chapter② 5話
店を去った後、ヴィンセントは自宅であるアパートに帰宅するため、教会地区の住宅街へと向かっていた。
教会へと続く道を真っ直ぐ進み、途中の狭い路地へ入る。よく通る近道だ。
路地を抜けた先に、白とも灰ともつかない、うすぼんやりした印象の建物が姿を現した。他所の住人からすれば、一見幽霊屋敷のようにも見えるだろう。当然幽霊など一度も出たことはないので、ただそう見えるだけだ。
共同玄関を開けて中に入る。外からの印象に比べて、中は小綺麗で清掃が行き届いている。ここが家賃に比べて居心地が良いのは、偏に管理人のお陰だろう。有り難いことだ。
……不思議なことに、ヴィンセントはその姿を一度も見かけたことはないのだが。
ロンドンの家賃は高い。中心部に近づくほど価格は上がる。故にロンドンでは、一つの部屋を複数人で共有していることが殆どだ。ヴィンセントも例に漏れず、同僚二名と寝食を共にしている。
階段を昇り部屋の前に辿り着く。
――一瞬また、あの奇妙な気配がした。
「……?」
咄嗟に廊下を振り向く。
誰もいない。
住人らしき人影も、何も無い。
……このフラットは部屋にいる時はともかく、共用部では時折何かに見られているような心地がするのだ。
まさか本当に幽霊が出る……なんてこともない。住み始めてから数年経つが、昔ここで人が亡くなったとか、そんな話も聞いたことがない。
そもそも父が持ってきた物件だ。きな臭い噂の一つでもあれば、そんなものをあてがうとは思えない。
……気にしていても仕方がない。それよりも今は、早く自室に戻ってゆっくりしたかった。
「ただいまー……」
「お、帰ってきた」
ドアを開けて中へ入ると、一人の男が出迎えた。
くせ毛のプラチナブロンドに、黒の色付き眼鏡をかけた小柄な青年、ルーファスだ。小柄といえば、|Purgatoriumの店主も彼と同じくらいの背丈だったように思う。
「ごめん。遅くなった」
何でもないように振る舞う。一晩空いているので、遅くなったどころではないのだが。
「ほんとに遅ぇよ。お前にしちゃあな」
黒髪のやや粗暴な青年、レスターがすかさず突っ込みを入れてくる。
「お前が変なことするとな、俺らが何か吹き込んだじゃねえかって隊長に疑われんだよ」
「あー……」
言われて、思わず苦笑する。
父はああ見えて、息子である自分に対しては何かと心配性なところがある。ある時それを司教にこぼした際、「親は子供が大人になっても気にかかってしまうものだよ」と諭されたことを思い出した。
「あと、お前が居なくなったら飯に困るんだよ」
「ああ、そう……」
他愛もないやり取りに、心が落ち着く。
一度死にかけた身だ。変わらないものがあることに、酷く安堵する。
ヴィンセントは着ていたコートを放り投げ制服を脱ぐと、カジュアルな部屋着へと着替えた。
改めて、自分の腹部を確認する。
傷跡の無い、綺麗な身体。
聖統教会擁する救護院でも、一晩でここまでの治療は不可能だ。これも魔術の成せる業、ということなのだろうか。
自分の身体を見つめているのも不自然なので、さっさと腹をしまい、ソファへ身を投げる。漸く安全地帯へ戻れたせいか、どっと肩の力が抜けた。
「明日は『会議』やるらしいから、今日はさっさと寝るぞ」
二人にルーファスが呼びかける。
「会議」ということは、今日の調査で情報がまとまったのだろう。流石というべきか、仕事が早い。
「明日から何やらされんだろうなあ」
頭を搔きながらレスターがぼやく。
ヴィンセントは内容について検討がついているのだが、黙っておいた。何にせよ、明日には分かることだ。
自室のベッドに身体を預けた瞬間、疲労で瞼が重くなる。
その瞼の裏に、イルマの姿が朧気に浮かんだ。
イルマはとうに、あの館に戻っているだろう。あの誰も寄り付かない場所に。
彼女はずっと、あんな風に暮らしてきたのだろうか。
そう考えると、胸がつまった。
ヴィンセントにはそれが、とても寂しいことのように思えたからだ。たとえ彼女自身が、そう感じていないとしても。
そんなことを考えながら、ヴィンセントは眠りについた。
◇
家の中が、異様に静かだ。
父と母は、今日は会食があるとかで留守にしている。
ふと妹の様子が気になって、部屋の前に立つ。すると微かな声が、ドア越しから聞こえてきた。
「うん、……はびっくりしたね。それで、どうするの……。うん……わかった……うーん、でも……」
ジュリエッタの声だ。彼女の自室から発せられているのだから、何も可笑しなことではない。
しかし、部屋にいるのは妹一人の筈だ。だと言うのに、誰かと会話をしているような素振りをしている。
だが予想はつく。例の「星さん」と会話でもしているのだろう。
「……うん、うん。……じゃあ、そうしよう……」
足音がしたかと思うと、ジュリエッタが部屋から出てきた。いつも通り、右手に人形を嵌めて。
「あ、お兄ちゃん……」
こちらはまだ何も言っていないのに、妹はばつの悪そうな顔をした。
「……お前、何するつもりだ?」
嫌な予感、とでも言うだろうか。
ここで彼女を引き留めておかないと、何か良くないことが起こる。そんな予感がしたのだ。
「お兄ちゃんは、私のこと好き?」
妹は唐突に、そんなことを聞いてきた。
まずは質問に答えろ、と叱りたかったが、アンドレイはその言葉を飲み込んだ。
ジュリエッタの問いが、兄である自分に縋っているように感じたからだ。
「お前、家族のことは好きとか嫌いとか、そういうのじゃないだろ」
声が震える。
何故だかアンドレイは悲しくなって、唇を強く噛んだ。
「お兄ちゃん」
ジュリエッタは同じように、泣きそうな顔で兄を見つめている。
「好きなら、私のこと全部許してよ」
――瞬間、頭上の電球が白く弾けた。
予想だにしなかった出来事に、反射的にうずくまる。
電球の破片が辺りに飛び散っているが、身体に痛みはない。幸い怪我はしなかったようだ。
「ジュリエッタ……!?」
妹に呼びかける。
しかし、返事はない。
嫌な汗が出る。明かりが無くなったことで、視界が闇に染まる。
生憎、懐中電灯の場所は失念してしまっている。広い家の中を探し回るのは諦めて、一旦外へ出ようとドアノブに手をかける。
そこで、アンドレイは気が付いた。
――玄関が、開いている。
鍵はアンドレイが帰って来た際、しっかりと閉めた筈だ。日頃の習慣なのだから、忘れるとは思えない。
だとすれば。
今さっき、ジュリエッタが開けて出て行ったとしか考えられない。
現在の時刻は深夜手前。当前、外はとうに陽が落ちて真っ暗だ。
妹は一体全体、こんな時間に何処へ向かうというのだろうか。
もう何もかも、訳が分からない。
こればかりは、自分の力だけではどうもできないと悟った。
けれど、ジュリエッタのことをこのまま放っておくわけにもいかない。
しかし両親は不在だ。一体誰に助けを求めれば――。
そこでアンドレイはふと、電話越しでのロナルドの言葉を思い出した。昼に見かけた黒衣の集団も。
そして殆ど無意識に、何かの天啓に導かれるように、闇の中を走りだした。
ロンドンには教会がいくつもある。小さな教会から大聖堂まで様々だ。
それでもこうして、聖統教会の門を叩いたのは、今日ここの信徒たちに出会ったからだろうか。
「おや、こんな夜更けにどうしたのかな」
一人の男性が出迎えた。服装を見るに、この大聖堂を統括する司教だろう。
搾り出すような声で、アンドレイは司教に請うた。
「悪魔が……」
司教は黙って、続く言葉を待つ。
「……俺は正直、あんたらが普段何やってる人なのか、よくわかんないんですよ。神様だとか天使や悪魔だとかも、本当にいるのかよく分からないし。……俺は信心深いわけじゃない。でも殆どの人間なんて、そんなモンだと思ってます」
助けを請うべき言葉は、いつの間にか皮肉へ変わっていた。
「……悪魔と言っていたね。じゃあ君は、悪魔を信じていないのかな」
「……分かりません」
「でも今の君は、悪魔の存在に怯えているようにしか思えないけれど」
アンドレイは、言われて漸く気が付いた。
ロナルドが言っていた、「悪魔憑き」という言葉。それを聞いた時、自分でも半ば確信していたのだと思う。いや、信じてしまった。
だから自分は、恐怖してしまった。
妹が、悪魔が、怖かったのだ。
「悪魔に対する恐怖は信仰心に比例する、とされていてね。だからこそ我々は、悪魔に対抗する強い心を持たなければならない。月並みな表現だけれどね」
そうだ。
ジュリエッタに必要だったのは、セラピーや説教ではなく、彼女を受け止める愛情と心の強さだった。
家を出る前。ジュリエッタはあの時、きっと兄に救いを求めていた。しかし、自分はその手をすぐに取らなかった。
彼女があんなことになってしまったからこそ、兄である自分が強くならなければいけない。物理的な意味ではなく、精神的に。
きっとそれだけが、自分に出来る唯一の方法。妹を救う手段だ。
「君が願い出るのなら、こちらも相応の対応を考えるけど、どうする?」
「……いいえ、大丈夫です。こんな時間にすみませんでした。多分、ちょっと、気が動転してたんだと思います」
平常心を取り戻したアンドレイが踵を返す。
「もうすっかり夜だ。誰か一緒に同行させようか?」
「大丈夫です。自分のことは、自分で何とか出来ます」
アンドレイはそう力強く返すと、一人暗い夜道を引き返していった。
ジュリエッタの悲痛な表情を思い浮かべる。
――もう二度と、あんな顔はさせない。
◇
「……目の前で助けを求めてる人間を突き放すのは、いつだって胸が痛むね」
司教は奥に控えていた神父へ、ひっそりと呟いた。
「司教殿が気に病むことはありません。本日とこれまでの調査で、事態については把握できました。明日にでも対処してもらいます」
「ありがとう。……あーあ。こういう時ドゥランテ神父だったら、もっと含蓄のあることを言えたんだろうなあ」
司教が肩をすくめて嘆息する。
神父は彼の言葉にぴくり、と反応した。司教はそれを察知したのか、ちらりと神父を見やりながら言葉を続ける。
「……ドゥランテ神父と言えば、ヴァチカンで彼と交流中の隊長殿は、来週には戻ってくるそうだよ」
「……!」
「あ、因みにドゥランテ神父は別件でアメリカに行くらしいから、イギリスには来ないよ?」
「……」
「そんな露骨に落ち込むことある?」
聖職者二人は最後に他愛もない話をしながら、聖堂の奥へと消えていった。




