chapter② 8話
ジュリエッタはあれから学校を出て、とぼとぼと家路についていた。
思考や感情が、頭の中でメリーゴーランドのように回っている。いや、そんなメルヘンチックなものではない。これはもっと哀しくて、辛いものだ。
学校から自宅までそう距離は離れていない。気が付けば、家の前まで到着していた。
家の中へ入る。それだけのことで、途方もなく緊張する。自分の家だというのに、可笑しな話だ。
俯いていると、独りでに扉が開いた。
「お兄ちゃん……」
昨日置いて行ってしまった、兄の姿。自ら突き放してしまった兄。
――頼るべきだった、世界でたった一人の兄。
「ごめんな、ジュリエッタ」
兄は自らの罪を悔いるかのように、悲痛な面持ちで切り出す。
「俺はお前を理解しようともせず、お前だけを悪者みたいにして……」
「ううん、もういいの」
ジュリエッタが宥める。
むしろ謝らなければならないのは、自分の方なのだから。
「お兄ちゃん、私の方こそごめんなさい。私、お兄ちゃんだけじゃなくて、いろんな人を心配させたよね」
ずっと言えなかった、それでいて、ずっと言いたかった言葉。
それを漸く吐き出すと、心が軽くなるのを感じた。
◇
家の前に、ジュリエッタがいるような気がした。
血の繋がった兄妹故の勘、だろうか。玄関のドアを開けると、そこには本当にジュリエッタが立っていた。
そして真正面から向き合い、己の非を認め、赦し合った。
自分たち兄妹は、家族は救われたのだと、そう思えた。
妹の表情が段々と、憑き物が落ちたような、どこか吹っ切れたようなものへと変わっていく。
「……私、良い子になれるかな」
「お前は十分良い子だよ。素直に謝れるからな」
「お父さんとお母さんが教えてくれたもん」
「……ああ、そういえばあったな、そんなの」
幼い頃に決めた家での決まり事など、自分はすっかり忘れてしまっていた。成長するにつれ無意味になると、そんな風に思っていたからだ。
しかし妹の方はしっかりと覚えていたらしい。やはり、根は素直で良い子なのだ。そういった点は、今後彼女から学ぶ必要があるだろう。
「お兄ちゃん、私ね。お兄ちゃんのこと大好きだよ。勿論、お父さんとお母さんも大好き。お兄ちゃんは?」
妹の真っ直ぐなその言葉に、アンドレイの胸が暖かくなる。
答えなんて、決まりきっている。自分も彼女に、同じ暖かさを与える。
「お前は俺の、大切な妹だよ」
ジュリエッタが笑う。
長い間見なくなっていた、彼女の心からの笑顔だった。
「そうだ。言い忘れてたな」
アンドレイは身を屈め、ジュリエッタの目を真っ直ぐ見据える。
「おかえり、ジュリエッタ」
「ただいま、お兄ちゃん」
◇
二人で悪魔を「回収」したのを確認すると、速やかにあの場を退散した。
道すがら、ヴィンセントは銃弾に貫かれ無残な姿となった人形を見やる。
この人形は押収品として教会へ持ち帰る必要がある。一度悪魔が取り憑いた代物だ。聖職者たちによって、丁重に処理されることだろう。
ヴィンセントには帰還した後もやるべきことがある。本件の報告書提出だ。
幸いなことに、今回は何事も問題なく終わった。
最後に想定外の出来事は起きたが、イルマの機転で収まった。ジュリエッタの説得も、彼女に一任してしまった。あの状況では仕方のない部分もあるが、教会への報告では、自分が全て行ったことにしなくてはならない。
「君のこと、どうやって誤魔化そうかな……」
冗談めかして話し掛ける。
そこでふと、違和感に気が付いた。
「……イルマ?」
周囲を見渡すも、共にいた彼女の姿がどこにも見当たらない。
猫のように掴みどころのない彼女のことだ。何も告げずに、ふらりと帰っただけかもしれない。
――しかし、妙に心が落ち着かない。
頭で考えるよりも先に、両足が駅へと駆け出していた。
倉庫街を駆け抜け、暗い森を潜り、あの植物園へ辿り着く。
空は日が沈み始めており、鮮やかな橙の夕焼けが園内を照らしていた。
イルマは植物園を「私の庭」と言っていた。ならば必ず、館はこの近くに存在する筈だ。そしてそれは恐らく目につき易い園内ではなく、周囲の森に紛れていると思われる。
暫く探索していると、温室の背後に木々で隠された細い通路があることに気が付いた。それらを搔き分け奥へと進んでみると、不自然に空いた更地が広がっていた。
突如、目の前が霧に覆われたような心地になる。軽い眩暈のような現象に、思わず目を細める。
数分した後に、ぼやけた視界が明ける。
すると眼前に、蔦と苔に覆われた、煉瓦造りの古びた洋館が姿を現した。
存外早く発見出来たことに拍子抜けする。――やはりこの体質が、そうさせるのだろうか。
如何にも魔女の住処といった風貌の館は、植物園と反して朽ちてはいないようだ。上質な木材でできているであろう玄関扉は傷ひとつ無く、真鍮製の取っ手とドアノッカーはその輝きを失っていない。
ヴィンセントは恐る恐る、その扉を押し開ける。
「開いた……」
扉なのだから当たり前なのだが、自然とそんな反応が漏れ出てしまった。
「お邪魔しまーす……」
黙って入るのも気が引けたため、声を掛けて中に入る。
入った直後、中心から左右に伸びる二又階段の踊り場に嵌め込まれた、大きなステンドグラスが目に留まった。そのステンドグラス越しに見えるのは中庭だろうか。外の植物園とは対照的に、豊かな緑が広がっているのが見えた。
「あら、どうされました?」
声のする方へ向くと、バールベリトが二階からこちらを見下ろしていた。物音を聞いて駆け付けたのだろう。
「イルマが急にいなくなったから、来てみたんだけど……もう帰ってきてる、よね?」
ヴィンセントの問いかけにバールベリトは目を丸くして、
「……イルマ様から、お聞きになられていないのですか?」
と、不思議そうに聞き返した。
ヴィンセントは階段を昇り、彼女の元へ駆け寄る。
「……詳しく話を聞かせてほしい」
バールベリトは目を伏せ逡巡した後、静かに語り始めた。
「イルマ様は本来、この館の外では生きられないのです」
「……どういう意味?」
「言葉通りですよ。この館は言わば生命維持装置で、イルマ様はそれに繋がれた囚人とも言えます。『外』にいる彼女は、魔術で編み出した分身体のようなものです。ですがそれも魔素が尽きてしまうと、存在の維持が出来なくなってしまうのです」
バールベリトはまるで業務連絡といった風に、淡々と告げる。
「……」
昨日の会話で聞いた、「あの館の外では、存在しない『幽霊』のようなもの」というイルマの言葉の意味を、たった今理解した。
ただ彼女の発言には一つ、腑に落ちない点があった。
イルマは何故、そんな大事なことを伝えなかったのだろう。教会側の人間に、自らの弱みを明かしたくなかったのだろうか。
「もしかすると、貴方に無用な心配をされたくなかったのかもしれませんね。あの方は、そういう所がありますから」
バールベリトが苦笑する。
ヴィンセントは言葉に詰まった。
事実それを聞かされていたら、彼女に負担をかけさせまいと気をまわしていたことは、想像に難くなかった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
ここまでやって来てどうしようかと考えあぐねていると、バールベリトから提案を持ち掛けられた。
「イルマ様は現在お部屋でお休みになられています。……ご様子を見に行かれますか?」
「……うん」
少女の自室へ入るのは躊躇らわれたが、今更引き返すのも悪いような気がした。
「でしたら、こちらへ」
バールベリトに連れられ、館を西側へと進む。廊下突き当りの前で止まると、彼女は手の甲で扉をノックした。
「失礼致します」
中にいる人物からの返事はない。バールベリトは構わず中へと入る。
内装は先日自分が寝かせられていた客室と殆ど変わりはない。
異なる点は、部屋の中央に豪奢な天蓋付きのベッドが存在することだ。
そしてそこには、一人の少女が横たわっている。
あの特徴的な瞳は瞼が閉じているために見ることは出来ないが、間違いなくイルマだ。
彼女の唇からは、僅かな吐息のみが漏れている。
静かに眠る彼女はまるで御伽話の眠り姫のようで、このまま目を覚まさないのではないかとさえ錯覚してしまう。
「……彼女はいつ目を覚ますんだ?」
「イルマ様の顔色を見るに、そこまでの疲労は伺えませんでした。ですので、明日以降には回復されるかと」
それを聞いて、ヴィンセントは安堵の溜息を漏らした。
「イルマ様の容態は確認いただけましたし……もうお帰りになられますか?」
「いや……もう少しここにいるよ」
「そうですか。でしたら、後はごゆっくりどうぞ」
そう言ってバールベリトは退室した。
ヴィンセントはベッドの傍らにある、木製の椅子に腰掛ける。
存在を確かめるように、そっと彼女の手に触れる。手袋越しに感じる、微かな体温。目の前の彼女は、間違いなく生きている人間だ。
「この館は生命維持装置のようなもの」――つまりこの場所が無くなってしまえば、イルマは生存出来ない。
彼女は何故、これほど歪な生存を強いられているのか。それはきっと、余人がおいそれと踏み込んではいけない過去なのだろう。
それでも自分は、彼女について知らなければならない。この身体でありながら、悪魔狩りを「思い付きの暇つぶし」でしかないと言っていた、彼女の真意についても。
そうしなければ、いつか自分は粛清教会としての分を越え、取り返しのつかない過ちを犯すかもしれない。
そうなれば、父はきっと――。
ヴィンセントは触れていた手を静かに引き、逃げ場のない感情を圧し殺すように、膝の上で両の拳を固く握り締めた。




