第9話:麗しの我が村(の目が笑っていない)
ガタンッ、と。
私の理性を削り続けていた最後の衝撃と共に、馬車は完全に停止した。
「……着きました」
マリエルの静かな声が、20日間の地獄の終わりを告げる。
扉が開かれると、薄暗い車内に閉じ込められていた私の目に、あまりにも鮮烈な「光」と「緑」が飛び込んできた。
「あ……」
眩しさに目を細めながら、私はよろよろと馬車から転がり落ちる。
足が、地面の感覚を忘れている。
(……ここが、マリエルの村)
「旧支配者」を祀る、忘れられた村。
私は、険しい山道に隠されたその場所を、もっと陰鬱で、じめじめとした、日陰者の集落のようなものだと想像していた。
だが、目の前に広がっていた光景は、その予想を、良い意味で、完璧に裏切るものだった。
(うわぁ…………)
思わず、声が漏れる。
疲労困憊の身体に、鮮烈な「生」の色が流れ込んでくる。
見渡す限り、風にそよぐ緑の平原。
その緑の海を割るようにして、太陽の光を浴びて黄金色に輝く麦畑が広がっている。
丘の上には、質素だが人の手の温もりが感じられる木造りの家々が寄り添うように立ち並び、細い煙突からは、穏やかな暮らしを象徴するような白い煙が、ゆっくりと空に溶けていく。
ここには、コンクリートジャングル(前世)の息苦しさも、王都の冷酷な貴族社会(現世)の刺すような視線もない。
(……これよ)
(これこそ、私が求めていた「田舎」……!)
「忘れられた神々」とは、きっと、こういう豊かな自然に宿る、素朴な神様のことだったんだわ。
あの冷たい「外なる神々」とは違う、大地に根差した、温かい……
私が、20日間の疲労が洗い流されるような感動に打ち震えていると、家々から村の人々がぞろぞろと集まってくるのが見えた。
農作業中だったのだろう、素朴だが清潔な衣服をまとった男女だ。
彼らは、マリエルの姿を認めると、一斉に顔をほころばせた。
「おお、マリエル様! お帰りなさいませ!」
「お役目、ご苦労様でございました」
「お待ちしておりました、マリエル様」
(…………様?)
一瞬、思考が止まる。
メイドであるはずのマリエルに、村人全員が「様」付けで、しかも、まるで神の使いか巫女でも迎えるような、異様なまでの敬意を払っている。
(……あ、そっか実家が村の貴族だっていうし。そういうものよね、田舎って)
私は、その小さな違和感を、旅の疲れのせいにして頭を振った。
村人たちは、マリエルの隣に立つ、ボロボロの私の姿を認めると、さらに、にこやかな笑顔を向けてきた。
「ようこそ、客人」
「長旅でお疲れでしょう」
「ささ、館へ」
なんて、親切な人たち。
王都の、他人を他人とも思わぬ無関心や、仮面の下の侮蔑とは、何もかもが違う。
ここには、私と同じ「忘れられた」者たちの、温かい共同体がある。
(……あ)
村人たちの輪の後ろ。
少し離れた場所で、こちらを戸惑うように見ている、体格のいい青年の姿が目に入った。
(……朴訥そうな人)
私の、ささやかな第二の人生への期待が、小さく芽生える。
ここでなら、私、きっとやり直せる。
そう、確信した。
……まさに、その時だった。
(…………ん?)
幸福感で満たされかけていた私の心に、氷の針が一本、突き刺さった。
私は、ふと、気づいてしまった。
村人たちは、みんな、私に「笑いかけて」くれている。
口角は綺麗に上がり、完璧な「歓迎の笑顔」を作っている。
なのに。
彼らの「目」が、一切、笑っていなかった。
光を宿さない、硝子玉のような瞳。
それは、まるで品評会に並べられた家畜を値踏みするかのような。
あるいは、これから解体するために屠殺場へ運び込まれた獣を見定めるかのような。
何の感情も、何の温度も宿さない冷たい視線が、私の全身の隅々までを、じっと、品定めするように見つめている。
(…………)
ヒヤリ、と。
背筋を、20日間の旅の疲れとは質の違う、冷たい汗が伝った。
なんだろう、この感じ。
知っている。私は、この目を、知っている。
前世で、絶対に(予算的にも人員的にも)通るはずのない無茶な企画書を、「君ならできるよね?」という完璧な笑顔と共に押し付けてきた時の、あの部長の目に。
あの時と同じ、逃げ場のない圧力を感じる。
(……いやいや、気のせいよね!)
私は慌てて、見えない何かに抵抗するように首を振った。
疲れているんだわ、私。そうに違いない。
20日間も馬車に揺られて、神経が過敏になっているだけ。
(それに、ここは、マリエルの村よ)
(私と同じ、「忘れられた」者たちの……)
彼女が、私を危険な場所に連れてくるはずがない。
私は、マリエルの「あの言葉」を、必死に心の拠り所にしていた。
「ロザリア様。こちらへ。父と母が、お待ちかねでございます」
思考の海に沈みかけていた私を、マリエルの声が引き戻した。
いつの間にか差し出されていた小さな手に、私は導かれるように自分の手を重ねる。
私はその手に引かれるまま、村人たちの「笑顔」の歓迎(?)の中を通り抜けた。
背中に張り付く、無数の冷たい視線に、気づかないふりをしながら。
村で一番大きな屋敷――マリエルの実家へと、足を踏み入れる。
その屋敷の重厚な門に、まるで生き物のように蠢いているかのような、奇妙な渦巻き模様が深く刻まれていることに、疲労と安堵と恐怖で混乱していた私は、まだ気づかなかった。




