chapter② 3話
案内された場所は薄暗い路地だった。辺りにはごみが散乱しているが、浮浪者がうろついていない分歩きやすい。
路地裏の中をイルマが先導し進む。時折鼠が縄張りを主張するかのように、耳障りな鳴き声を上げていた。
イルマが立ち止まる。彼女は壁に人差し指を向けて、ヴィンセントの顔を見やった。先ずは自分の目で見てみろ、ということか。
「これは……」
彼女が指し示す壁面には、クレヨンか何かの画材で描かれた奇妙な絵が存在していた。確かによく見ればイルマの言う通り、何かしらの紋章のようにも見える。
「他にもこの周辺に幾つか点在していたのだけど、これはさっき私が見つけたばかりのもの。それに、描かれて日も経っていないみたい」
彼女の説明を、ヴィンセントは静かに聞いていた。
調査と分析なんて、まるで探偵にでもなった気分だ。今の自分は正確に言えば、あくまで探偵助手のようなものだが。
「具体的には何とも言えないけれど、やっぱりこれは、悪魔を象徴する紋章ね。そうだとすれば、放っておく理由も無いでしょう」
「そうだね。でも、何のために……」
「悪魔召喚のためでしょう。描き手の技量がお粗末なせいか、上手くはいっていないようだけれど」
「召喚、か……」
ヴィンセントの脳内に、黒い魔術書を片手に怪しく笑う人間の姿が浮かび上がった。
「ああ、そうそう……あなたにはまず、これを渡しておかないとね」
そう言われイルマから手渡されたのは、鈍く煌めく銀製の小さな指輪だった。
「これは一体?」
「ソロモンの指輪。……の、複製の複製」
「ソロモンの指輪……ってあの?」
「そう。一個目の複製品は私が持っていて、あなたのは予め予備用に作っておいたものなの。まさかこんなに出番が早く来るなんて思ってもいなかったけど」
ソロモンの指輪。
魔術を極め、七十二柱の悪魔たちを従えたという、古代イスラエルの王ソロモン。その彼が天より授かり、所有していたとされる術具。
複製品のそのまた複製品ということは、実物は重要な遺物として、蛇十字協会で厳重に保管されているのだろう。
部外者である自分が言うのもなんだが、本来は軽々に取り扱える代物ではない筈だ。イルマという魔女の存在は、いっそう謎めいている。
「それを使って悪魔の魂を回収するの。殺した後自動的に指輪へ格納される仕組みになっているから」
「成る程。わかりやすくて助かるよ」
「あと、わかっているとは思うけれど……複製とはいえ大切なものだから扱いには気を付けて。終わったら返してもらうから」
ヴィンセントはそれを聞いて、渡された指輪を強く握りしめる。危うくポケットへ雑に放り込むところだった。
「本来ソロモンの指輪は悪魔を使役する道具だけれど、私が弄ったそれは言わば手錠のようなものね」
手錠に牢獄。
牢獄については未だに半信半疑であったが、彼女の計画が段々と、ヴィンセントの頭の中でより鮮明にイメージ出来るようになってきた。
「早くこれを描いた犯人を見つけないとね」
「そうね。これは新しいものだから、少しでも痕跡が残っていればいいのだけど」
彼女が壁の紋章に手を触れると、それはぼうっと幻影のように消えていく。まるでそこには最初から何も無かったかのように、壁は元の姿を取り戻していた。
次に彼女は、周辺の壁や散乱したゴミに手を翳し始める。先ほど口にした「痕跡」とやらを辿るためだろう。
ヴィンセントは一人突っ立っているわけにもいかず、うろうろと辺りを歩き回り始めた。正直何の役にも立っているとは思えないが、何かしら発見できる可能性は上がる筈、だ。
イルマはそんなヴィンセントの様子に目もくれず調査を続けている。……単に呆れているのかもしれないが。
改めて、周囲を見回す。
例の落書き以外は何の変哲もない、至って普通の路地裏だ。けれど公に知られたくない行為は、常にこういった「影」で密かに行われる。
謀略、密売、不貞行為、暴力……それらは日々、光の届かない闇の中で蠢いている。
「……あなたは、『仕事』の過程で人を殺すことはあるの?」
イルマは感情を感じさせない、平坦な声でそう問いかけてきた。
「……父によれば、全くないことではないらしいよ。僕はまだない」
一呼吸置いて、
「そう」
とだけ零した。
「……家族は何も言わないの?」
「僕は孤児だったから、両親はいないよ。引き取ってくれた父は、僕が所属している部隊の隊長なんだ」
自分についてどこまで彼女に提示するものか悩んだが、どこか気遣わしげな彼女の様子に、なおざりにする気にはなれなかった。
「粛清教会にいる人間は、殆どは身寄りのない者たちだ。表向きは治安部隊とはいえ、粛清教会が請け負うのは所謂『汚れ仕事』だからね。多分その方が、色々と都合が良いんだ」
「……そうなの」
イルマの声は、僅かであるが暗く沈んでいるように感じた。いくら彼女が蛇十字協会の魔女とはいえ、あまり気分の良い話ではなかったのかもしれない。
「組織なんて、どこもそんなものよね。人を使い潰すことに、躊躇がないんだから」
「でも、僕はある意味父……教会のお陰で救われたようなものだから」
施設で初めて父と出会った時、彼は「人は適材適所」だと言った。
もし自分が、彼女と同じ蛇十字協会に所属していたとしたら。自分はどんな義務を背負い、どんな使命を果たしたのだろう。
「さて、今日はここまでにしましょうか」
取り留めもない妄想は、イルマの言葉にかき消された。
「帰るの?」
イルマは踵を返し、通りへ向かって歩き出す。ヴィンセントは少し戸惑うも、彼女の意向に従うことにした。
「ここにはもう何も残っていないようだし。ただ、もう少しで犯人に近づけそう」
「分かるの?」
「ええ。やっぱり、あなたと来て良かった」
イルマの発言はいまいち要領を得なかった。今日一日で、何かを得られたようには思えなかったからだ。
「僕にはいまいち、話が見えてこないんだけど」
「……あなたって、鋭いのか鈍いのか、よく分からない人ね」
「よく言われる」
ヴィンセントはばつが悪そうに、眉を下げ笑う。そしてすぐさま頭の中で、今朝からの出来事を思い起こした。
今日は教会を出てからここまで、イルマと共に行動を共にしていた。
道中では何も異変は起こらなかった。何かあったとすれば、市場で迷子の少女と遭遇したことぐらい――。
「ひとつ、提案なのだけど……あなたも私も、一々お互いの場所へ出向くのは面倒でしょうし、落ち合う場所を決めておいた方がいいと思うの」
「たしかにそうだね。君はあのエレベーターがあるけど、僕はそうもいかないし。けど、顔を合わせられる場所なんてあったかな?」
「ロンドンにはね、私たちのような日陰者が集まるのにうってつけの場所があるの。あなたも存在くらいは知っている筈だけど」
言われてみれば、たしかにそのような場所があったことを思い出した。
「『絶対中立地帯』のこと?確かに知ってはいるけど……。教会が使うことはまず無いって聞いたから、あんまり詳しいことは知らないな」
「まあ、そうでしょうね。形骸化して、今や誰も使っていないようだし」
「……それって意味あるのかな」
「無いわね」
一刀両断だった。ヴィンセントは思わず苦笑する。
「でももし、誰か来たら?魔術師には君が見えるんだろう?」
「そうね。けれどあそこに入り浸るような、酔狂な輩の話は聞かないわ。仮に何かあったとしても、あの場所なら互いの安全は保障される。それが『絶対中立』のルールだもの」
「絶対中立、か……」
反芻するようにぽつりと零す。法と信仰が支配する社会とは別の、秘匿された社会における、不確かな領域。
「今日の調査についても一度整理しておきたいし、折角だからそこへ寄りたいのだけど」
誘うようなイルマの視線を前に、ヴィンセントは思案した。
彼女の話を詳しく聞きたいのは事実だ。それに今後は自分にとって第二の活動拠点となる場となれば、予めどのような所かは見ておきたい。
「賛成だ。行こう」
今の自分に必要なのは、協力者であるイルマと歩調を合わせることだ。故にヴィンセントは、魔女の誘いに乗ることに決めた。




