chapter② 4話
ロンドン中心部から少し外れた、人気の少ない裏通り。レンガ造りの建物が肩を寄せ合う路地の途中に、それはあった。
「目立たない」というよりも、「埋もれている」といった方が正しいか。
この店は、あまりに存在が薄い。
恐らく普遍社会の人間が安易に足を踏み入れないよう、何らかの認識阻害が施されているのだろう。
肝心の店は碌に手入れもされていないのか、あちこちに蔦が絡まっている。窓ガラスは曇りがちで、内側の様子はほとんど見えない。見かけはすっかり寂れてしまった喫茶店だ。
不気味と言うほどではないが、これでは客も寄り付かないだろう。魔術などなくとも、人除けとしての雰囲気作りは申し分ない。
入口に取り付けられた金属プレートはすっかり錆び付き、僅かに傾いてしまっている。
ヴィンセントは、そのプレートに彫られた文字を注視した。
「|Purgatorium」
天国でも地獄でもない、その狭間にあるという煉獄。
それが、この店の名前。
「ここの設置を決定したのは教会で、設計は蛇十字が行ったそうよ」
「……店名を考えたのは?」
「さあ。でも、こんな当てつけのような名前を付けるなんて、私はどうかと思うけど」
彼女はヴィンセントに薄ら笑いを向けると、ドアをそっと押した。
ドアベルは存在せず、ドアの軋む音だけが店内に響く。一歩中に入ると、外の騒音が嘘のように掻き消えた。
慎重に中を見渡す。
手前の窓際に四人掛けのテーブルが二卓と、奥にカウンター席が七席。照明はオレンジ色で薄暗く、店を彩る音楽はない。
確かにここは喫茶店ではなく、立派な組織的施設だ。静かだというのに、妙に気持ちが落ち着かない。
「来たか」
店の奥から声が掛かった。
見ると店主らしき男が黒ずんだカウンターに方肘をつき、左手に煙草をくゆらせている。
男は黒いキャスケットを目深に被っており、その下にある翠色の瞳でこちらを見据えていていた。
「好きなとこ使え。今日はお前らしか来ない」
店主はぶっきらぼうにそう告げると、煙草を咥えながら、傍らにあった新聞紙を広げた。
再び、静寂が店内を支配する。
「窓際の席にしましょう。生憎、綺麗な景色なんて何も見えないけれど」
テーブル席は案外広く、これなら大皿の料理が同時にいくつも並べられるだろう。窓越しからは外の様子がしっかりと見える。曇って見えるのは外側からだけのようだ。
「あの人、店主のくせに紅茶は淹れられないそうなの。料理とコーヒーは得意なのに」
「メニューとかあるの?」
「当然。ここは事実、飲食店でもあるのだし」
……食べ物のことを考えていたら、無性に腹が空いてきた。思えば、今朝から何も食べていない。
「ふふ、おやつを貰い損ねた子犬みたいな顔してるわよ」
「……どういう顔?」
「待ってて。何か頼んでくるわ」
そう言うとイルマはカウンターへ向かった。
店主はこちらに一切興味がないのか、新聞紙から顔を上げる気配はない。
イルマは店主には声を掛けず、カウンターで何やら手元を動かしている。恐らくメモ用紙か何かにメッセージを書いているのだろう。
店主は黙ってそれを見つめている。
彼はイルマのことを知ってはいるが、見えてはいないようだった。彼女を認識できているのなら、わざわざ文字で伝えるより口頭で話した方が手っ取り早い。
――つまり、彼は魔術師ではない、ということか。
しかし中立地帯の管理など、ただの一般人に務まる仕事ではない。彼の経歴が気になるところではあるが、あまり詮索するのも気が憚れた。それよりも今は、目の前の仕事に集中しなければならない。
「さて。食事が来るまで真面目なお話でもしましょうか」
「まず結論から聞かせてくれ。君は既に目星がついているんだろう?」
ヴィンセントは単刀直入に、イルマに問うた。
交渉は不得手だが、こういう時は相手に長々と語らせる前に、まず結論を急かせるべきだと聞いていたからだ。
イルマは顔色ひとつ変えず、窓の先へと視線を移す。
「そういえばあなたと一緒にいた女の子、ずっと不安そうだったわね」
「……君、ずっと様子見てたの?」
「いけない?」
彼女は至って涼しい顔で流す。
ヴィンセントは構わず続きを促した。
「……それが、どうかしたの?」
「私には、あなたと神父たちを警戒していたように見えたのだけど」
「もしかして君は、あの女の子……ジュリエッタが怪しいって言ってる?」
「そうだけど」
イルマはあっさりと言ってのけた。
「悪魔が現実世界に干渉する際には特殊な力……『魔素』を使うのだけど、あの時あの子が持っていた人形に、不自然な程それが集まっていたの」
「その……魔素っていうは、君たちが魔術なんかを使う時に消費する、エネルギーみたいなもの?」
「ええ、大体その通りよ。もう少し細かく言えば……世界は地・水・火・風・空の『五大元素』で構成されているという話は聞いたことがあるかもしれないけれど、魔術世界ではそれを『魔素』と呼んでいるの。私は魔女だからそれを感じ取れるけれど、あなたはそうでもないのね」
「うん……その魔素っていうのは見たことがない、と思う。だからかな。僕は特異霊媒体質ではあるけど、向こうから正体を明かさない限り、それを見極めることは出来ないんだ」
「なるほどね……」
イルマは口元に手を当て、何か思案している。
「一先ず、状況は把握できたわ。悪魔は普段ああして、あの子を都合の良い駒として動かしている筈よ」
「ならいずれ、ジュリエッタ自身にも良くないことが起こる」
「それはどうかしらね。悪魔は器として、人間の身体を選ぶことはまずないから」
「それに関しては知ってる。悪魔憑きは悪魔にとっても効率が悪いから、滅多にそんなことは起きないって」
だからこそ、現代において祓魔師の出番は極めて少ない。それに比例するようにして、粛清教会の仕事が増える、というわけだ。
「それでも放っておけば、あの子自身の身に危険が及ぶかもしれない」
「……悪魔に関わろうとする時点で碌でもないのだから、どうなろうと私にとってはどうでもいいのだけど」
突き放すような彼女の言葉に、ヴィンセントの体が強張る。
何故悪魔を捕えるのかと聞いた時、彼女は「誰かの苦しむ姿を見たいだけ」と言っていた。
恐らく彼女にとっては他人の不幸など、愉快な娯楽でしかないのだろう。それは悪辣であり、到底許されるべき行為ではない。
けれどどうしてかヴィンセントは、彼女を嫌悪しきれなかった。
――きっと彼女は、そういう風にしか生きられない。
自分がこの忌まわしい体質を折り合いをつけて、それに相応しい道を進むしかないように。
「おい」
突如、頭上から声が降ってくる。
いつの間にか傍らに、店主が変わらぬ仏頂面で立っていた。
「できたぞ」
彼はヴィンセントの前に食事を置くと、さっさとカウンターへと戻っていった。
テーブルの上には、陶器の器に注がれた濃褐色のシチュー。見た目もさることながら、芳醇な赤ワインと香味野菜の甘い香りが食欲を刺激する。
ヴィンセントは手袋を外し、スプーンを持って一口咀嚼すると、驚きで目を見開いた。
「……美味しい」
「でしょう?」
濃厚なデミグラスソースのコクと、口の中に入れた瞬間、ほろほろと溶ける牛肉。通常の飲食店では味わえない旨味が、この一杯に凝縮されていた。
「僕も料理はするけど、ここまで上手くは出来ないなあ。大体適当に作っちゃうし」
「そうなの?」
「うん。でも僕も紅茶は苦手。手順通りにやってる筈なのに、何でか上手くいかなくて」
昔父に教えてもらい、練習もしたのだがいつも悲惨な結果だった。最終的には父にひきつった笑いを向けられたのを覚えている。
「あ、そういえばお金は?」
「金は取らねえよ。ここはそういうとこだ」
店主から返事が返ってくる。仮にも飲食店であるというのに、それで店がもつのだろうか。この味に見合う対価を払えないというのも、それはそれで勿体無いような気がした。
空腹だったのもあって、ものの数分で平らげてしまった。
正直なところ、ここが秘匿社会の中立地帯で良かったと感じる。これが一般的なレストランであったとすれば、人でごった返していただろう。
「口元に付いてる」
イルマがぐい、と身を乗り出したかと思うと、ヴィンセントの口元をナプキンで拭った。
……これでは、どちらが幼い子供なのか分からない。
「……何にせよ、あなたの言う通り早急に対処する必要はあるわね。教会でも何か進展があるかもしれないし、明日の昼頃、またここで会いましょう」
イルマは少し気まずそうにそう言った後、先に店を出ていった。
少し遅れて、ヴィンセントも後に続く。
「すみません、わざわざ食事作ってもらっちゃって……すごく美味しかったです」
何も言わずに退店するのも失礼かと思い、ヴィンセントは店主に一言礼を述べた。実際美味しかったのだから、紛れもない本心からの言葉だった。
「おう。……お前、上手くやれよ」
今まで鋼鉄のような店主の表情が、その時一瞬、和らいだような気がした。




