第36話:安宿襲撃
夜の底が、不意に揺らいだ。
(……ん?)
私、ロザリア・ヴェルデ(の中身、佐藤葵)は、水面に押し上げられるように浅い眠りから強制的に覚醒させられた。
背後で抱き枕にされているマリエルの寝返りでも、安宿のギシギシと軋む硬いベッドのせいでもない。
このバッタの身体が、その昆虫としての本能で、けたたましい警報を鳴らしているのだ。
(……殺気。それも、一つや二つじゃない)
肌が粟立つ。本能的な恐怖が脊髄を駆け上がると同時に、冷徹な理性が状況を分析し始める。
私はマリエルを起こさないよう、呼吸ひとつ変えずに慎重に身じろぎし、感覚を研ぎ澄ませた。
……いる。
この安宿の周囲。窓の外で揺れる影、階下で床板が軋む微かな音、路地の入口を塞ぐ鉄の匂い。息を殺した人間の気配が、じっとりとした粘着質の網のように、私たちを絡め取ろうと収縮していた。
一人や二人ではない。二十、三十……いや、軽く五十は超えている。完璧な包囲網だ。
「……マリエル、起きて」
私は背後の狂信者を、絶望的なほど静かに揺する。
「……んん……どうしました、バッタちゃん……まだ『ご褒美』の時間では……」
寝ぼけ眼で、また理不尽なことを口走る彼女の口を、私は反射的に手で塞いだ。その手のひらに、彼女の温かい呼気がかかる。
「静かに。囲まれてる」
その一言で、マリエルの瞳から眠気が一瞬にして消え失せた。爬虫類のような冷たい光が宿る。
彼女は音もなくベッドから滑り降りると、一切の焦燥をみせず、流れるような動作で旅装束に着替え始めた。
「……リオン様、ですか。思ったより早い。少々、甘く見過ぎたようですね」
冷静に分析しながら、マリエルは窓の隙間から外の闇を窺う。
その横顔は、窮地に陥ったことへの焦りよりも、「完璧に整えたはずの計画が乱された」ことへの純粋な苛立ちと、それを上回る冷酷な計算に染まっていた。
(よし!)
私は内心、完璧なガッツポーズを決めた。これ以上ないほど力強く!
(弟ナイス! グッジョブ! さすが公爵家! この物量!)
これだけの戦力差だ。どう考えても強行突破は無理筋。
今こそ、このクソ上司に「王都からの戦略的撤退」という、私(佐藤葵)の悲願を認めさせる絶好のチャンス!
「マリエル!」
私は、この状況をどれだけ憂慮しているかを示すため、絶望に打ちひしがれたような、深刻ぶった声を作った。
「ここは一度引くべきよ! この数じゃ、さすがに私も……!」
(私もサボタージュしきれない!)
そう彼女を説得しようとした、その瞬間だった。
(…………え?)
まただ。
あの、忌ましき強制フラッシュバック。
だが、今回は「#マリエルたんの寝顔まじ天使」のようなピンク色のハートが舞う、お寒い映像ではない。
——視界いっぱいに広がる、色鮮やかなお花畑。
陽光が、風にそよぐ花弁をキラキラと照らしている。
そこで、無邪気に笑いながら花冠を編む、少女時代のマリエル。
そして、その完成したばかりの花冠を、嬉しそうに、宝物のように、少女時代のロザリア(私)の頭にかぶせるマリエル。
二人の、何の疑いもない、純度100%の、屈託のない笑顔——。
「「「……………………は?」」」
思考が、凍り付いた。
なんだこれ。
何を見せられてるんだ、私は。
あまりの「清純派」な映像に、私のSAN値が昨日とは別方向からゴリゴリと削れていく。
(……おい、ロザリア(魂))
私は、この身体の奥に潜む「彼女」に向かって、内心で氷のように冷たい声で問いかけた。
(アンタ、まさかとは思うけど……)
(こんなクソ忙しい包囲網の中で、私に……『私たち、昔はこんなに仲良かったのよ』的な、思い出マウント取ってるわけ?)
身体が、ピクリと硬直する。
……図星か。
(いやいやいや)
私の理性(佐藤葵)が、呆れを通り越して、乾いた笑いを漏らし始める。
(アンタさぁ、バカなの? 幸せアピール? それとも、現実逃避? インスタ構文なの?)
(つーか、そのデータ、本当か? あの邪悪なマリエルが、あんな穢れを知らない純粋な顔するわけないだろ)
(あー、わかった。もしかしてそれ……生成AIで作ったフェイク動画じゃない?)
身体が、ワナワナと小刻みに震え始めた。
ビンゴらしい。
(そういえばアンタって、ただの『激重ストーカー』だもんな。この前の『#マリエルたん』も、全部アンタの妄想(生成AI)で作ったフェイクだろ)
(わかるよー。インスタの幸せ自慢って、本当は幸せじゃない奴がやるもんだし)
(哀れだなぁ、ロザリア……。現実のマリエルは、アンタのことなんか見てないのに)
私の完璧な煽り(事実ベースの偏見100%)が、ついに彼女の心の琴線(という名の地雷原)を、真正面から踏み抜いた。
「(ロザリア(魂))——ちがうッ!!」
身体が、私の意志を完全に無視して、絶叫と共に跳ね起きた。
そばにあったフルフェイスの仮面を掴もうとした手が、怒りのあまり仮面そのものを「バキィッ!」と握り潰す。指の間から、砕けた仮面の破片がこぼれ落ちた。
「違う! 違う違う違う! これは本物だもん! マリエルは私を愛してるんだからァァァ!!」
ドン引きしているマリエルを尻目に、ロザリア(身体)は、そのまま安宿の壁を蹴破った。
(同時刻・安宿包囲網・指揮所)
「……まだ動きは無いか」
公爵家の馬車の中で、リオン・ヴェルデは冷徹に状況を確認していた。その声は、夜の冷気よりもなお冷たい。
彼の隣には、王家の騎士数名を引き連れた、第一王子アルフォンスが静かに座している。王子の介入は、これが「公爵家の内輪揉め」ではなく、「王都の秩序を脅かす怪人事件」として処理されることを意味していた。
「はっ。対象はまだ宿の内部に。完全に包囲しております」
「よし。火を放て。燻り出し、抵抗するなら——」
リオンが冷酷な命令を下そうとした、まさにその瞬間。
ドゴォォン!!
宿の二階の壁が、内側から爆発した。
「なっ!?」
「来たか!」
粉塵と木片が嵐のように舞う中から、月光を浴びて飛び出してきた「それ」を見て、リオンとアルフォンスは、同時に息を呑んだ。
仮面は無い。
燃えるような赤い髪が、月光の下で逆立っている。金色の瞳は、憎悪と狂気で爛々と輝いていた。
その顔は、間違いなく。
「……姉、さん……?」
リオンが、あり得ないものを見る目で呟く。
「……ロザリア……!?」
アルフォンスも、その顔に驚愕する。
だが、その驚きはすぐに、理解不能な「ドン引き」へと変わった。
勘当されたはずの姉は、肌の一部がおぞましい緑色の外骨格に変貌した「怪人」の姿だった。
そして何より。
彼女は、公爵家の兵士たちを(まるで虫けらのように)蹴散らしながら、訳の分からないことを大声で泣き叫んでいたのだ。
「違うもン!! マリエルは私の! 私だけを見てたんだからァァァ!! 昔みたいに笑ってよぉぉぉ!!」
「「…………は?」」
リオンと王子は、顔を見合わせた。
((マリエル……? あの、メイド(下賤の女)のことか……? 何を、言っているんだ、あれは……?))
ロザリア(怪人)は、兵士の槍を掴み取って赤子の手を捻るようにへし折り、その勢いのまま兵士の鎧を殴り飛ばす。
「偽物なんかじゃない! 私たちの愛は本物だもん!! 邪魔するなぁぁぁ!!」
その常軌を逸した姿と、理解不能な叫び(メイドへの異常な執着)に、リオンは侮蔑を通り越した絶対零度の殺意を瞳に宿した。
「……あれが、ヴェルデの『失敗作』の成れの果てか」
王子も冷ややかに頷く。その視線は、もはや人を見るものではなかった。
「……もはや、人の形をした『混沌』だ。ロザリアは、死んだ」
二人は同時に、包囲網に向かって叫んだ。
「構うな! 撃て! 殺せ!」
「あの『汚物』を、ヴェルデの名と共に消し去れ!!」
(安宿・屋根の上)
「(絶叫)マリエルの寝顔にケチつける奴はぶっ殺す!!」
暴走するロザリア(魂)のせいで、私の身体は、公爵家の兵士相手に無双を始めていた。
ボディーのあまりの狂乱ぶりに私の爆笑は止まらない!
(幸せアピール乙!)
(マリエルが見てるのは、お前じゃなくて私なんだよ、残念だったな!)
(プークスクス!)
「違うもん、私たちの愛が本物だもん」
ボディーが絶叫する。
小学生レベルの罵り合いをしている間にも、身体は兵士を次々と戦闘不能にしていく。
その、あまりにも一方的な虐殺(暴走)の最中。
混乱の渦の中心から、糸を通すように冷静な声が、私の耳に届いた。
「——よくやりました、バッタちゃん。包囲が解けました」
ふと見ると、いつの間にか宿から脱出していたマリエルが、隣の建物の屋根に音もなく立っていた。
彼女は、私のこの奇行(暴走)を、「包囲網を突破するための陽動、あるいは作戦」だと完璧に誤解している。
「撤退しますよ」
その一言は、魔法の言葉だった。
「違うもん!」と叫び、兵士に殴りかかろうとしていたロザリア(身体)の動きが、ピタリ、と止まる。
まるでスイッチが切り替わったかのように、沸騰していた魂が鎮まり、身体の主導権が私(葵)に戻ってきた。
「(小声)……OK」
私は、すぐさまマリエルの元へ跳躍。
流れるような動作で彼女を横抱き(お姫様だっこ)にする。
「逃すな! 追え!」
下から、リオンと王子の怒声が響く。
「ロザリア、貴様そこまで落ちたのか」
「ヴェルデの恥が、今すぐ消してやる」
王子と弟の殺意に晒され、自分が素顔を晒していることに今更ながら気づく。
(……ああ、そうか。せっかく顔バレしたんだ)
私は、いつもの悪役ムーブを思い出した。
闇に紛れる直前、私は眼下の二人に向かって、仮面(もう無いけど)の下で、最高の「悪役令嬢(怪人)」スマイルを浮かべた。
「——終わりだと思うな、愚かな弟! そして王子!」
「これは、復讐の始まりに過ぎない!」
「貴様も、父も、母も……必ずこの手で惨たらしく殺してやる!! 覚悟しておけェ!!」
わざとらしく高笑いを夜空に響かせ、私はマリエルを抱えたまま、50メートル級のバッタジャンプで、王都の夜闇へと消えていった。
残されたのは、姉の明確な「暗殺予告」と「怪人化」という二つの最悪な事実を突きつけられ、怒りと困惑に震えるリオンと王子の姿だった。
(……よし。完璧な悪役ムーブ)
私は内心、二度目のガッツポーズを決めた。
(これで公爵家の警備はガチガチになる。暗殺計画は事実上『実行不可能』だ!)
(弟よ、マジで信じてたぞ! この姉(の中身)は、お前を!)




