第31話:公爵家の結論
ヴェルデ公爵邸の当主執務室。
そこは、音が吸い込まれる空間だった。
窓から差し込む光さえ、分厚い絨毯に落ちてその鋭さを失い、磨き上げられた黒曜石のデスクの上でだけ、冷たく反射している。
父、ヴァルカン・ヴェルデ公爵は、分厚い決裁書類の山から顔を上げていなかった。
万年筆が紙を引っ掻く、乾いた音だけが、部屋の冷たい空気を震わせている。
「……入れ」
許しを得て、リオンは一分の隙もない姿勢で父のデスクの前に立つ。
昨夜の襲撃で制服に付着したはずの僅かな埃は、当然のごとく完璧に払い落とされている。
この執務室に「不純物」や「混乱」を持ち込むことは許されない。
「ご報告します、父上。昨夜、帰宅途中の馬車が襲撃を受けました」
万年筆の音は、止まらない。
父はまだ、書類の上の数字を処理している。
「護衛は」
「二名。……瞬殺されました。相手は、常軌を逸した跳躍力と筋力を持つ『怪人』でした」
カリ、と。
万年筆の音が、初めて止まった。
ヴァルカンはゆっくりと顔を上げた。
その冷徹な黒い瞳が、初めて息子を真正面から射抜く。それは、報告書の「エラー」を見つけた管理者の目だった。
「……怪人、だと? リオン。私はお前に、夢と現実の区別がつかなくなるような教育をした覚えはない。報告は正確に」
「事実です」
リオンは、父の圧力を真っ向から受け止めた。
この部屋では、感情的な動揺は無能の証とされる。
「そして、その『怪人』は、明確な殺意と目的を口にしました」
「……ほう」
「『公爵、夫人、そしてリオン(私)を暗殺し、公爵家の財産を奪う』と」
執務室に、沈黙が落ちた。
それは思考の沈黙だ。万年筆の音も、呼吸の音さえも消え、ただ二つの冷徹な知性だけが存在していた。
ヴァルカンは、指を組む。
彼が「結論」を導き出す際の癖だった。
「……財産、か」
ヴァルカンの声は、嘲笑すらない、絶対零度の分析だった。
「政敵の仕業ではないな。奴らが狙うのは『地位』であり『利権』だ。こんな単細胞な『強奪』は選ばん。第一、そのような『怪人』という不確定要素を運用できる組織など、聞いたことがない」
「では、単なる強盗団が…」
「あり得ん」
ヴァルカンは、息子の仮説を即座に切り捨てた。
「その理屈が通るのは、リオンお前一人が狙われた場合だ。だが、私と夫人まで含め、『全員を殺して財産を奪う』? それは、正当な法の手続きを知らぬ、愚か者のだ」
彼は、公爵家の全員が死ねば、財産は(正当な相続人がいない限り)国庫に帰属するという冷厳な事実を知っている。
「枝を全て払えば、木が手に入ると信じている……短絡的な、子供の夢想だ」
そこで、リオンは、もう一つの「非合理」を、データとして報告する。
「父上。信じ難いことですが、その『非合理』は、もう一つ存在します」
「……何だ」
「その怪人を撃退した、別の『超常の力』を持つ者たちが存在します。彼女たちは『秩序の使い』を名乗っていました」
ヴァルカンの眉が、初めて不快そうに歪んだ。
「……秩序。怪人。王都も随分と、非合理的になったものだ」
それは、彼にとって「計算外」のノイズ。
彼の世界は、論理と権力だけで構成されている。魔法などという混沌は、彼の整然とした世界を汚すバグにすぎない。
だが、彼はすぐに思考を本題に戻す。
オカルトの対処は王家(アルフォンス王子)の領域だ。彼が対処すべきは、あくまで「ヴェルデ公爵家への直接的な脅威」だ。
「リオン」
「はっ」
「脅威は二つ。一つは、その『怪人』という実行手段。もう一つは、その『使用者』だ」
ヴァルカンは、組んでいた指を解き、黒曜石のデスクを叩く。
それは、審議の終わりを告げる合図だ。
「『公爵家の全員が死ねば、財産が手に入る』……そう信じ、そう願うであろう『愚か者』が、我々の家には一人だけ、いたな」
リオンは、父がどの「不良資産」を指しているか即座に理解し、完璧に整えられた美貌を、隠すことのない侮蔑に歪ませた。
「……『ロザリア(姉)』、ですか」
その名を口にすること自体が、彼の完璧さを汚すかのように、リオンの声には虫けらを見るような嫌悪だけがこもっていた。
「あの『失敗作』が、逆恨みの果てに?」
「可能性だ」
ヴァルカンは冷たく言い放つ。
彼の世界では、可能性は即ち、対処すべきリスクだ。
「だが、害虫は、可能性の時点で駆除する。それがヴェルデ家の統治だ」
彼は、リオンに向き直る。これは「命令」だった。
「リオン。公爵家の情報部(暗部)を動かせ。お前に指揮権の一部を与える」
「……御意」
リオンの背筋が、喜悦に微かに震えたのを、ヴァルカンは見逃さなかった。
「任務は二つ。一つ、その『怪人』と『秩序の使い(魔法少女)』の正体と所在を掴め。これは『脅威』そのものの特定だ」
「二つ」
ヴァルカンの目が、さらに冷たくなった。
「勘当した『ロザリア』、そして、あの女が執着していた『メイド(マリエル)』の現在の足取りを、徹底的に洗え。これが『脅威の根源(使用者)』の特定だ」
「結果を待つ」
父の決定(結論)は、常に最終通告だ。
リオンは、完璧な貴公子の礼を取った。
その口元には、獲物を見つけた捕食者のような、冷たい笑みが、静かに浮かんでいた。
「御意に」




