第39話:門は開かれた
まずい。
まずい。まずい。
こいつは本気で「見つけた」と思い込み、他のすべてを切り捨てた。
マリエルの、もつれるような足取りを追い、湿った石の階段を駆け下りる。
黴と埃の匂い。暗闇から滴る水音が、不規則に響く。
どれだけ下っただろう。
不意に、マリエルの足が止まった。回廊は終わり、視界が唐突に開けた。
「…………」
私もまた、息を呑む。
そこは、学園の地下深くに存在するとは信じがたい、巨大な地下神殿だった。
天井は遥か高く、濃密な闇に溶けてその果ては見えない。
崩れかけた石造りの建造物が、忘れられた巨人たちの墓標のように、重苦しい沈黙の中で乱立している。
そして、その空間の最奥。
それは、あった。
「門」。
物理的な「扉」ではない。
空間そのものが捻じれ、歪み、あり得ない角度で「裂けて」いる。
それは、深淵をそのまま切り取って貼り付けたような、絶対的な「虚無の黒」。
見つめているだけで、あの忌まわしい耳鳴り(神々の囁き)が頭蓋の内で蘇りそうになり、私は強くかぶりを振って視線を逸らした。
「あ……あぁ……! ついに……ついに、この手に……!」
マリエルは、もはや私の存在など忘却している。
ふらふらと、まるで見えざる糸に引かれる人形のように、その巨大な「門」へと歩み寄っていく。
「門」の手前には、空間の壮大さに見合わぬほど質素な、しかし異様な存在感を放つ石造りの祭壇が鎮座していた。
マリエルは、その祭壇に縋りつくように両手をつき、恍惚とした表情で「門」を見上げる。
「…やはり、思った通りです。この祭壇こそが、『鍵』…」
彼女は、ゆっくりと私を振り返った。
その顔は、狂信的な喜びに満ちて青白く、まるで内側から発光しているかのように、恐ろしいまでに輝いていた。
「聞きましたか、バッタちゃん。…この祭壇で、巫女が命の尽きるまで祈り続ければ…『門』は開くのです」
(……は?)
思考が、一瞬停止した。
マリエルは、祭壇の上にためらいなく自らの身を横たえようとする。まるで、そこが彼女のために用意された寝台であるかのように。
「私が…私が生贄となり、我が身の全てを捧げて『門』を開きます」
彼女は、私に向かって、この上なく厳粛に、そしてこの上なく幸福そうに、厳命した。
「貴女は、何があっても私を守りなさい。儀式が完了するまで…何人たりとも、ここへ入れてはなりません」
ごくり、と乾いた喉が鳴る。音がやけに大きく響いた。
(……あ、これ、マジでヤバいやつだ)
マリエル(クソ上司)の、その狂信的な人生のすべてを注ぎ込んだ最後の「本命案件」が、今、幕を開けようとしていた。公爵家の襲撃だの、魔法少女だの、そんなものは全部、この瞬間のための余興、取るに足らない「前座」だったのだ。
私が抵抗の意思さえ失い、無言で頷くしかなかったのを、マリエルは「完全なる同意」と受け取った。
いや、もはや彼女は私を見てすらいなかった。その瞳は、虚空に浮かぶ「門」の兆しだけを狂おしく映している。
恍惚とした、ほとんど喘ぎに近い溜息を漏らし、彼女は祭壇の上にその身を横たえた。
胸の上で恭しく手を組み、うっとりと目を閉じる。
まるで、己の血で奇跡を証明する、殉教の聖女のように。
そして、始まった。
マリエルの唇から、人間が発音できるはずのない「古き祈り」が、粘り気をもって漏れだす。
空気が震えた。地下神殿の石壁が、床が、天井が、まるで巨大な管楽器と化したかのように、彼女の祈りに共鳴して低く、低く、唸りを上げる。
私は、言われた通り、祭壇の傍ら、唯一の出入り口である薄暗い回廊に向かって仁王立ちになる。
(来い……! 来いよ、魔法少女! 『秩序の乱れを感知!』とか言って、今すぐこの扉を蹴破って飛び込んでこい!)
だが、時は無情に過ぎていく。
五分。十分。脂汗が不快に伝っていくのがわかった。
(なんで来ない!? あいつら、日曜朝のお約束を忘れたのか、現実なんかご都合主義でなんとかしろよ!)
私のささやかなサボタージュ計画は、常に「他者(魔法少女)の妨害」という、私自身の手を汚さない「不可抗力」を前提にしていた。
だが、その肝心の「不可抗力」が、今、ここには存在しない。
いるのは、私と、狂信者の上司と、そして開きつつある「門」。
(……詰んでないか、これ?)
体感で三十分ほどが経過した、だろうか。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
空間が裂ける音、というより、硬い現実が「割れる」音がした。
重く、低く、内臓を直接揺さぶるような轟音。見上げた「門」——あの空間の「黒い裂け目」が、物理的な抵抗をねじ伏せるように、ゆっくりと押し広げられていく。
(あ……あ……開い、た……!)
裂け目の向こう、原色の闇から、最初に「それら」は現れた。
形容しようのない、不定形の影。多足の昆虫めいた、しかし節くれだった骨で構成された何か。ねじくれた触手の塊が、ぬらぬらと床にこぼれ落ちる。
「混沌の使い」だ。
奴らは、甲高い、歓喜の悲鳴のような音を立てながら、私たちが来た回廊——「外の世界」へと、一目散に殺到していく。
奴らにとって、同じ「混沌」の匂いを纏う私とマリエルは、認識する価値もない「仲間」あるいは「風景」でしかないらしく、そのおぞましい複眼が一瞬こちらを向くことさえなかった。
(まずい、まずい、まずい! これ、マジで世界滅ぶやつじゃん! 私のサボタージュのせいで世界が!!)
焦燥が全身を焼き、出口へと向かう怪物の群れと、祭壇で微動だにしないマリエルを、何度も、何度も見比べる。
その時、門の奥で、ひときわ巨大な「何か」が動いた。
裂け目からでは出られないほど巨大なソレが、まるでこじ開けるように、おぞましい「腕」のようなものを隙間からねじ込もうともがいている。
(デカいの来たァァァ!!)
恐怖に引きつり、マリエルを振り返った、その瞬間。
私は、自分の「本当の恐怖」に気づいた。
マリエルは、恍惚と歓喜の表情を浮かべていた。
だが、その顔は、血の気が完全に引いて真っ青だった。
さっきまでの張り詰めたような美しさはどこにもなく、頬はこけ、唇は乾ききってひび割れている。祭壇に横たわる身体は、まるでミイラのようにすべての生命力を削ぎ落とされていた。
あれほど神殿を震わせていた力強い「祈り」が、今はもう、耳を澄まさなければ聞こえないほど、か細い息にしか聞こえない。
(……あ)
このままだと、間違いなくマリエルは死ぬ。
「門」が完全に開くのと、彼女の命が尽きるのと、どちらが早いか。
——いや、違う。
彼女の命が尽きるから、「門」が開くんだ。
(……サボタージュ? 世界滅亡? )
どうでもいい。
部長の理不尽な叱責も、旧支配者の陰鬱な囁きも、何もかもがどうでもよかった。
(——死なせない)
気づいた時には、身体が動いていた。
外の世界へ殺到する「混沌の使い」たちの、ぬめった身体や硬い甲殻に肩を叩きつけ、強引に突き飛ばし、祭壇へと駆け寄る。
そして、儀式のまっただ中、弱々しく最後の祈りを捧げるマリエルの身体を、乱暴に、しかし力強く、抱き上げた。
「——ッ!?」
聖なる儀式を中断されたマリエルが、カッ、と目を見開く。
その澄んだ青い瞳に、一瞬の驚愕が走り、すぐにそれは裏切りに対する純粋な「怒り」の炎へと変わった。
「……なにを…するのです……!」
か細く、しかし氷のように鋭い声が、私を突き刺した。
「邪魔を…するなッ!!」
儀式を妨害されたことへの純粋な激昂。神への冒涜を、よりによって「神の器」である私にされたことへの、裏切られた狂信者の怒り。
「降ろしなさい…! 戻しなさい、私を祭壇へ…! これは『命令』です、バッタちゃん!」
衰弱しきった身体では、私の拘束から逃れられない。だが、マリエルには、まだ「切り札」が残されていた。
彼女は、最後の生命力を振り絞るように、私を抱える私の顔———を掴む。
血の気が引き、死人のように青白い顔が、間近に迫る。
そして、私を見据え——彼女は、私にキスをした。
それは「ご褒美」などという生易しいものではない。「愛」でもない。
私の身体の奥深くに刻み込まれた、絶対服従の「呪い(コマンド)」。
この唇が触れれば、私の理性を焼き、本能をむき出しにし、この女の望むままに動く、忠実な「器」に戻るはずだった。
「…………」
乾いた唇が、離れる。
マリエルは、ぜえ、ぜえ、と荒い息を繰り返しながら、私を見上げた。
その瞳には、絶対的な「確信」があった。(さあ、私を祭壇に戻しなさい)——その命令が、声にならずとも伝わってくる。
だが。
私は、動かない。
彼女を抱き上げたまま、ただ、静かに彼女を見下ろしている。
一秒。二秒。
マリエルの瞳から、絶対的な「確信」が、水に滲む絵の具のように溶け、消えた。
「混乱」が、その青い水面を濁らせていく。
「………なんで?」
声が、震えている。
「き、効かない…? そんな…言うことを…利きなさい…っ!」
(……ああ、そうか)
乾いた笑いがこみ上げてくるのを、必死でこらえた。
(そうか、そうだったのか…)
今まで、私はこの「呪い(キス)」に、必死で抵抗してきた。
『やめろ、私の身体! 幸せホルモンを出すな! 屈するな!』
…そうだ。「私(葵)」の理性が、暴走する「身体」の本能を、力ずくで押さえつけようとしてきた。
だが、今は?
(今、私は、何を考えてた?)
『死ぬな』
——ただ、それだけだ。
『マリエルを死なせるな』
その一点において、「私(葵)」の理性も、「身体」の本能も、とっくの昔に「同意」していた。
だから、キスをされても、何の「内部闘争」も起きなかった。
「命令」が要求する『マリエルを優先しろ』と、私の「意志」が叫ぶ『マリエルを死なせるな』が、完全に一致してしまったのだから。
(…ははっ。なんだよ、それ)
あの、クソみたいに腹が立った『#マリエルたんまじ天使』の強制フラッシュバック。あの、花畑で戯れる、生成AIかと疑った幸せアピール。
あの、ロザリアの魂からの「マウント」。
ロザリアは気づいていたんだ。
私がとっくに百合ホラーに侵食されていた事を。
「サボタージュ」だの「百合ホラー」だので自分も騙していた。
バカみたいだ。
この戦いは、「理性」と「本能」の戦いなんかじゃなかった。
最初から最後まで、ただ、「葵」と「ロザリア」が、一人の女を、必死に取り合っていた。
——それだけの話だった。
腕の中で、まだ「なぜ? なぜ?」と壊れたように呟き、混乱しているマリエルを見下ろす。
(ロザリア、聞こえるか)
(…私たちの気持ちは、一つだ)
(くだらないマウントの取り合いは、もう終わり)
(——この女を、死なせたくない)
『今こそ、一つにならなくちゃいけない時が来た』
その結論と同時に、マリエルが恐慌と衰弱で、ついにヒステリックに叫び始めた。
「おろしなさい! 降ろせ! 門が、神が、私を呼んで—」
うるさい。
私は、もはや抵抗する力もなくただ暴れるマリエルの額に、自分の額を、優しく、しかし確実な衝撃で、コツン、と当てた。
「ぐっ…」
マリエルは、カクン、と白目をむき、私の腕の中で静かに気を失った。
(うん、これでよし)
ぐったりとしたマリエルを、そっと「お姫様抱っこ」の体勢に抱え直す。
その瞬間。
——ギチギチギチギチギチギチッ!!
神殿中の「混沌の使い」たちが、一斉に、そのおぞましい複眼を私に向けた。
儀式を妨害し、生贄の巫女を無力化した私を、明確な「敵」と認識したのだ。
「……はぁ」
私は、眠るマリエルの顔を一度見下ろし、そして、回廊の出口——蠢く怪物の群れ——を見据えた。
「全力で、逃げるしかないか」
もはや私を縛るものは何もない。
バッタの脚に全神経を集中させ、床を蹴る。
怪物の群れに突っ込み、そのまま(マリエルを抱えたまま)回廊を爆走し、学園の地上へと続く窓——いや、壁を!
ドッッッガァァァァンッッ!!!
外骨格の体当たりで、石造りの壁ごとぶち破り、土煙と共に外光の中へ飛び出した。
そして、私は見た。
「…………は?」
地上(学園の中庭)は、私が地下にいたわずかな時間で、地獄と化していた。
展開する軍隊、リオンと王子、そして——
溢れ出た「混沌の使い」の群れと、空中で激しく交戦する、三色の光。
三人の、魔法少女たちを。
(あ……だから、こっち(地下)に来なかったのか……!)




