第10話:『人間らしい朝食(スローライフの味)』
チチチ、と。
けたたましい電子音のアラームではなく、本物の小鳥のさえずりが、私の意識を優しく揺り起こした。
(……あさ?)
重い瞼をこじ開ける。
視界に飛び込んできたのは、前世(佐藤葵)の薄暗いワンルームの天井でも、公爵邸の無駄に華美な天蓋でもない。
清潔で、素朴な、木の梁が通った天井。
窓から差し込む朝の光は、蛍光灯のように白々しくはなく、柔らかい金色で部屋を満たしている。
空気も、埃っぽさや排気ガスの匂いとは無縁だ。草木と、朝露の匂いがする。
「……」
私は、軋むベッドの上で、ゆっくりと上半身を起こした。
馬車に揺られ続けた身体はまだ重いが、あの王城で味わった絶望的な疲労感や、前世で常に背負っていた鉛のような倦怠感はない。
(……本当に、来たんだ)
王都を追放された絶望は、まだ胸の奥に燻っている。
けれど、それ以上に。
都会の喧騒も、上司の怒声も、終わらないデスマーチもない、静かな朝。
私が、過労死する寸前まで渇望していた「スローライフ」の朝が、今、確かにここにあった。
コン、コン。
控えめなノックの音で、私は我に返った。
「はい……」
「失礼いたします、ロザリア様」
入ってきたのは、昨日と同じ簡素なメイド服に着替えたマリエルだった。
その手には、簡素だが温かみのあふれる食事の乗ったトレイがある。
「おはようございます。昨夜はお休みになれましたでしょうか」
「あ……はい。ありがとう」
ベッドサイドのテーブルに、トレイが置かれる。
そこに並んでいたのは、貴族の食事のような豪勢なものではなかった。
けれど――
湯気が立つ、ふかふかの焼きたてのパン。
冷たく冷やされた、新鮮なミルク。
黄金色に輝く、おそらくこの村で採れた蜂蜜と、真っ赤な果実のジャム。
そして、シンプルなチーズと、薄切りの塩漬け肉。
「……!」
私は、息を呑んだ。
(……ごはん、だ)
前世(社畜時代)の私の「食事」は、デスクの下で隠れて齧るカロリーバーか、深夜のコンビニで胃に流し込むゼリー飲料だった。
あれは「食事」ではなく、「燃料補給」だった。
今、目の前にあるのは。
誰かが、私のために、温かいものを用意してくれた、「人間らしい朝食」。
「……っ」
不意に、視界が滲んだ。
(ダメだ、私。涙腺がゆるすぎる……)
「ロザリア様? お口に合いません、でしたか?」
マリエルが、相変わらずの無表情で、小首を傾げる。
「ううん、違うの!」
私は慌てて、涙を袖で拭った。
「すごく、すごく美味しそう……! いただきます!」
パンをちぎり、蜂蜜をたっぷりとかけて口に運ぶ。
サク、とした歯触りの後、小麦の甘い香りが、じゅわ、と口いっぱいに広がった。
(おいしい……!)
ミルクは、驚くほど味が濃い。
ジャムは、前世で食べたどんな高級品よりも、果物そのものの味がした。
私は、夢中になってパンを頬張った。
こんなに「美味しい」と感じた食事は、いつぶりだろう。
食事を終え、マリエルに案内されて、私は屋敷の主――彼女の両親に、改めて挨拶に向かった。
通されたのは、客間というより、村の寄合所も兼ねていそうな、質素だが広いホールだった。
「ようこそ、ロザリア様。長旅の疲れは癒えましたかな」
上座に座る、マリエルの父君。
昨日と同じ、厳格そうな、しかし感情の読めない青い瞳だ。
「はい。お部屋も、お食事も……本当に、ありがとうございます」
私が深く頭を下げると、隣に立つ母親が、氷のように静かな微笑みを浮かべた。
「まあ。ご丁寧に。……マリエルからは、全て伺っております。あなたは、我らが村にとって『待望の客人』。歓迎いたしますわ」
(待望の……客人)
その言葉に、私は安堵で胸をなでおろした。
公爵家を追放された厄介者、としてではなく、「客人」として扱ってくれる。
マリエルが、私の事情をうまく伝えてくれたようだ。
「ちょうど、三日後。次の満月の夜に、我らが村の、最も重要な『豊穣の儀式』が行われます」
と、父君が言った。
「それまでは、どうぞこの館を我が家と思い、ゆっくりとおくつろぎください」
「は、はい……!」
(三日後、か。それまで、何をして過ごそう……)
私は改めて、二人を見た。
彼らは、確かに私に「微笑んで」くれている。
だが、昨日感じた違和感は、まだ消えない。
(……やっぱり、目が笑ってない)
歓迎の言葉とは裏腹に、その瞳の奥は、昨日と同じ。
私という商品を値踏みするかのような、冷たい光が宿っている。
(……いや)
私は、小さく首を振った。
(……気のせいだわ)
疲れているんだ、私は。
王都の、あの腹の探り合いばかりの貴族社会に毒されすぎて、人の親切を素直に受け取れなくなっている。
(公爵令嬢が、突然こんな田舎に来たんだもの。村の人だって、どう接していいか戸惑ってるだけよね)
(そうよ、きっとそう。こんなに温かい食事を出してくれる人たちが、悪い人なわけがない)
私は、胸の中の小さな不安を、無理やり希望で塗りつぶした。
せっかく手に入れた、夢にまで見たスローライフ。
こんな猜疑心で、自ら台無しにしたくない。
私が葛藤していると、マリエルが私のそばに寄ってきた。
「ロザリア様。もしよろしければ、村の中を散策なさいませんか?」
「え?」
「ロザリア様がいらしたと聞いて、村の者たちも、ぜひご挨拶したいと申しておりました」
「村の、人たちが?」
(スローライフ名物、村人との触れ合い……!)
私の脳裏に、昨日ちらりと見かけた、あの「朴訥そうな青年」の姿が、一瞬よぎった。
「行く! 行きます!」
私は、先ほどの不安が嘘のように、期待に胸を膨らませて頷いた。




