chapter③ 4話
一瞬で空気が張り詰める。秒針の音さえ聞こえるほど、この場は不穏な静寂に包まれていた。
「悪魔の子ども」――ヴィンセントはその言葉を聞いた瞬間、胸の内に黒い靄が広がった。だが……。
「……お前ら、馬鹿正直に信じたのか、そんな話」
リモンが静寂を打ち破るように一蹴する。
「……まさか、信じるわけないでしょ。それ聞いた瞬間に追い出してやったわ」
黒髪の女性は気丈に振る舞っているが、どこか不安そうに腕をさすっている。
「一応言っておくが、悪魔に生殖能力はないぞ。……お前、そのことについては知ってるか?」
ヴィンセントは女性たちには聞こえないよう、小声で彼の質問に答える。
「記録でしか知らないけど……昔教会が、悪魔の『身体』を解体して調べたことがある」
「へえ、それで?」
リモンは嫌な顔ひとつせず、むしろ興味深そうに話の続きを促した。
「その結果分かったことは……悪魔は、身体の構造自体はそっくりそのまま模倣できる。ただ生殖器はあるけど、生殖機能は存在しない……って」
「……つまり、『悪魔の子ども』なんざ存在するわけがないっつー話だ」
ヴィンセントも彼と同様の意見だった。そも悪魔とは概念の集合体のような存在であり、種を継続させて繁栄する生命ではないのだ。
しかし一信徒や彼女たちのような一般人は、そこまでの知識を持ち得ない。思い込みや疑心暗鬼に陥るのも、無理はないだろう。
「……?何の話してるの?」
イザベルが二人の会話を聞きつけ、間に入ろうとする。ヴィンセントはリモンをちらりと見ながら話を逸らした。
「取り敢えず、様子だけでも見させてほしい。話を聞いただけじゃあ、彼だって何もできないだろうし」
「そうだな。実際に見なきゃ何も分からん。そいつがいる場所へ案内しろ。話はそれからだ、喋る海綿体ども」
案内しろと言いつつ、何故かリモンは先陣を切って進んでいく。女性たちは「勝手に歩き回るな人格破綻者!」と叫びながら、彼の背中を追いかけていった。
「こっち。上の階よ」
案内されるまま二階へ上がると、薄暗く細長い廊下へと出る。一階と同じく通常のフラットと変わりはないが、この部屋は単なる住居用ではなく、「接待」の場として利用されているのだろう。
廊下を突き当りまで進み、一番奥の部屋の前でぴたりと止まる。
「この部屋にいるわ。いい?もう一度言うけど、このことは誰にも……」
彼女が言い終えぬうちに、リモンは一切の躊躇なく、扉を勢いよく開けた。
「ちょっと、あんまり大きな音立てないでよ!」
ヴィンセントがリモンの代わりに「ごめん」と謝罪し、共に部屋の中へ足を踏み入れる。
――途端に、身体中の神経がひりつく。
ヴィンセントはこの部屋の異様な空気を、全身で感じ取っていた。リモンはというと、彼は眉一つ動かさず、部屋の一点を見つめている。
彼の視線の先……部屋の奥、左隅のベッドの上に、何かが横たわっているのが見えた。
二人はベッドへゆっくりと近づく。女性たちは部屋の入口付近で、その様子を固唾をのんで見守っていた。
やがて、彼女の姿がはっきりと見えてくる。
それは、殆ど青白い死体だった。
口から僅かに漏れる呻き声と上下する胸が、辛うじて彼女を生者たらしめていた。
顔も手足もミイラのようにやせ細っているというのに、腹だけが破裂寸前の風船のように膨れ上がっている。妊娠していた、というのは事実のようだが、亡者のような彼女の姿は、あまりに異様だ。逃げ出した医者がいたというのも納得だった。同時に、女性たちのどこか怯えた様子も。
「……どう?」
イザベルが、恐る恐るリモンへ尋ねる。リモンはゆっくりと口を開き、それに答えた。
「こいつ、悪魔に憑かれてるぞ。正確には中の胎児がな」
「え……」
「……はあ?」
女性たちの目つきが、詐欺師を見るものへと変わる。彼女たちからすれば、「悪魔の子ども」と同様に荒唐無稽な話だろう。
「母体の女は悪魔に精力を吸い取られてこのザマだ。胎にいる悪魔を取り除いたところで、こいつ自身はもうどうにもならん」
彼は残酷な真実を、はっきりと告げた。
確かに母体がこのように瘦せ細っていては、中の胎児は到底生きられないだろう。
――普通であれば。
胎児は母体からへその緒と胎盤を経由して、「必要な分だけ」栄養をもらう。一方でこの悪魔が取り憑いた胎児は、母体から強制的に栄養……というよりも、生命力を奪い取っている。本来胎児を育てる場所である子宮など、力を蓄えるにはうってつけだ。まるで図鑑に載っていた寄生植物のようだと、ヴィンセントは身震いした。
「さ、さっきから何言ってるのか全然わかんない。適当なこと言わないで」
茶髪の女性が反論するも、その声は僅かに震えている。
彼女たちが信じられないのも無理はない。
人々にとって、悪魔とは空想上の存在。彼が語る真実など、胡散臭い宗教団体の勧誘と同列でしかない。
「お前らみたいな人間は医者に縋る癖に、事実を言っただけで一転して医者を責める。そもそも、こんな事態になったのは誰のせいだ?」
リモンが捲し立てると、彼女たちは揃って口を閉ざしてしまった。彼は追い打ちをかけるように、尚も責め立てる。
「巻き込まれた被害者みたいなツラすんな。様子がおかしくなった時点で外の人間に頼っときゃ良かったんだ。いい年して叱れるのが怖いガキかよ」
リモンが言っていたように、本来売春宿の経営は違法だ。そこで働く女性が孕んだことが明るみになれば、間違いなく大事になる。
故に、原因不明で幽鬼のような姿になっていく彼女に手をこまねいていたのだろう。或いは単に、面倒ごとに首を突っ込みたくなかったのか……。
人は誰しも、面倒な物事や辛い現実から逃避しようとする。自分だって、そういう時はある。
けれど人命に関わることは別だ。それだけは、目を背けてはならない。身近な人間であれば猶更、責任を持たなければいけない。
しかし、彼女たちはそうしなかった。
やるせないが――これはただ、それだけの話だ。
「お前ら、こいつにとっとと死んでほしいんだろ?なら安心しろ。どうせこいつはほっときゃこのまま死ぬ。じゃあな」
洗いざらい文句を吐き出して満足したのか、リモンは女性たちを押し退けて出ていった。ヴィンセントは慌てて彼を追い掛ける。
「君、ほんとにこのまま帰るつもり?」
「そうだ。そもそもこっちは勝手に巻き込まれたんだしな」
「それはそうだけど……悪魔を放っておくのは、イルマも良しとしないんじゃないか?それに僕がこのことを知ってしまった以上、この後は教会が動くことになる」
教会への報告は祓魔師団の調査によるものだけでなく、粛清教会の隊員によっても認められている。それによって最終的な判断を下すのは「上」だが、この件を知れば十中八九対処を命じられるだろう。
「教会相手だと、あいつらはむしろ隠そうとするぞ。何せ連中が殺したようなもんだからな」
「……」
心苦しいが、彼の指摘は的確だ。
自分は今、見えない壁にぶつかっている。
こんな時、父であればどうするのだろう――
「待って!」
切羽詰まった声に振り向くと、いつの間にかイザベルが追いついていた。
「あの人は……エレナは本当に、助からないの?」
「……イザベルだっけ?君はどうしてそこまで……」
「……友達を助けるのに、理由が要る?」
彼女は強い眼差しで、そう答えた。
「助ける?さっきも言ったろ。あいつはもう手遅れだ」
「……それでもいい。もう、解放してあげたいの」
イザベルは他の女性たちとは違い、ただの傍観者ではない。恐らくあの女性……エレナのために何をしてあげられるかを、一生懸命考えていた。
ただそれが、どうしようもなく空回りしていただけ。
そんな彼女を尚も突き動かしているのは、ひたすらな後悔の念だ。故に彼女は、目の前の悪魔に縋った。皮肉にも、悪魔によって死へと追い詰められた友人を救うために。
「……俺だって、無条件に人間が嫌いなんじゃない。不治の病に侵されようと最期の日まで生きることを諦めない……そういう生き汚い人間は大好きだ。『死』がより鮮明になるからな」
ヴィンセントとイザベルは、揃って呆気に取られていた。饒舌に語る彼が、心なしか楽しそうだったからだ。
「あいつがまだ意識を保っているのは奇跡だ。つまりあいつは、生きることを諦めなかった」
「つ、つまり……?」
「お望み通り、助けてやる。お前は連中の中では、まだまともなようだしな」
「あ、ありがとう……」
「ただ一つ、お前にやって貰うべきことがある」
ヴィンセントの身体に緊張が走る。リモンは彼女に、一体何を要求するというのか――
「お前は、あいつが最後の最後までちゃんと生きていたことを、目ン玉と脳味噌に刻め。最後にお前が出来るのは、それだけだ」




