第33話:赤の焦燥と、日曜朝の作法
イグニアは不機嫌だった。
あの日、リオン・ヴェルデの馬車を(結果的に)半壊させて以来、アジトである学園の秘密書庫に戻るたび、クラリッサの視線が突き刺さる。
それは単に冷たいのではない。氷の破片のように鋭く、イグニアの存在そのものを断罪していた。
『この馬鹿!』
鼓膜ではなく、頭蓋の内側に直接響く叱責。
『民間人ごと馬車を吹っ飛ばしたら、どうするつもりだったのですか! 優先順位も判断できないなら、貴女は「秩序の砲火」ではなく、ただの「制御不能な放火魔」です!』
「……チッ」
乾いた舌打ちと共に、拳が書庫の石壁を打つ。
鈍い痛みが腕を走るが、胸の内側で酸のように逆流する焦燥感に比べれば、物の数にも入らない。
言い返せない。一言も。それが何より、イグニアを苛立たせた。
正論だからだ。
エステルは、あの怪人に(結果的に)守られた。
私だけが、また失敗した。
あの怪人は、二度も私の指の間からすり抜けた。
私だって、二人を見返したい。私を、頼ってほしい。
「(あの怪人は、リオンを狙ってる)」
その思考は、この数日間の屈辱の中で研ぎ澄まされた、唯一の光明だった。
ならば答えは一つだ。
「(リオンの側にいれば、必ずまた現れる…!)」
数日後の放課後。王立貴族学園。
イグニアは、生徒会室棟の屋上、冷たいスレートの上に身を伏せていた。
夕闇が学園を紫に染め上げる中、眼下を豪奢な馬車が滑り出す。ヴェルデ公爵家の紋章。
そして、その馬車を城壁のように囲む、屈強な護衛騎士たち。以前の三倍はいるだろう。
「(チッ、厳重すぎだろ…。これじゃ手が出せないか)」
焦りが、爪先で屋上の縁を削らせる。その、瞬間。
ゾクリ、と。
音も、風も、光もなかった。
ただ、肌が粟立つような濃密な『圧』が、イグニアの背中に注がれた。
(この気配…!)
先日の馬車襲撃の時とは違う。希薄な殺意ではない。もっと濃い。
あの学園の中庭で初めて遭遇した、あの悍ましい『混沌』の気配そのものだ。
視線は、リオンの馬車ではない。
この屋上にいる、イグニア自身に向けられている。
(私を、見ている…?)
(まさか、アイツ(怪人)か!?)
怒りよりも先に、歓喜が来た。
イグニアの口元が、獲物を見つけた獣のように好戦的に吊り上がる。
(リオンが本命じゃない。私(魔法少女)を偵察しに来た…!)
好都合。
彼女は、わざと人気の無い、戦闘に都合のいい廃墟地区(空き地)へと、屋根を伝って一気に跳躍した。
「(お、動いた)」
同時刻。
別の建物の影で、仮面姿の私は、この数日間の「お仕事(偵察)」の成果に小さくため息をついていた。
マリエルからの業務命令は、「あの赤いの(イグニア)を一人でいる時に狙い、戦闘データを取ってこい」。
(ようやくアジトから出てきたわね。…ん? あいつ、リオンの馬車をストーキングしてる? 護衛強固すぎて無理筋でしょ…)
私の視線に気づいたのか、イグニアが突如として移動を開始した。
(あれ? こっちに気づいた? いや、違う。一人でどこかへ行く…? まさか、私をおびき寄せるための罠?)
私は、バッタの外骨格越しにポリポリと頭を掻いた。
(……いや、好都合だわ)
(こっちから仕掛ける手間が省けた。向こうが「戦闘」する気なら、こっちは「偵察(お仕事)」に徹するだけ。これぞ完璧なサボタージュ!)
私は、イグニアの分かりやすい挑発に乗り、音もなくその影を追った。
王都の片隅。
再開発から取り残された、瓦礫と雑草だらけの空き地。
月が昇り始め、その冷たい光が、瓦礫の山の上に立つイグニアの赤い髪を、まるで血のように濡らしていた。
静寂が支配する。
「もういいだろ!」
イグニアの鋭い声が、夜気を引き裂いた。
「出てこい、卑怯者! 今度こそタイマンだ…逃がさない!」
その声に応え、崩れたアーチの最も深い闇が揺らぎ、私が音もなく姿を現した。
(うわ、やる気満々…。こっちはデータ取るだけで、さっさと帰ってマリエルに報告書(言い訳)提出したいんだけど)
「やっぱりお前か!」
イグニアは、私が逃げる隙すら与えないとばかりに、懐から輝くブローチ(仮)を取り出した。
「秩序の炎よ、我が身に宿れ!」
(あ)
「『秩序の砲火』!!」
(うわあああああ! 始まった!)
私の目の前で、前世(佐藤 葵)が日曜の朝にブラウン管越しに見ていた、あの「お約束」が展開される。
(本物だ! 日曜朝の、あの変身シーケンス(バンク)だ!!)
イグニアの身体が光の奔流に包まれ、制服が粒子に分解され、炎の意匠をまとった戦闘服へと再構築されていく。
(光が! 謎のシルエットが! 服が!)
私の思考が、別の意味でフリーズする。
(……ていうか、これ、待ってなきゃダメなやつ? 今、攻撃したらどうなるの?)
深刻な、職業倫理上の問題だった。
(この世界の『暗黙のルール』が分からない! 攻撃したらマナー違反? 卑怯者認定される? いや、でも敵同士だし…)
だが、しかし。
(いや、でも、これを邪魔するのは人として、いや、怪人としても許されない気がする…! 頑張れイグニア!)
私は、敵であるにも関わらず、その「お約束」を神妙な面持ちで(若干の感動を覚えながら)最後まで見守った。
これは業務だ。いわば、会議が始まる前の「セットアップ時間」だ。私は待つ。
「ふぅぅ……!」
変身を完了したイグニアが、炎の杖を構える。
凝縮された熱気が、周囲の空気を陽炎のように揺らした。
「今度こそ、借りを返させてもらう!」
(あ、会議が始まる)
イグニアは、開幕から全力の大技を放った。
「クリムゾン・フレア・アロー!」
馬車ほどもある巨大な火球の矢が、夜闇を切り裂き、私を焼き尽くさんと迫る。
私は、バッタの脚力で、体幹だけを最小限に反らして回避する。
(ドガァァン!!)
私の背後にあった廃ビルが、派手な音を立てて半壊した。
(うわ、危な。…OK、データ取れた)
私は、マリエルへの「報告書」を脳内で作成し始めた。
【戦闘データ報告(対イグニア)】
分析①: 攻撃は遠距離・広範囲の炎熱系。一発の威力は絶大だが、発動前のタメ(詠唱)が長い。
分析②: 回避行動が雑。完全に『撃ち合い』前提の動きで、近接戦(私)に持ち込まれたら詰むタイプ。
分析③(結論): 多分、この子、一人で戦う設計になってない。
(これ、三人のチーム戦が前提だわ)
二射目を回避しながら、確信する。
(前衛のエステルが敵を拘束し、クラリッサが防御し、その隙にイグニアが遠くからコレ(大魔法)を撃ち込む。それが正しい『運用』)
(なのに、一人で突っ込んできて、至近距離で大魔法を撃ってる…。これ、完全に『運用ミス』よ)
(ああ、もう。見ててイライラする! 営業部の人間が、納品前のサーバー(本番環境)を直接イジってるようなもんだわ!)
イグニアは、必殺の攻撃が涼しい顔で避けられ続けていることに、明らかに焦り始めていた。
「避け(よけ)てばかりいないで、かかってこい!」
「(内心)いや、もうデータ取ったから帰りたいんだけど…。どうやって『いい感じに』撤退しようかな…」
私が「適当な撤退理由」を考え始めた、その「余裕の態度」が、イグニアの張り詰めていたプライドの最後のタガを、無慈悲に外した。
「……舐めるなァァァ!!」
(あ)
空気が変わる。
制御された魔力ではない。奔流だ。
イグニアが、本来は制御すべき魔力を、怒りに任せて暴走させ、本気で私を殺しにかかる。
その瞳は、もはや「秩序」ではなく、純粋な「激情」に染まっていた。
(ヤバい。これ、サボタージュの範疇超えた)
(「お仕事」じゃなくて、「労災」になるやつだ——!)




