第32話:王子の目と、盗聴する獣
翌日。王立貴族学園の生徒会室は、昨夜の惨劇が嘘であったかのように、完璧な静謐と秩序に満ちていた。
磨き上げられたマホガニーの長テーブルが、分厚いカーテンの隙間から差し込む光を鈍く反射している。
壁一面の書棚は、一冊の乱れもなく知性の壁を構築している。
そして、その全てを統べるかのように、第一王子アルフォンスは席に座っていた。
彼の前には、二人の生徒が立っている。リオン・ヴェルデと、エステル・ブライトン。
「リオン、そしてエステル。昨夜は恐ろしい目に遭ったと聞いた。二人とも、怪我がなくて何よりだ」
アルフォンスの口調は、完璧な生徒会長であり、完璧な友人としての「気遣い」に満ちていた。
その碧眼は、心からの憂慮を湛えているように見える。
「ご心配をおかけしました、殿下。私は、問題ありません」
エステルが、淑女として完璧な礼で応じる。
その肩には、彼女が最近飼い始めたという「翼の生えた白いイタチ(フィラート)」が、この厳格な空間に似つかわしくないほど行儀よく乗っていた。
「殿下」
リオンが、その柔らかな空気を遮った。
彼の声には、昨夜の混乱など微塵も感じられない、平素通りの冷たさだけがあった。
「これは『事故』ではありません。明確な『襲撃』です。…そして、襲撃犯は、目的を口にしました」
アルフォンスの碧眼が、わずかに細められる。
室内の温度が一度下がった。
「目的、だと?」
「はい。『公爵、夫人、そして私を暗殺し、公爵家の財産を奪う』と」
しん、と室内が静まり返る。
エステルが(そんな恐ろしいことを…)と息を呑む、微かな音が響いた。
「……財産、か」
アルフォンスは、デスクの上で指を組む。
「政敵による権力闘争ではない。貴族の面子を潰すための嫌がらせでもない。ただ、『財産』。…リオン。その動機から、犯人の背後関係に何か推測は?」
その瞬間、リオンの視線が、同席しているエステルに向けられた。
それは一瞬だったが、彼の瞳には、明確な「躊躇」——いや、それは、ヴェルデ公爵家の「恥部」を、部外者の前で晒すことへの「侮蔑」が浮かんだ。
リオンは、言葉を濁す。
「……殿下。その件に関しましては、ヴェルデ公爵家の、極めて『内部的』な問題を含む可能性がございます。この場で軽々しく…」
リオンの言わんとすることを、アルフォンスは一瞬で察した。
(…なるほど。あの『件』か)
彼は、完璧な、そして一切の温度を感じさせない生徒会長の笑みをエステルに向けた。
「…そうか。すまない、エステル。これ以上は、被害者である君に聞かせるべき話ではないな。君の報告は十分だ、下がって休んでくれ。昨夜のことで、まだ動揺も残っているだろう」
エステルは(リオン様が、何かを隠した…!)と察したが、王子のその完璧な「配慮」の前では、淑女として意図を汲むしかない。
「はい、殿下。ご配慮、痛み入ります。…リオン様も、どうかご無理なさらず」
彼女が立ち上がり、一礼した、その時。
エステルの肩に乗っていたフィラートが、ぴょん、と軽やかに飛び降りた。
そして、アルフォンスの執務机の隅、日当たりの良い場所にちょこんと座り込み、小さな、無防備なあくびをした。
「あら、フィラ? 帰りませんの?」
「フィ?」
完璧な「ただの愛らしい獣」の鳴き真似だった。
アルフォンスが、穏やかに笑う。
「構わんよ。私の部屋の調度が気に入ったようだ。それに、私もこの小動物には癒されている。君が戻るまで、私が預かっておこう」
エステルは「御意」と頷き、一礼して退室する。
リオンは、姉が執着していたあの「メイド」を思い出し、(ペットごときに…)と、内心で動物という存在の非論理性を(少し)侮蔑した。
……パタン。
重厚な扉が閉まり、室内の空気が「政治」のそれに変わった。
光の粒子までが重くなったように、空気が張り詰める。
「さて、リオン」
アルフォンスの声から、全ての「気遣い」が剥離している。
「『内部的な問題』とは?」
リオンは、もはや躊躇なく、父と導き出した、忌まわしい推論を開示した。
「…殿下には、かつて『姉』の件で多大なご迷惑をおかけしました」
「……」
「『公爵家の全員が死ねば、財産が手に入る』…そう信じるであろう『愚か者』が、我が家には一人おりました。父と私の推論は、一致しております」
アルフォンスの顔が、冷ややかに陰る。
「…ロザリア、か。あの『失敗作』が、逆恨みの果てに『怪人』を?」
「御意」
リオンの声には、隠しきれない嫌悪が、まるで口の中に汚物を含んだかのように滲む。
「父より、公爵家の情報部(暗部)を動かし、『姉』および、姉と共に追放されたメイド『マリエル』の捜索を命じられました」
——マリエル。
その単語が発せられた瞬間、机の隅、温かい日向で寝たフリをしていた聖晶獣フィラートの耳が、ピクリと、誰にも気づかれぬほど微かに動いたのを、二人は知る由もなかった。
(……フィ! クラリッサの推論と、一致したですぞ!)
アルフォンスは静かに立ち上がり、窓の外——彼がやがて治めるべき王都の景色を見下ろす。
「リオン。それはもはや『君の家の問題』ではない。王都の『秩序』を脅かす大問題だ」
彼は、リオンに向き直る。その目は、生徒会長ではなく、「次期国王」のものだった。
「君の調査に、私の権限で最大限の便宜を図ろう。…掴んだ情報は、すべて私にも報告するように」
「はっ。御意に」
かくして、役者は揃った。
秩序を守るため、失われた(と信じる)姉を断罪せんとする者。
秩序そのものとして、『混沌』の怪人を討滅せんとする者(魔法少女)。
そして、王家の『秩序』を維持するため、その両方を監視し、制御下に置かんとする者。
その全てを掌で転がし、歪んだ信仰の果てに『門』を開かんとする者。
王都を舞台にした、それぞれの「正義」と「狂気」が、今、一つの標的——ロザリア・ヴェルデへと収束する。
だが、当の標的は、この時まだ、いかにして次の業務を成功させ、理不尽な上司からの百合的侵食を回避するかに、全神経を集中させていた。
「さあ、バッタちゃん」
安宿の窓辺。
マリエルが、夜の王都を見下ろし、恍惚と微笑む。
「世界に『ご褒美』をあげる時間よ」




