第35話:包囲網(ほういもう)と、役立たずの焦燥
王都の下層区。
そこは、貴族街の整然とした虚飾とは無縁の場所だった。
排水溝の腐臭と、安酒の匂い、そして澱んだ熱気が、粘つくように肌に張り付く。
その路地裏の、最も暗い一角。
公爵家の情報部——父が「害虫駆除」のためにリオンへ与えた、影の実行部隊——が、一人の情報屋を物理的に壁際まで追い詰めていた。
「……見つかったぞ。銀髪の小娘と、背の高い、常に仮面をつけた連れ。『忌み雀』の宿に潜伏している」
闇に溶け込むような黒衣の男が、感情を殺した声で報告する。
その報告を、リオン・ヴェルデは、埃っぽい路地の入り口で聞いていた。
彼はこの汚れた場所に不釣り合いなほど完璧な制服姿で立ち、まるで害虫の巣でも検分するかのように、忌々しげに眉をひそめている。
(……やはり、あのメイド(マリエル)と一緒か)
リオンの脳裏に、かつて姉があのメイドにだけ見せていた、粘つくような執着が蘇る。
(あの『失敗作』が、逆恨みの果てに、あのメイドを唆して…)
リオンにとって、姉はもはや人間ではない。父の言う通り、ヴェルデ家の資産台帳にこびりついた「不良債権」であり、家の壁を蝕む「害虫」だ。
「場所は特定したな。即座に宿を包囲。ただし、手は出すな」
リオンは、冷徹に命じる。
「あの『怪人』の戦闘能力は、並の衛兵では対処できん。この情報は、即刻アルフォンス殿下に進言する」
(父上の仰せの通り、王家の力も利用し、公爵家の名において、確実に『処理』する)
リオンは、忌まわしい姉の顔を思い浮かべ、その口元に、氷のような笑みを浮かべた。
包囲網は、確実に狭まっていた。
一方、その頃。
王立貴族学園、秘密のアジト(書庫)。
重苦しい沈黙が、古い紙の匂いと、微かな消毒液の匂いと共に、三人の少女を圧していた。
パチン、とクラリッサが医療器具を置く金属音が、やけに大きく響く。
イグニアは、椅子に座らされ、唇を血が滲むほど噛み締めていた。
白く巻かれた包帯が、だらりと吊られた右腕を痛々しく固定している。それは彼女の失態の、動かぬ証拠だった。
「……ごめん。油断、した」
絞り出した声は、彼女らしくもなく弱々しく、自分自身でその響きに吐き気を催すほどだった。
「一人で戦える相手ではありません!」
エステルが、悲痛な声で叫ぶ。その同情が、イグニアのプライドをさらに抉った。
「なぜ、助けを呼ばなかったのですか!? あの怪人は、私たち三人が揃わなければ…!」
「うるさい!」
イグニアが、エステルの言葉を振り払うように吼えた。
「私だって…! 次こそは…!」
「次はありません」
クラリッサの、氷のように冷たい声が、イグニアの激情を遮った。
「イグニア。貴女は、敵に貴重な戦闘データを与えた。そして、自ら戦線を離脱した。…その怪我では、本来の力は出せないでしょう。しばらくは静養してください」
「待ってくれ!」
イグニアは、無事な左手でテーブルを叩き、立ち上がろうとする。
だが、右肩に走る鈍い激痛に、顔が歪んだ。
「腕の一本くらい、なんとでも…!」
「なりません」
クラリッサは、イグニアの反論を、首を横に振るだけですべて拒絶した。
「……っ」
イグニアは、言葉に詰まり、再び椅子に崩れ落ちる。
エステルも、それ以上何も言えず、気まずい沈黙がアジトを満たした。
その、張り詰めた空気を破ったのは、扉を突き破るように飛び込んできた、白い影だった。
「フィーッ! 大変ですぞ!!」
聖晶獣フィラートが、これまでにないほど慌てた様子で、三人の中心に飛び降りる。
「ロザリア(怪人)のアジトが、わかったようですぞ!」
「「!?」」
三人の視線が、一斉にフィラートに集中する。
「どこだ!?」
イグニアが、折れた腕の痛みも忘れたかのように叫んだ。
「今、リオン様がアルフォンス王子に報告していました!」
フィラートは、息も継がずにまくし立てる。
「『怪しげな仮面の女と、旅装束の女。二人連れがアジトにしている安宿を突き止めた』と!」
「なっ…!」
「王子も、公爵家の情報部とは別に、近衛騎士団の一部を援軍として出すようですぞ! かなりの大事になってきました!」
「よし!」
イグニアは、今度こそ椅子を蹴立てて立ち上がった。
「俺たちも行くぞ!」
「あなたは留守番です」
クラリッサが、イグニアの無事な方の肩に、有無を言わさぬ強さで手を置いた。
「ふざけるな!」
「フィラート」
クラリッサは、激情に顔を歪ませるイグニアを無視し、聖晶獣に命じる。
「イグニアを(物理的に)見ていてちょうだい。一歩もここから出さないように」
「フィー!(御意!)」
「待て! 離せ、この白イタチ!」
フィラートがイグニアの頭にしがみつく。
イグニアが、不満と焦燥に満ちた顔で、クラリッサを睨みつけた。
クラリッサは、一度だけ、小さくため息をついた。
そして、エステルに向き直る。
「エステル。私たちも行きます」
「え…? 私たちも、ですか?」
「ええ。王子たちの『捕物』を、見学に行きましょう」
クラリッサの、秩序を司る冷徹な瞳が、アジトの薄暗い光を反射していた。
「もし、あの『怪人』が、その包囲網を破って現れたら——」
「——今度こそ、私と貴女の二人で、対処します」




