chapter③ 5話
一度リモンと話し合うため、店を離れて表通りへと出る。二人で川沿いに設置された柵にもたれかかり、お互い沈黙したまま時間だけが過ぎていた。
ふと、一組の親子が目に留まった。母親が、産まれたばかりの赤ん坊を抱えている。母親の表情は、とても幸福に満ちていた。
エレナも悪魔さえ介入しなければ、ああいった未来を手に入れていたかもしれない――
「お前、これで人が死ぬと思うか?」
彼は道端に落ちていたプラスチックの棒きれを拾って、そんなことを聞いてきた。
「いや、思わないけど……」
「死ぬだろ」
冷ややかな視線が、ヴィンセントを射抜く。
「どんな生き物も急所を狙えば死ぬ。鉛筆でもフォークでも、身近にあるものだって人を殺せる凶器になり得る。それに人間なんざ、いつ死んでもおかしくない脆い生命だろ。車に轢かれたり、病気になったり、ふとしたきっかけであっさり死ぬ」
「……君は、何が言いたいわけ?」
「この世界に、死はそこら中に転がってるってことだ」
……趣旨が掴めない。彼は何故、そんな話を始めたのだろう。
「生きているものが死ぬのは、当たり前のことだよ。君にはわからないだろうけど」
彼は死が溢れていると言うが、常日頃から死の危険に怯えて暮らす人間などそういない。「今生きている」ことと、「いずれ死ぬ」ことは当たり前だからだ。
けれどどうしたって、人は死という終わりを恐れる。何よりヴィンセント自身が、それをよく理解している。
あの夜の出来事は、ほとんど災害だった。何かがあの男の癇に障った可能性はあるが、そんなことは最早知る由もないし、知りたくもない。
自分は人生哲学など大した思想は持っていないが、ただ一つ言えるのは――
死とは、恐ろしいほどに平等だということだ。
「俺は生き物が死ぬ瞬間が好きだ。悪魔には死が無い。俺に死は無い。だから、『死』というものに執着している」
リモンは靴先で、通りかかった不運な蟻を踏み潰す。蟻は脚を痙攣させた後、数秒と経たず息絶えた。
「馬鹿な勘違いすんじゃねえぞ。俺は殺しに快感を覚える異常者じゃない。生物が長く短い生を終えるその瞬間を、俺は最も尊いと思っている。だから俺は医学を知った。学んだ。『生死の仕組み』を知って、『正しい死』を与えてやるために」
彼は演説のように語るが、その表情は相変わらずの不機嫌顔だった。
医学の道を志す理由は、人によって様々だ。人の役に立つ仕事をしたいから、誰かを助けたいから、治療法を研究したいから、親が医者だから……これらが主な動機だろう。それなら理解できる。
彼は「死」が見たいのだという。生きている生命であれば誰もが恐怖する死を。
けれど安易な死は認めない。その人間に相応しい生き様を見届け、その死を看取る。それが、彼の行動原理。
彼は、生と死を支配したいのだ。悪魔の身でありながら。
いや、悪魔であるからこそ、だろう。
人間が柵越しの動物を眺めると同じように、彼もまた、人間を娯楽として鑑賞している。
やはり、悪魔と人間では、常識も倫理感も価値観も、全てが異なる。
しかし彼は悪魔というよりも――医者の姿をした死神だ。
「……君のことは大体分かったよ」
「そうか。ならいい」
リモンはふん、と得意げに鼻を鳴らし、持っていた棒きれを川へ放り投げる。これでまた、テムズ川にごみが増えた。
「それで、結局どうするの?」
「簡単だ。中の胎児を摘出すればいい」
彼はあっさりと宣言しているが、通常手術なんて大掛かりな作業には、相応の準備が必要になる筈だ。
「君がやる気になってくれたのはいいけど、道具なんか持ってるの?」
「当たり前だ。俺は医者だぞ。常に最低限の医療器具は持ち歩いてる」
「医者だからって、いつも持ち歩いてるわけじゃないと思うけど……」
ヴィンセントは半ば呆れ気味に肩を落とす。けれど今は、そんな彼の無軌道ぶりが少し頼もしく思えた。
遠くから声が聞こえる。見ると兄弟らしき二人の子供が、無邪気に駆け回っていた。
その平穏な光景に反して、身をじりじりと焦がすような苦しみが湧きだす。ヴィンセントはその苦しみを吐き出すように、彼に問う。
「……その子供から、悪魔だけを引き剝がすことはできないのか?」
「無理だ。もう魂が定着し過ぎてる。胎児だから憑依も容易だったろうしな。あれは最早、悪魔そのものになってるぞ」
それこそ医者が淡々と病状を告げるような口ぶりで、リモンはそう答えた。
ヴィンセントとて、答えなど分かりきっていた。それでも彼に確認せずにいられなかったのは、自分自身に現実を受け入れさせるためだった。
「……わかった」
「こんなもんはとっとと終わらせる。戻るぞ」
店へ戻ると、イザベルが扉の前に座り込んでいた。飼い主の帰りを待ち続ける忠犬のように、二人を待っていたらしい。
「お話、終わった?」
「ああ、これから始める」
イザベルはその宣告を聞いて、両の拳を握りしめた。
「その前にイザベル、君に伝えておきたいことがあるんだ」
「?なあに?」
イザベルはこてん、と首を傾げる。
「彼女の遺体だけど……これからすることを考えたら、教会には中々受け入れて貰えないと思う」
「……そう」
彼女の声は、暗く沈んでいた。
「だから、身元や経歴は絶対に隠した方がいい。『身寄りのない女性』とでも言ってね。小さな教会であれば、それでちゃんと埋葬してもらえる筈だ」
「……ありがとう。人が亡くなったとき、具体的にどうすればいいのか知らなかったから。大事なことなのにね」
イザベルが哀し気げに微笑む。余計なお世話でなくて良かったと、ヴィンセントは胸をなで下ろした。
他の女性たちは部外者の目に触れることを嫌がるだろうが、遺体を秘密裏に処理することなど不可能に近い。何よりエレナ本人やイザベルの気持ちを考えれば、せめて最低限の弔いくらいはしてあげるべきだ。
「おい」
待たされたことが不服だったのか、リモンが不機嫌そうにイザベルへ呼びかける。
「何か縛るものはあるか?」
「どこかにあると思うけど……何に使うの?」
「いいから持ってこい。念の為の道具だ」
言われてイザベルは奥へと引っ込んでいく。暫くすると、二本の細いロープを持ってきた。年季が入っているのか単純に安物なのか、強度は今一つといった風だった。
リモンは彼女からロープを受け取ると、「持ってろ」と言ってそれをヴィンセントに投げ渡した。
「よし、部屋に戻るぞ」
リモンの合図で、二階へ続く階段へと向かう。
事が始まる気配を察したのか、背後から黒髪の女性がこちらへ近づき、「ちょっと待って」と声を掛け、リモンへ尋ねる。
「……一応聞くけど、何する気?」
「胎児の摘出だ」
「摘出って……そんなことを、ここでやるつもり?」
「あ?ここ以外にどこがある?あいつを外に出していいのか?」
彼女は口ごもったが、反論する気力もないのか大人しく引き下がった。リモンはその様子を見て、眉間の皺を更に深く寄せた。
「引きずり出したガキをどうするのかは聞かねえのか?」
「……悪魔なんでしょ?そんなのもうどうしようもないし、知ったこっちゃないわよ。さっさとあの女を何とかしてくれればいいわ」
彼女は顔を背け、吐き捨てるように言った。
感情を表に出すまいと努めていたヴィンセントも、それを聞いてリモンと同じ表情を浮かべる。
気掛かりなのはイザベルだ。深く傷ついていないだろうか。
横目でちらりと彼女の様子を伺う。
隣に立つイザベルは、張り付いた仮面のように無表情で佇んでいた。




