第30話:社畜スキルの勝利
王都の安宿。
その一室に、窓枠の形を写し取った月明かりが、埃っぽい床に冷たい矩形を描いていた。
完璧な悪役(と自分では思っている)を演じきった昂奮も冷めやらぬまま潜伏先に戻った私を、マリエルは静かに待っていた。
彼女の影が、月光の中で濃く揺れている。
「……マリエル」
私は、仮面の下で完璧な「報告・連絡・相談」用の神妙な表情を作りながら、あえて声に悔しさを滲ませた。
「報告するわ。……弟の襲撃は、失敗した」
マリエルの空気が、スッと変わる。
彼女の目が、影の中で細められたのが分かった。
「聞きましょう」
「計画通り、護衛を瞬時に排除し、馬車を強襲。弟を追い詰めた。……けれど、あと一歩。本当に、あと一歩のところで、『秩序の使い』…魔法少女の増援が来たわ」
「一人は撃退したけれど、後から二人が合流。三対一では、さすがに分が悪い。やむなく撤退した、というワケ」
完璧な業務報告だ。
「全力を尽くした」「計画は完璧だった」「だが、予期せぬ外部要因(魔法少女)により、やむなく撤退(=失敗)した」。
これならば、この理不尽な上司も、私(佐藤 葵)の責任は問えまい。
しかし、マリエルは、私の予想した「仕方ありません、次こそは」という言葉を口にしなかった。
彼女は、静かな、しかし明確な「不満」をたたえた視線で、私を射抜いていた。
「……バッタちゃん」
「な、何よ」
「貴女の実力なら、リオンを殺すのに、数秒も要らないはずです」
心臓が、冷たい手で掴まれた。
「魔法少女の増援が来る、その『数秒』の間に、なぜ殺さなかったのですか?」
マリエルの静かな声が、部屋の空気を凍てつかせる。
「……もしかして」
彼女がゆっくりと立ち上がる。
その動きに合わせて、床の月明かりが隠され、私の足元に彼女の影が侵食してくる。
まずい。これは、私の社畜人生で何度も経験した、最も危険な「流れ」だ。
「貴女、情けをかけたのではなくて?」
「そ、そんなワケないじゃない! あいつは私を侮辱した弟よ!?」
「では、やる気がなかった?」
「なっ…! やる気なら、あったわよ!」
私の、完璧なはずの弁明は、マリエルの前では意味をなさない。
彼女は、私の言葉(理性)を信用していない。
彼女は、私の——この脆弱な精神(本能)に、直接「尋問」するつもりだった。
マリエルが、私の目の前に立つ。
仮面と顔の間に、彼女の吐息がかかるほどの距離。甘く、そしてどこか金属的な匂いがした。
「……バッタちゃん」
冷たく、細い指が、私の頬(の外骨格)を、そ…となぞる。
その感触が、装甲越しに、中の生身の肌を粟立たせる。
「本当は? …殺したく、なかったんじゃないですか?」
(——ッ!?)
わずかに見上げられた、昏い瞳。
湿り気を帯びた、半開きの唇。
脳が、焼ける。理性が、溶ける。
「嘘は、ついちゃダメですよ…?」
その瞬間、私の喉が、意思に反して「はい(そうです、殺したくありませんでした)」と、愚かな肯定の音を形作ろうとした。
前世(佐藤 葵)が一度も経験したことのない、致死量の「甘い圧力」。
同時に、元ロザリアの魂が、歓喜の悲鳴を上げた。
「マリエルに褒められたい」「マリエルにすべてを打ち明けたい」と、私の精神(葵)の首を絞めにかかる。
(やめろ…! 答えるな…! ここで「はい」と言ったら、この女の信仰の餌食だ…!)
(これはセクハラだ! パワハラだ! 悪質な精神攻撃だ!)
脳内で、前世(佐藤 葵)の上司(部長)の理不尽な叱責がフラッシュバックする。
『佐藤くん、これ、本当に頑張った? 言い訳にしか聞こえないんだけど』
(——思い知るがいい)
私の社畜スキル——理不尽な圧力に耐え、本心を隠蔽し、最適解(という名の言い訳)を捻り出すために磨き上げられた魂の防護壁が、コズミックホラー(百合)の侵食を、瀬戸際で上回った。
私は、震える喉を無理やりねじ伏せ、マリエルの瞳を(仮面越しに)睨みつける。
「……いや」
「…?」
「いや! 本当にあとちょっとだったんだ!!」
喉から絞り出した、会心の一撃(という名の、悲鳴に近い言い訳)。
私の剣幕(と、おそらくは必死すぎて裏返った声色)に、マリエルは一瞬、きょとんとした。
…そして、私の頬を愛撫していた手を、ゆっくりと離した。
「……そうですか」
マリエルは、まだ不満の残り香を漂わせながらも、一応は頷き、私に背を向けて窓辺へ歩いていく。
………。
………。
(……勝った……)
私は、マリエルに気づかれないよう、仮面の下で、勝利のガッツポーズを(心の中で)決めた。
(勝ったぞ…! 私の社畜スキルが、この狂信者の尋問に勝った…!)
(思い知ったか! これが、理不尽な上司と二十八年間戦い抜いた、私の「実力」だ!)
よくわからない勝利宣言に酔いしれていると、背後からマリエルの冷静な分析が聞こえてきた。
「……あの魔法少女。貴女は『刃』と呼んでいましたね」
「え、あ、うん」
「あの『刃』一体なら、貴女は勝てる。ですが、二体、三体と増えれば、確かに分が悪い」
「そう! そうなのよ!」
マリエルが、月光を背負って振り返る。
その目は、次の「業務」に切り替わっていた。
「計画を変更します。あの『砲火』と『天秤』…残りの二人の力が知りたい」
「え?」
「バッタちゃん。これから、あの二人が『一人』でいる時を狙い、積極的に交戦してください。情報を持ち帰るのが目的です」
「ただし」と、マリエルは人差し指を立てた。
「二対一、三対一になったら、即座に撤退すること。……いいですね?」
願ってもない提案だった。
(戦うフリをして、適当にデータを取って、不利になったら「命令通り撤退します」ができる!)
「……わかったわ。マリエル」
マリエルは、私の「素直な返事」に満足げに頷いた。
そして、イタズラっぽく、小さく笑う。
「ええ、いい子です。…ですが」
「今回は『失敗』。だから、ご褒美は無しですね」
「え——」
その瞬間。
私の「理性(葵)」とは全く関係ないところで、私の顔(ロザリアの肉体)が、カッと屈辱に歪んだ。
(しまった! こいつ、ご褒美(キスとか膝枕)がないと不満なのか!)
(——この裏切り者がァァァァ!!)
次の瞬間、私は、自分の意志で、右の拳を固めていた。
そして、
ゴッ!!
「ぐふぅっ!?」
完璧な右ストレートを、私自身の顔面に、叩き込んでいた。
激痛にのたうち回り、床に差し込む月明かりの中で蹲る。
「何、残念そうな顔してるんだ…この体がァ…! 罰だ…! これが罰だ…!」
「……」
そんな私の奇行(自傷)を、マリエルは、なぜか、少しも咎めなかった。
それどころか、まるで「仕方ない子ですね」とでも言うように、生暖かく、慈愛に満ちた(狂信者の)微笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。
「ふふ。次は、ちゃんと『ご褒美』がもらえるように、頑張るのですよ?」
……この女に、私は一生勝てる気がしない。




