第37話:三位一体の決意
王都の喧騒が嘘のように隔絶された、静かなアジト。
古い羊皮紙と、微かな消毒液の匂いが満ちている。
エステルとクラリッサが入口から姿を現した時、イグニアはすでに獣のように部屋を往復していた。
右腕を無様に吊るした包帯が、彼女の焦燥を一層際立たせる。
「遅かったじゃねえか!」
床を蹴る踵の音と共に、苛立たしげな声が飛ぶ。
「で、どうだった!? あのクソ怪人は!」
イグニアの血走った問いに、エステルは答えられない。
彼女の唇は固く結ばれ、その瞳にはひと時前の光景——燃え盛る炎の中、憎悪に歪んだ旧友の顔、『ロザリア・ヴェルデ』という絶望的な事実——が、まだ焼き付いていた。
「……イグニア。落ち着いて」
クラリッサが、氷のように静かな声で空気を断ち切った。
彼女は知的なアンダーリムの眼鏡(変身時のものとは違う)を、感情を押し殺すように中指で押し上げる。
「最悪の事態です。……私の仮説が、不幸にも、当たってしまいました」
「仮説?」
イグニアの眉が吊り上がる。
エステルの肩からクラリッサの机へ、マスコットのフィラートが重々しく飛び移った。
「『怪人』の正体…それは、ヴェルデ公爵家を勘当された令嬢、『ロザリア』本人だったのですぞ!」
「はぁ!?」
イグニアが、嘲るような素っ頓狂な声を上げた。
「ロザリアだぁ? ……あの、リオンのイカれた姉貴かよ!? どういうことだ!」
「そのままの意味です」
クラリッサの言葉は、淡々としているが故に重い。
「公爵、夫人、リオン様…現当主三名が死亡した場合、公爵家の財産と地位を法的に相続しうる人物。それは『彼女』ただ一人。…あの怪人の行動原理は、復讐を口実とした『公爵家の乗っ取り』。そう判断せざるを得ません」
沈黙が落ちる。
エステルが、血が滲むほど唇を噛みしめながら、か細い声で口を開いた。
「…彼女は、言いました。リオン様とアルフォンス殿下の前で、はっきりと……『お前も父親も母親も必ず殺してやる』と…」
その言葉が引き金だった。
イグニアの怒りは、より黒く、屈辱的な感情に変質した。
「…復讐? たかが、そんな下らねぇ『逆恨み』のために…!」
彼女は吊っていない左手を見つめる。
「アイツは、私の腕を……この私の腕を、折りやがったのかよ…!」
「下らない、では済まされません」
クラリッサがアジトの作戦マップ——王都の地図を広げ、その中央、ヴェルデ公爵家の屋敷を指先で強くタップした。
乾いた音が響く。
「殿下とリオン様は、あの脅迫を『本物』として受理しました。今、公爵家の屋敷には王家の近衛騎士団と、ヴェルデ公爵家の全兵力が集結しつつあります」
エステルが、彷徨っていた視線に決意の光を宿し、頷いた。
「当然、私たちも向かいます。公爵家が、王都の秩序が、今まさに『混沌』に狙われている。…私とクラリッサで、屋敷の警備に加わります」
「待てよ」
地を這うような低い声が、アジトの空気を凍らせた。
イグニアだった。彼女は、吊っていない方の左手で、オーク材の机の端を握りしめていた。硬い木が、ミシリ、と悲鳴を上げる。
「……今、なんて言った? 『私とクラリッサで』…?」
「イグニア、貴女は負傷者です」
クラリッサが、非情なほど冷静に、事実だけを告げる。
「貴女の炎は強力ですが、今の貴女では精密なコントロールが望めない。屋敷に火を放つつもりですか? ……足手まといです」
「あしでまとい、だと…?」
イグニアの喉が、低く唸る。
「あなたを、見殺しにしたくありません」
エステルが、必死にイグニアを説得しようと間に入った。
「あの怪人の勢いに飲まれ、私とクラリッサは…撤退するのがやっとでした。彼女が何を喚いていたのか、まるで理解できませんでしたが…あの時の彼女は、本気で理性を失っていた。…イグニア、貴女のその怪我では…!」
「だからだよ!!」
イグニアの絶叫が、アジトの壁を震わせた。
「理性を失ったアイツを、お前ら二人だけで止められると思ってんのか!? 私が腕一本やられたのは、油断したからじゃねぇ! アイツが、私一人じゃ勝てねぇほど強かったからだ!」
イグニアは、エステルの胸倉を掴まんばかりに詰め寄る。
その瞳には、怒りと、それ以上の焦燥が渦巻いていた。
「あの馬鹿げた跳躍力を! あのイカれた防御力を! もう忘れたのかよ!」
「イグニア…」
「クラリッサ!」
イグニアは、次に冷静な参謀に向き直る。
「テメェの理屈で言ってみろ! 前衛が突っ込んで、遠距離が撃ち、後衛が守る! それが『オーダード・メイデン』だろ!?」
彼女は、自分の役立たずの右腕を、左手で叩いてみせた。
「『二人』でアイツに勝てる算段があるなら、言ってみろよ!!」
クラリッサは、言葉に詰まった。
イグニアの言葉は、感情論ではなかった。それは、敗北したからこそ得られた、純粋な「戦力分析」だった。
アジトに、重い沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、エステルだった。
彼女は、イグニアの(怪我をしていない)左肩に、そっと自分の手を置いた。
「……そう、ですね。イグニアの言う通りです」
エステルは、自分の中の甘えと恐怖を振り払うように、一度目を閉じた。
「私一人では、彼女に勝てなかった。二人でも、逃げられた」
彼女は目を開け、クラリッサをまっすぐに見つめる。
「あの怪人に、私たち『秩序の乙女』が本気で立ち向かうなら……」
「『三人』じゃなければ、いけない」
イグニアが、驚いたようにエステルを見た。
クラリッサは、ふぅ、と長い長い溜息をついた。
それは、彼女の完璧な論理が破綻した音だった。
「……非合理です。負傷者の増援など」
だが、と彼女は続けた。
クラリッサは、イグニアの吊られた右腕を一瞬だけ見やり、そして諦めたように、しかし静かな覚悟と共に、極めて稀な笑みを浮かべた。
「貴女がいないと、エステルが死ぬ確率が上昇する。…それは、もっと非合理ですね」
「クラリッサ…!」
「へへっ、ようやく分かりやがったか」
イグニアが、痛みを忘れたように獰猛に笑う。
エステルも、泣きそうな顔で笑う。
フィラートが、三人の顔を見上げて、高らかに叫んだ。
「そうですぞ! 君たちは三人で一つ! 三位一体、秩序の守護者!」
「ええ」
エステルが、中央の作戦マップに、そっと手を伸ばす。
「私たちは、三人で」
イグニアが、その上に左手を乱暴に重ねる。
「あのクソバッタを」
クラリッサが、最後に二人の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
三人の体温が一つになる。
「完全に、排除します」
「「「オーダード・メイデン、出動!!」」」
かくして、王都の秩序を守るべく、三人の魔法少女は(一人、戦力としては不完全な負傷者を抱えたまま)最大の決戦の地、ヴェルデ公爵邸へと向かう——。




