった。
それでも彼女から目を離さない。彼との約束ではあるが、何より自分自身が、目を逸らすことを許せなかった。
最早面影など欠片も残っていない、彼女の顔を見つめる。
――どうしてこんなことになっちゃったのかな。
――私がちゃんとしていれば、こんなことにはならなかったのかな。
――最後に、あなたの願いだけは、叶えてあげたかった。
やがて光を失った虚ろな瞳が、ぐるんと上を向いて真っ白になる。
そうしてやっと、彼女は死ねたのだと確信した。
不思議と悲しみは湧いてこなかった。
全身を白から赤へと染められた死神が、ひたひたとこちらへ向かってくる。それは「次はお前だ」と言わんばかりの気迫で見下ろし、「どうだった?」と聞いてきた。
まるで、映画の感想でも尋ねるような口調。
それに対して、感動して放心する観客のように、涙を流しながら答える。
「私、ちゃんと最後まで見てたよ」
「そうか。ならいい」
◇
一時間程経って、がちゃりと扉を開ける音が聞こえた。
振り返って、ヴィンセントは思わず騒然とする。
全てを終えたリモンは、まるで頭の上からペンキをかけられたようになっていた。
まずは労いの言葉を掛けるべきなのだろうが、口周りの血を舌で舐めとる彼を見て、ほとんど無意識に、
「うわあ……」
感心と狼狽が入り混じった声が漏れた。
「お前、それが仕事を終えた医者に対する態度か?」
◇
あの後ヴィンセントに、「その恰好のまま帰れるわけないでしょ?」と詰められ、着ていた衣類を洗濯する羽目になった。仮の衣服を探すのも面倒だったので、今は適当にシーツを被っている。
彼は洗濯場で待機しているらしい。恐らく「手術」の様子を聞かされたくないのだろう。思いの外小心なのか賢明なのか、よく分からない男だ。イルマは一体、あの男のどこを気に入ったというのか、てんで理解出来ない。
「ねえ」
頭上から声が掛かる。見上げると、イザベルが立っていた。彼女の身体には飛び散った血液が、まだ僅かに残っている。
「隣いい?」
無言を肯定と受け取ったのか、彼女はリモンの隣にぺたん、と腰を下ろした。
「私ね、今までずっとエレナのために、一生懸命お医者さん探したんだよ」
聞いてもいないのに、勝手に話を始める。自分の反応は期待しておらず、ただ聞いて欲しいだけなのだろう。邪見にするのも面倒だと、今は好きにさせることにした。
「今までのお医者さんは、エレナを見て怖がって逃げ出すか、法外な値段を吹っかけてくるような人ばっかりだった。だから……ありがとね」
「……独り言は終わりか?」
「え~?」
照れたように笑う彼女に、リモンは冷めた表情で返す。そして血色のない唇を開き、
「お前、何か隠してるだろ」
まるでその一言がスイッチだったかのように、場がしんと静まり返る。
イザベルは俯いていて、表情を読み取ることができない。彼女は顔をゆっくりと上げたかと思うと、にやついた笑みを浮かべ、
「ねえねえ、最後に一つ、お願いしてもいい?」
彼にそっと、耳打ちした。
「はあ?ふざけるな。俺は――」
――エレナ、一度だけだけど、喋ったの。
――何て言ったと思う?
――お腹の赤ちゃんも、ここにいる連中も、全員殺してって。
――ねえ。
――あいつらも殺してよ。
「馬鹿か?んなことするわけねえだろ。俺の役目はもう終わったんだ」
「あはっ、本気でそんなことお願いするわけないじゃん。あなたって、意外と真面目な人だよね」
一体何が面白いのか、彼女は出会った時と同じように、ケタケタと無邪気に笑っていた。
「そうだ。お礼に、一回サービスしてあげよっか?」
「いらん、菌が移る」
「あんなに血浴びといて……?」
「見えない細菌より血液の方がマシだろ」
「基準がわからない……」
提案を無下に断られ、イザベルは呆れたように肩をすくめた。
「わかったわかった。後で頼まれてもしてあげないからね~」
イザベルは揶揄うようにそう言うと、リモンに背を向けて立ち去る。
去り際に彼女は顔に付着した血液を手で拭い、それをぺろりと舐めとって、
「甘くない」
と、短く呟いた。




