表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第10話:『人間らしい朝食(スローライフの味)』



チチチ、と。

 けたたましい電子音のアラームではなく、本物の小鳥のさえずりが、私の意識を優しく揺り起こした。


(……あさ?)


重い瞼をこじ開ける。

 視界に飛び込んできたのは、前世(佐藤葵)の薄暗いワンルームの天井でも、公爵邸の無駄に華美な天蓋でもない。


清潔で、素朴な、木のはりが通った天井。

 窓から差し込む朝の光は、蛍光灯のように白々しくはなく、柔らかい金色で部屋を満たしている。

 空気も、埃っぽさや排気ガスの匂いとは無縁だ。草木と、朝露の匂いがする。


「……」


私は、きしむベッドの上で、ゆっくりと上半身を起こした。


馬車に揺られ続けた身体はまだ重いが、あの王城で味わった絶望的な疲労感や、前世で常に背負っていた鉛のような倦怠感けんたいかんはない。


(……本当に、来たんだ)


王都を追放された絶望は、まだ胸の奥にくすぶっている。

 けれど、それ以上に。


都会の喧騒も、上司の怒声も、終わらないデスマーチもない、静かな朝。

 私が、過労死する寸前まで渇望していた「スローライフ」の朝が、今、確かにここにあった。


コン、コン。

 控えめなノックの音で、私は我に返った。


「はい……」


「失礼いたします、ロザリア様」


入ってきたのは、昨日と同じ簡素なメイド服に着替えたマリエルだった。

 その手には、簡素だが温かみのあふれる食事の乗ったトレイがある。


「おはようございます。昨夜はお休みになれましたでしょうか」


「あ……はい。ありがとう」


ベッドサイドのテーブルに、トレイが置かれる。

 そこに並んでいたのは、貴族の食事のような豪勢なものではなかった。

 けれど――


湯気が立つ、ふかふかの焼きたてのパン。

 冷たく冷やされた、新鮮なミルク。

 黄金色に輝く、おそらくこの村で採れた蜂蜜と、真っ赤な果実のジャム。

 そして、シンプルなチーズと、薄切りの塩漬け肉。


「……!」


私は、息を呑んだ。


(……ごはん、だ)


前世(社畜時代)の私の「食事」は、デスクの下で隠れてかじるカロリーバーか、深夜のコンビニで胃に流し込むゼリー飲料だった。

 あれは「食事」ではなく、「燃料補給」だった。


今、目の前にあるのは。

 誰かが、私のために、温かいものを用意してくれた、「人間らしい朝食」。


「……っ」


不意に、視界が滲んだ。


(ダメだ、私。涙腺がゆるすぎる……)


「ロザリア様? お口に合いません、でしたか?」


マリエルが、相変わらずの無表情で、小首を傾げる。


「ううん、違うの!」


私は慌てて、涙を袖で拭った。


「すごく、すごく美味しそう……! いただきます!」


パンをちぎり、蜂蜜をたっぷりとかけて口に運ぶ。

 サク、とした歯触りの後、小麦の甘い香りが、じゅわ、と口いっぱいに広がった。


(おいしい……!)


ミルクは、驚くほど味が濃い。

 ジャムは、前世で食べたどんな高級品よりも、果物そのものの味がした。


私は、夢中になってパンを頬張った。

 こんなに「美味しい」と感じた食事は、いつぶりだろう。


食事を終え、マリエルに案内されて、私は屋敷の主――彼女の両親に、改めて挨拶に向かった。

 通されたのは、客間というより、村の寄合所も兼ねていそうな、質素だが広いホールだった。


「ようこそ、ロザリア様。長旅の疲れは癒えましたかな」


上座に座る、マリエルの父君。

 昨日と同じ、厳格そうな、しかし感情の読めない青い瞳だ。


「はい。お部屋も、お食事も……本当に、ありがとうございます」


私が深く頭を下げると、隣に立つ母親が、氷のように静かな微笑みを浮かべた。


「まあ。ご丁寧に。……マリエルからは、全て伺っております。あなたは、我らが村にとって『待望の客人・・・・・』。歓迎いたしますわ」


(待望の……客人)


その言葉に、私は安堵で胸をなでおろした。

 公爵家を追放された厄介者、としてではなく、「客人」として扱ってくれる。

 マリエルが、私の事情をうまく伝えてくれたようだ。


「ちょうど、三日後。次の満月の夜に、我らが村の、最も重要な『豊穣の儀式』が行われます」


と、父君が言った。


「それまでは、どうぞこの館を我が家と思い、ゆっくりとおくつろぎください」


「は、はい……!」


(三日後、か。それまで、何をして過ごそう……)


私は改めて、二人を見た。

 彼らは、確かに私に「微笑んで」くれている。


だが、昨日感じた違和感は、まだ消えない。


(……やっぱり、目が笑ってない)


歓迎の言葉とは裏腹に、その瞳の奥は、昨日と同じ。

 私という商品を値踏みするかのような、冷たい光が宿っている。


(……いや)


私は、小さく首を振った。


(……気のせいだわ)


疲れているんだ、私は。

 王都の、あの腹の探り合いばかりの貴族社会に毒されすぎて、人の親切を素直に受け取れなくなっている。


公爵令嬢わたしが、突然こんな田舎に来たんだもの。村の人だって、どう接していいか戸惑ってるだけよね)

(そうよ、きっとそう。こんなに温かい食事を出してくれる人たちが、悪い人なわけがない)


私は、胸の中の小さな不安を、無理やり希望で塗りつぶした。

 せっかく手に入れた、夢にまで見たスローライフ。

 こんな猜疑心さいぎしんで、自ら台無しにしたくない。


私が葛藤していると、マリエルが私のそばに寄ってきた。


「ロザリア様。もしよろしければ、村の中を散策なさいませんか?」


「え?」


「ロザリア様がいらしたと聞いて、村の者たちも、ぜひご挨拶したいと申しておりました」


「村の、人たちが?」


(スローライフ名物、村人との触れ合い……!)


私の脳裏に、昨日ちらりと見かけた、あの「朴訥ぼくとつそうな青年」の姿が、一瞬よぎった。


「行く! 行きます!」


私は、先ほどの不安が嘘のように、期待に胸を膨らませて頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ